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第五章 遠征する物語とハッピーエンド
花の精と天ぷら(後編)
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◇◇◇◇
「はーい、今日のメニューは金針菜のフルコースですよー!」
珠子の声に一同が『おおお』と盛り上がる。
母屋の中で茨木や熊たちも一緒に食事を取る。
かつての大江山と同じ風景。
だが、その中心に居るのは俺様ではなく、人間の珠子。
珠子がその場で料理をみなにふるまうのだ。
時には今晩のように、その場で作りたてにしながら。
「まずはスープ! 鶏と椎茸をベースに金針菜を一椀にひとつ盛りました」
このスープは鶏の出汁が効いていて、金針菜を噛むとその中から旨みのスープが溢れ出る。
「続いては金針菜のおひたし。やっぱり生なら湯通しした上でのおひたしですよね」
この蕾の中には花開く前の花芯と花粉が入っていて、茹でるとニュルッとしたオクラやジュンサイにも似た食感が味わえる。
出汁の風味と相まって旨い。
「そしてメインは花蕾の天ぷら! カラッっと揚がった食感に揚げ油とは違うほのかな花の甘味。それが活きた一品です」
そうそう、この天ぷらが美味いのだ。
天ぷらにはやはり塩だ。
そして甘味を引き立てるのもまた塩なのだ。
「珠子よ、俺様には天ぷらを多めに頼む」
「はい、かしこまりましたー」
ジジジと音と立てる天ぷらが俺様の前にやってくる。
サクッ
衣が軽い音を立て、その中からザクッシャキッとした食感と甘味が口の中に広がっていく。
「美味いな。やはり俺様はこの金針菜のフルコースの中で天ぷらが一番好みだ」
「ええ、この金針菜は乾燥させると長期保存が可能ですが、生の良い物が手にはいったら天ぷらですよね」
ちょいちょいちょい、と衣を付けながら、珠子はさらに次のを揚げようとしている。
数がかなり多めなのは、俺様だけではなく自分の分も含んでいるのだろう。
「へえ『やはり天ぷらが一番』やなんて、酒呑はどこかでこれを食べたんかいな。ウチらが寝ている昼間に珠子はんが作ってくれたん?」
「いえ、あたしがこの金針菜料理を作ったのは今晩が初めてですよ」
そう言えば妙だな。
なぜ、俺様は食べてもいない金針菜のフルコースの中で、天ぷらが一番だと思ったのだ?
「でもおかしいんですよね。何だかあたし昨日も揚げ物を作ったような記憶があるんですよね。あたしって昨日の晩御飯で何を作りましたっけ?」
珠子の疑問に茨木が熊たちが首をかしげる。
俺様も同じく。
「よく憶えてないクマ―」
「暑さと酒でちょっと記憶が飛んだカナー?」
「でもおいしかったのは間違いないトラ!」
「そうそう、この料理と同じくらいうまかったスター!」
不思議な事もあるものだ。
みなが昨晩の献立を憶えていないとは。
珠子は毎日のように俺様の知らない様々な料理を出してくれる。
その腕は卓越していて、流石『酒処 七王子』の看板娘兼、看板料理人と言われるだけはある。
その珠子が同じ料理を二晩続けて出すなんてあり得ぬ。
みな、昨日は少し飲み過ぎたのであろう。
珠子が勧める酒も美味いからな。
◇◇◇◇
カタン
御簾が床に付く音がする。
風ではない、何者かの気配。
昨晩、誰かに御帳の中にまで侵入された形跡があれば俺様も警戒する。
帳が揺れ侵入者の姿を見た時、俺様の心に浮かんだのは狼藉者への怒りと侮蔑ではなかった。
美しい……
細身の身体はすらりと伸び、その顔は儚、なれどその瞳は大輪の花のようで、それでいて生命力に満ちた気配。
抱けば折れそうな女ではなく、俺様の全てを受け止めても平気で笑いそうな凛とした女。
つまるところ、俺様好み。
「何者ぞ?」
「あなた様に恋焦がれる無力な”あやかし”でございます」
無力だと……
茨木や熊たちの目を盗んでこの母屋に入れる”あやかし”が無力であろうはずがない。
「何用か?」
「恋焦がれる者の望みはただひとつにございます。ほんの一晩、お情けを頂きたく……」
女はそう言って俺様にしなだれかかる。
その花芯と花弁は露で濡れそぼり、甘い吐息が花のような香りで俺様を誘う。
こうも誘われては引くに引けぬ。
小袖の襟をはだけ、女を抱きしめ、そのうなじから耳に向かって俺様は囁く。
「よいぞ、来い」
「はい、嬉しゅうございます」
女は俺様の背中を抱いた腕に力を入れると、そのまま後ろに引き寄せ、俺様に押し倒された。
…
……
………
事が終わり、腕の中で女はこっちを見つめている。
「女、俺様に恋焦がれていたと言っていたな」
「はい」
「いつ俺様に惚れた? 俺様はとんと憶えておらぬ」
これほどの美女ならば出逢っていたなら憶えているはず。
だが、記憶の中にこの女の顔は無い。
「1000年以上前より、ずっとお慕いしておりました」
「そんなに昔か」
”あやかし”と言えども1000年の時は長い。
そんなに長く想いを紡げるなど、茨木くらいだと思っていたが……。
「はい、かつてあなた様は私を見て美しいとおっしゃって下さいました。それからずっと懸想しております」
かつて、俺様は女ならば手当たり次第に口説いた。
人も”あやかし”も出逢う女すべて。
この女もきっとそのひとりだったのであろう。
それを1000年以上も憶えていて、今も俺様を想っているとは……少し可愛らしいではないか。
「女、名は?」
「名などありません。ただの花の精でございます」
「そうか、ならば俺様がお前に名を付けてやろう。そうだな……八重というのはどうだ?」
この女の顔を見た時、心に浮かんだ言葉を素直に俺様は口にした。
「まあ素敵! 嬉しい! ”八重”は果報者にございます!」
俺様の腕の中で手を合わせ、八重が喜びの表情を浮かべる。
「1000年以上の時を経て、あなた様が復活なされた時、本当はすぐにでもお側でお役に立ちたいと思っておりました。しかし、あなた様のお身体の加減は悪く、私ではお役に立てないと思っていました。ですが、今になってやっとお役に立てると思い、参った甲斐がありました」
「役に立つだと? どのようにだ?」
答えはわかっている。
だが、俺様は八重の口からその言葉を聞きたい。
「こうやって……一夜の良き夢を……」
そう言って、八重は俺様の上に覆いかぶさり、その花のような唇で俺様の口を塞ぐ。
八重の唇は蜜の味がした。
俺たちは二度目の褥を重ねた。
◇◇◇◇
朝日が心地よい。
眠りから覚めた俺様の鼻孔をくすぐったのは甘い香り。
昨日も似たような香りを感じたな。
おそらく珠子が香り袋でも用意したのだろう。
あいつは気の利く女だからな。
よし、褒めてやろう。
母様も女子は褒める物だと言っておったからな。
俺様はかつてない最上の目覚めに気分を高揚させ台盤所の扉を開く。
「おはよう珠子! 今日も綺麗だな!」
「あら、お上手ですね。何か良い事でもあったんですか?」
塩漬け豚バラ肉を焼く香ばしい匂いを身にまといながら珠子が言う。
「今日は夢見が良かったのだ。久方ぶりだなスッキリとした目覚めは。これも珠子のおかげだ」
「へ? あたし何かしましたか?」
何も知らぬような口ぶりで珠子がとぼける。
「何かも何も、香り袋を母屋にしたためたのであろう、俺様が安眠できるように。こんな事をするのは珠子しかおるまい」
長年、連れ添っていればわかる。
茨木や熊たちでは、そんな雅な真似はできぬ。
「香り袋? ちょっと失礼しますね」
そう言って珠子は俺の胸元に顔を寄せ、スンと匂いを嗅ぐ。
「この香りは……これと同じ!?」
珠子は台盤所の一角に踵を返すと、そこからひとつのザルを持って来る。
その上には薄緑の中に仄かな黄色が混じった細長い蕾が何本も鎮座してあった。
「やっぱり、その香りはこの金針菜と同じですね」
「そうなのか?」
スッと匂いを嗅ぐと、珠子の言う通り部屋の残り香と同じ物を感じる。
「蕾がこんなに匂うはずがありませんから、きっとこれを持ってきた誰かが酒呑さんの部屋に入ったのではないでしょうか?」
「いや、誰かが御帳の中にまで入ったのなら、俺様が気付かぬはずがない」
「それじゃあ、いったい誰なんでしょうね?」
うーん、と珠子と俺様は首をかしげる。
「しかし、この蕾は何の蕾だ? キンシン何とかと言っておったが」
「それはですね……。酒呑さん、ちょっとお散歩しませんか?」
珠子が俺様の手を取り、庭先に引っ張る。
強引なやつだ。
ま、そこが可愛い所でもあるがな。
「ありました! ほら、あれ!」
台盤所より少し歩いた先に目的の物を見つけ、珠子が指でそれを示す。
そこにあったのは、美しい大輪の花。
黄みがかった橙のユリにも似た花。
「あれです! ヤブカンゾウ! この金針菜はあの花の蕾です」
「……八重」
その花を見た時、俺様の頭に女の顔が浮かび、その名が口からこぼれた。
「ん? 八重ってなんですか? 八重咲きですか? 確かにあの花は八重咲きですけど」
「いや、あの花の名だ。なぜだかわからぬが、口から出た」
「んもう、あたしがさっき教えた事をもう忘れたんですか。あれはヤブカンゾウです。英語名はDaylily。一夜で花がしぼんでしまう事から付けられた名です。ま、実際は2、3日は保ちますけど」
珠子があの花、”ヤブカンゾウ”について説明する。
「ああ! そう言えば思い出しました!」
「何をだ?」
「昨日届いた”勿忘草”の花茶をネットで注文した理由ですよ。このヤブカンゾウを食べようと思ったからです」
「それとこの花とどんな関係があるというのだ?」
「このヤブカンゾウの別名は”忘れ草”というんですよ。その美しさと美味しさで嫌な思い出を忘れさせてくれるという花です。忘憂草とも呼ばれていますね。でも忘れちゃいけない事まで忘れないように、そのカウンターとして”勿忘草”の花茶を買ったんでした」
”忘れ草”、それがこの美しい花の別の名前。
しかし、その反対の勿忘草の花茶を買っておくなど、珠子の考え方には正直ついていけない所がある。
ま、そこも可愛いのだが。
「そういえば、俺様も何かを忘れているような気がする。とても美しい何かを……」
「そうですか、ではおやつの時には勿忘草の花茶をご用意しますね。そうしたらきっと思い出せますよ。そして晩御飯はこのヤブカンゾウの蕾、金針菜のフルコースといきましょう!」
ウキウキと嬉しそうに珠子が言う。
この娘が一番生き生きとするのは、美味しい料理を作っている時と、それを食べている時だ。
あの天ぷらは美味いからな。
「しかし、その蕾を食うのか。何だか気がひけるな」
「ん? どういう意味です?」
「その蕾を食べるのであろう。それでは次世代への種が作れまい」
「ざーんねーんでしたー! そんな事はありません! 酒呑さんも物を知らないですねー」
少し小ばかにしたように珠子はが言う。
「どういう意味だ!?」
「あのヤブカンゾウは3倍体なので結実しません。元々、種を作らない品種なんです」
「そうなのか? ではどうやって増える?」
「自然界では蔓状の茎が地面を這って広がる匍匐枝から新しい根や葉が伸びて増えます。栽培する時は株分けですね」
「そうだったのか。珠子は博識だな」
「へっへっへ、人類の叡智! 本草学の勝利です!」
ザルを片手で掲げ、決めポーズをするように珠子が言う。
何度か見た、愉快で少し頼もしい姿。
「しかし何故、あの花は結実せぬとわかっておきながら、花を咲かせるのだろうな」
「さあ? そうデザインした神様の真意はあたしにはわかりません。が……」
「が?」
「きっと、あの花は”美しくありたい”と思っているから、あんなに美しい花になるんじゃないでしょうか。その美しさが誰かを幸せに、ハッピーエンドに導くものだと信じて。うん、ちょっとロマンチックですね」
そういえば……あの平安の頃の最期の記憶。
それは、あの花と同じ美しい花の姿であった。
「株分けといったな」
「はい、根の一部を切り取って、別の場所に植え替える方法です」
「なら、あの花は平安の頃よりあそこにあったのと同じ花なのか? 子孫ではなく」
「そうですね。ヤブカンゾウは全てが同じ個体とも言えます」
「そうか、ならば、あの花もきっと平安の頃から、いや、もっと昔からあそこにあったのかもしれんな。その美しさを誰かに認めてもらいたくて、その美しさを褒めた誰かを待ちわびて」
なぜ”待ちわびて”という言葉が口から出たのかはわからない。
その理由はもう忘れてしまった。
「あら、酒呑さんはやっぱりロマンチストですね」
「茨木には言うなよ。恥ずかしい」
こう見えても、俺様は京の町を震撼させた大妖怪”酒呑童子”なのだ。
強面でなくては威厳が保てぬ。
「はーい、今の酒呑さんの発言はこの忘れ草を食べて忘れまーす。ですので、下ごしらえを手伝って下さいね」
「しょうがないやつだ。茨木と熊たちには内緒だぞ」
そう言って俺たちは笑いあった。
この秘密も俺たちは明日にはすっかり忘れているだろう。
きっと、この事を憶えているのは、あの美しい花だけなのだ。
その晩の忘れ草のフルコースは美味だった。
少々飽きが来ていたような気がしたが。
◇◇◇◇
夢……夢をみている……
俺様が頼光と戦った、かつての夢。
だが、彼の顔を俺様はもはや思い出せない。
それは遠い記憶の彼方。
代わりに心に浮かぶのはひとりの女の顔。
あの日見た美しい花、お前の名を俺様は憶えていない。
だが、お前が美しき大輪の花の精である事は知っている。
そしてまた俺様は安らかな気持ちで眠る。
朝に身体に残る花の香の由縁を忘れて。
「はーい、今日のメニューは金針菜のフルコースですよー!」
珠子の声に一同が『おおお』と盛り上がる。
母屋の中で茨木や熊たちも一緒に食事を取る。
かつての大江山と同じ風景。
だが、その中心に居るのは俺様ではなく、人間の珠子。
珠子がその場で料理をみなにふるまうのだ。
時には今晩のように、その場で作りたてにしながら。
「まずはスープ! 鶏と椎茸をベースに金針菜を一椀にひとつ盛りました」
このスープは鶏の出汁が効いていて、金針菜を噛むとその中から旨みのスープが溢れ出る。
「続いては金針菜のおひたし。やっぱり生なら湯通しした上でのおひたしですよね」
この蕾の中には花開く前の花芯と花粉が入っていて、茹でるとニュルッとしたオクラやジュンサイにも似た食感が味わえる。
出汁の風味と相まって旨い。
「そしてメインは花蕾の天ぷら! カラッっと揚がった食感に揚げ油とは違うほのかな花の甘味。それが活きた一品です」
そうそう、この天ぷらが美味いのだ。
天ぷらにはやはり塩だ。
そして甘味を引き立てるのもまた塩なのだ。
「珠子よ、俺様には天ぷらを多めに頼む」
「はい、かしこまりましたー」
ジジジと音と立てる天ぷらが俺様の前にやってくる。
サクッ
衣が軽い音を立て、その中からザクッシャキッとした食感と甘味が口の中に広がっていく。
「美味いな。やはり俺様はこの金針菜のフルコースの中で天ぷらが一番好みだ」
「ええ、この金針菜は乾燥させると長期保存が可能ですが、生の良い物が手にはいったら天ぷらですよね」
ちょいちょいちょい、と衣を付けながら、珠子はさらに次のを揚げようとしている。
数がかなり多めなのは、俺様だけではなく自分の分も含んでいるのだろう。
「へえ『やはり天ぷらが一番』やなんて、酒呑はどこかでこれを食べたんかいな。ウチらが寝ている昼間に珠子はんが作ってくれたん?」
「いえ、あたしがこの金針菜料理を作ったのは今晩が初めてですよ」
そう言えば妙だな。
なぜ、俺様は食べてもいない金針菜のフルコースの中で、天ぷらが一番だと思ったのだ?
「でもおかしいんですよね。何だかあたし昨日も揚げ物を作ったような記憶があるんですよね。あたしって昨日の晩御飯で何を作りましたっけ?」
珠子の疑問に茨木が熊たちが首をかしげる。
俺様も同じく。
「よく憶えてないクマ―」
「暑さと酒でちょっと記憶が飛んだカナー?」
「でもおいしかったのは間違いないトラ!」
「そうそう、この料理と同じくらいうまかったスター!」
不思議な事もあるものだ。
みなが昨晩の献立を憶えていないとは。
珠子は毎日のように俺様の知らない様々な料理を出してくれる。
その腕は卓越していて、流石『酒処 七王子』の看板娘兼、看板料理人と言われるだけはある。
その珠子が同じ料理を二晩続けて出すなんてあり得ぬ。
みな、昨日は少し飲み過ぎたのであろう。
珠子が勧める酒も美味いからな。
◇◇◇◇
カタン
御簾が床に付く音がする。
風ではない、何者かの気配。
昨晩、誰かに御帳の中にまで侵入された形跡があれば俺様も警戒する。
帳が揺れ侵入者の姿を見た時、俺様の心に浮かんだのは狼藉者への怒りと侮蔑ではなかった。
美しい……
細身の身体はすらりと伸び、その顔は儚、なれどその瞳は大輪の花のようで、それでいて生命力に満ちた気配。
抱けば折れそうな女ではなく、俺様の全てを受け止めても平気で笑いそうな凛とした女。
つまるところ、俺様好み。
「何者ぞ?」
「あなた様に恋焦がれる無力な”あやかし”でございます」
無力だと……
茨木や熊たちの目を盗んでこの母屋に入れる”あやかし”が無力であろうはずがない。
「何用か?」
「恋焦がれる者の望みはただひとつにございます。ほんの一晩、お情けを頂きたく……」
女はそう言って俺様にしなだれかかる。
その花芯と花弁は露で濡れそぼり、甘い吐息が花のような香りで俺様を誘う。
こうも誘われては引くに引けぬ。
小袖の襟をはだけ、女を抱きしめ、そのうなじから耳に向かって俺様は囁く。
「よいぞ、来い」
「はい、嬉しゅうございます」
女は俺様の背中を抱いた腕に力を入れると、そのまま後ろに引き寄せ、俺様に押し倒された。
…
……
………
事が終わり、腕の中で女はこっちを見つめている。
「女、俺様に恋焦がれていたと言っていたな」
「はい」
「いつ俺様に惚れた? 俺様はとんと憶えておらぬ」
これほどの美女ならば出逢っていたなら憶えているはず。
だが、記憶の中にこの女の顔は無い。
「1000年以上前より、ずっとお慕いしておりました」
「そんなに昔か」
”あやかし”と言えども1000年の時は長い。
そんなに長く想いを紡げるなど、茨木くらいだと思っていたが……。
「はい、かつてあなた様は私を見て美しいとおっしゃって下さいました。それからずっと懸想しております」
かつて、俺様は女ならば手当たり次第に口説いた。
人も”あやかし”も出逢う女すべて。
この女もきっとそのひとりだったのであろう。
それを1000年以上も憶えていて、今も俺様を想っているとは……少し可愛らしいではないか。
「女、名は?」
「名などありません。ただの花の精でございます」
「そうか、ならば俺様がお前に名を付けてやろう。そうだな……八重というのはどうだ?」
この女の顔を見た時、心に浮かんだ言葉を素直に俺様は口にした。
「まあ素敵! 嬉しい! ”八重”は果報者にございます!」
俺様の腕の中で手を合わせ、八重が喜びの表情を浮かべる。
「1000年以上の時を経て、あなた様が復活なされた時、本当はすぐにでもお側でお役に立ちたいと思っておりました。しかし、あなた様のお身体の加減は悪く、私ではお役に立てないと思っていました。ですが、今になってやっとお役に立てると思い、参った甲斐がありました」
「役に立つだと? どのようにだ?」
答えはわかっている。
だが、俺様は八重の口からその言葉を聞きたい。
「こうやって……一夜の良き夢を……」
そう言って、八重は俺様の上に覆いかぶさり、その花のような唇で俺様の口を塞ぐ。
八重の唇は蜜の味がした。
俺たちは二度目の褥を重ねた。
◇◇◇◇
朝日が心地よい。
眠りから覚めた俺様の鼻孔をくすぐったのは甘い香り。
昨日も似たような香りを感じたな。
おそらく珠子が香り袋でも用意したのだろう。
あいつは気の利く女だからな。
よし、褒めてやろう。
母様も女子は褒める物だと言っておったからな。
俺様はかつてない最上の目覚めに気分を高揚させ台盤所の扉を開く。
「おはよう珠子! 今日も綺麗だな!」
「あら、お上手ですね。何か良い事でもあったんですか?」
塩漬け豚バラ肉を焼く香ばしい匂いを身にまといながら珠子が言う。
「今日は夢見が良かったのだ。久方ぶりだなスッキリとした目覚めは。これも珠子のおかげだ」
「へ? あたし何かしましたか?」
何も知らぬような口ぶりで珠子がとぼける。
「何かも何も、香り袋を母屋にしたためたのであろう、俺様が安眠できるように。こんな事をするのは珠子しかおるまい」
長年、連れ添っていればわかる。
茨木や熊たちでは、そんな雅な真似はできぬ。
「香り袋? ちょっと失礼しますね」
そう言って珠子は俺の胸元に顔を寄せ、スンと匂いを嗅ぐ。
「この香りは……これと同じ!?」
珠子は台盤所の一角に踵を返すと、そこからひとつのザルを持って来る。
その上には薄緑の中に仄かな黄色が混じった細長い蕾が何本も鎮座してあった。
「やっぱり、その香りはこの金針菜と同じですね」
「そうなのか?」
スッと匂いを嗅ぐと、珠子の言う通り部屋の残り香と同じ物を感じる。
「蕾がこんなに匂うはずがありませんから、きっとこれを持ってきた誰かが酒呑さんの部屋に入ったのではないでしょうか?」
「いや、誰かが御帳の中にまで入ったのなら、俺様が気付かぬはずがない」
「それじゃあ、いったい誰なんでしょうね?」
うーん、と珠子と俺様は首をかしげる。
「しかし、この蕾は何の蕾だ? キンシン何とかと言っておったが」
「それはですね……。酒呑さん、ちょっとお散歩しませんか?」
珠子が俺様の手を取り、庭先に引っ張る。
強引なやつだ。
ま、そこが可愛い所でもあるがな。
「ありました! ほら、あれ!」
台盤所より少し歩いた先に目的の物を見つけ、珠子が指でそれを示す。
そこにあったのは、美しい大輪の花。
黄みがかった橙のユリにも似た花。
「あれです! ヤブカンゾウ! この金針菜はあの花の蕾です」
「……八重」
その花を見た時、俺様の頭に女の顔が浮かび、その名が口からこぼれた。
「ん? 八重ってなんですか? 八重咲きですか? 確かにあの花は八重咲きですけど」
「いや、あの花の名だ。なぜだかわからぬが、口から出た」
「んもう、あたしがさっき教えた事をもう忘れたんですか。あれはヤブカンゾウです。英語名はDaylily。一夜で花がしぼんでしまう事から付けられた名です。ま、実際は2、3日は保ちますけど」
珠子があの花、”ヤブカンゾウ”について説明する。
「ああ! そう言えば思い出しました!」
「何をだ?」
「昨日届いた”勿忘草”の花茶をネットで注文した理由ですよ。このヤブカンゾウを食べようと思ったからです」
「それとこの花とどんな関係があるというのだ?」
「このヤブカンゾウの別名は”忘れ草”というんですよ。その美しさと美味しさで嫌な思い出を忘れさせてくれるという花です。忘憂草とも呼ばれていますね。でも忘れちゃいけない事まで忘れないように、そのカウンターとして”勿忘草”の花茶を買ったんでした」
”忘れ草”、それがこの美しい花の別の名前。
しかし、その反対の勿忘草の花茶を買っておくなど、珠子の考え方には正直ついていけない所がある。
ま、そこも可愛いのだが。
「そういえば、俺様も何かを忘れているような気がする。とても美しい何かを……」
「そうですか、ではおやつの時には勿忘草の花茶をご用意しますね。そうしたらきっと思い出せますよ。そして晩御飯はこのヤブカンゾウの蕾、金針菜のフルコースといきましょう!」
ウキウキと嬉しそうに珠子が言う。
この娘が一番生き生きとするのは、美味しい料理を作っている時と、それを食べている時だ。
あの天ぷらは美味いからな。
「しかし、その蕾を食うのか。何だか気がひけるな」
「ん? どういう意味です?」
「その蕾を食べるのであろう。それでは次世代への種が作れまい」
「ざーんねーんでしたー! そんな事はありません! 酒呑さんも物を知らないですねー」
少し小ばかにしたように珠子はが言う。
「どういう意味だ!?」
「あのヤブカンゾウは3倍体なので結実しません。元々、種を作らない品種なんです」
「そうなのか? ではどうやって増える?」
「自然界では蔓状の茎が地面を這って広がる匍匐枝から新しい根や葉が伸びて増えます。栽培する時は株分けですね」
「そうだったのか。珠子は博識だな」
「へっへっへ、人類の叡智! 本草学の勝利です!」
ザルを片手で掲げ、決めポーズをするように珠子が言う。
何度か見た、愉快で少し頼もしい姿。
「しかし何故、あの花は結実せぬとわかっておきながら、花を咲かせるのだろうな」
「さあ? そうデザインした神様の真意はあたしにはわかりません。が……」
「が?」
「きっと、あの花は”美しくありたい”と思っているから、あんなに美しい花になるんじゃないでしょうか。その美しさが誰かを幸せに、ハッピーエンドに導くものだと信じて。うん、ちょっとロマンチックですね」
そういえば……あの平安の頃の最期の記憶。
それは、あの花と同じ美しい花の姿であった。
「株分けといったな」
「はい、根の一部を切り取って、別の場所に植え替える方法です」
「なら、あの花は平安の頃よりあそこにあったのと同じ花なのか? 子孫ではなく」
「そうですね。ヤブカンゾウは全てが同じ個体とも言えます」
「そうか、ならば、あの花もきっと平安の頃から、いや、もっと昔からあそこにあったのかもしれんな。その美しさを誰かに認めてもらいたくて、その美しさを褒めた誰かを待ちわびて」
なぜ”待ちわびて”という言葉が口から出たのかはわからない。
その理由はもう忘れてしまった。
「あら、酒呑さんはやっぱりロマンチストですね」
「茨木には言うなよ。恥ずかしい」
こう見えても、俺様は京の町を震撼させた大妖怪”酒呑童子”なのだ。
強面でなくては威厳が保てぬ。
「はーい、今の酒呑さんの発言はこの忘れ草を食べて忘れまーす。ですので、下ごしらえを手伝って下さいね」
「しょうがないやつだ。茨木と熊たちには内緒だぞ」
そう言って俺たちは笑いあった。
この秘密も俺たちは明日にはすっかり忘れているだろう。
きっと、この事を憶えているのは、あの美しい花だけなのだ。
その晩の忘れ草のフルコースは美味だった。
少々飽きが来ていたような気がしたが。
◇◇◇◇
夢……夢をみている……
俺様が頼光と戦った、かつての夢。
だが、彼の顔を俺様はもはや思い出せない。
それは遠い記憶の彼方。
代わりに心に浮かぶのはひとりの女の顔。
あの日見た美しい花、お前の名を俺様は憶えていない。
だが、お前が美しき大輪の花の精である事は知っている。
そしてまた俺様は安らかな気持ちで眠る。
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菱沼あゆ
キャラ文芸
突然の譲位により、若き皇帝となった苑楊は封印されているはずの宮殿で女官らしき娘、洋蘭と出会う。
洋蘭はこの宮殿の牢に住む老人の世話をしているのだと言う。
天女のごとき外見と豊富な知識を持つ洋蘭に心惹かれはじめる苑楊だったが。
洋蘭はまったく思い通りにならないうえに、なにかが怪しい女だった――。
中華後宮ラブコメディ。
鬼様に生贄として捧げられたはずが、なぜか溺愛花嫁生活を送っています!?
小達出みかん
キャラ文芸
両親を亡くし、叔父一家に冷遇されていた澪子は、ある日鬼に生贄として差し出される。
だが鬼は、澪子に手を出さないばかりか、壊れ物を扱うように大事に接する。美味しいごはんに贅沢な衣装、そして蕩けるような閨事…。真意の分からぬ彼からの溺愛に澪子は困惑するが、それもそのはず、鬼は澪子の命を助けるために、何度もこの時空を繰り返していた――。
『あなたに生きていてほしい、私の愛しい妻よ』
繰り返される『やりなおし』の中で、鬼は澪子を救えるのか?
◇程度にかかわらず、濡れ場と判断したシーンはサブタイトルに※がついています
◇後半からヒーロー視点に切り替わって溺愛のネタバレがはじまります
下宿屋 東風荘 5
浅井 ことは
キャラ文芸
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下宿屋を営む天狐の養子となった雪翔。
車椅子生活を送りながらも、みんなに助けられながらリハビリを続け、少しだけ掴まりながら歩けるようにまでなった。
そんな雪翔と新しい下宿屋で再開した幼馴染の航平。
彼にも何かの能力が?
そんな幼馴染に狐の養子になったことを気づかれ、一緒に狐の国に行くが、そこで思わぬハプニングが__
雪翔にのんびり学生生活は戻ってくるのか!?
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イラストの無断使用は固くお断りさせて頂いております。
下宿屋 東風荘 4
浅井 ことは
キャラ文芸
下宿屋 東風荘4
☆.。.:*・°☆.。.:*・°☆.。.:*・°☆.。.:*・°☆*:..
大きくなった下宿に総勢20人の高校生と大学生が入ることになり、それを手伝いながら夜間の学校に通うようになった雪翔。
天狐の義父に社狐の継母、叔父の社狐の那智に祖父母の溺愛を受け、どんどん甘やかされていくがついに反抗期____!?
ほのぼの美味しいファンタジー。
☆.。.:*・°☆.。.:*・°☆.。.:*・°☆.。.:*・°☆*:..
表紙・挿絵:深月くるみ様
イラストの無断転用は固くお断りさせて頂いております。
☆マークの話は挿絵入りです。
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