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変化の訪れ
しおりを挟むそれが15年前になる。もう研究室で勤務していた時間よりも、自宅で仕事を続ける方が長くなっていた。
30歳を超えたミーは、まだ助手として僕のもとで働き続けていた。彼女は自分の都合で休むことは殆どなく、献身的に仕事をこなしてくれた。あまりに働くので、いつ上司に僕のことについて書き連ねたレポートを提出しているのか、未だに分からなかった。
「ミー、君はいつまで助手を続けるつもりなんですか」
仕事中、この話題が気になって質問したことは一度や二度ではなかった。
「さあ、特に決めていません。というか、上の命令ですから」ミーはいつもと変わらず、にべもない。
「結婚の予定は?」
「ありません」
「ボーイフレンドは?」
「いません」
「ここのせいでしょうか?」
「はあ?」
「いや、君はもう私の研究に必須の人材なのですが、それが何かしら君の人生において重荷になっているのでは無いかと思ってですね……」
「先生。私の何を『測り』たいのかは存じ上げませんが、手と口が空いているのなら、来週の報告書の数値資料を早くまとめて欲しいのですが」
僕は慌ててモニタに向かい、この会話は終了になる。毎回、同じだった。
そんな変わらない日常が続いていたある日。僕はいつものように自宅の部屋のPCに向かい、レポートを書いていた。部屋には大きな窓があって、今日みたいに温度が高い日は1日じゅう窓を開けていた。すぐ近くにある海からの風と波の音がやってくる。どちらもいつもより強めに聞こえていた。
大きな一節の文章を見直した所で、僕は椅子の背に寄りかかって大きく体を反らし、強めの伸びをした。口から搾られた息が漏れる。ここ最近、徹夜で学会用の原稿を書いていたりと忙しかった。長年のデスクワークと年齢のせいもあり、関節が悲鳴を上げていた。ようやく大きな仕事が終わって、今はクロージングの作業をしている所、それもあと1セクションで終わる。
僕は顔に眩しさを感じて目を細くした。もう西日がだいぶ傾いている。オレンジ色に染まった陽の光が空から降り注ぎ、海の上を飛びサッシをすり抜け、僕が作業をしている木製のテーブルの上にまで侵入していた。
その様子を何の気なしに眺めながら、僕はふと口を開いた。「夕陽の……沈む時の光の長さはどれくらいでしょうか」思ったことを口にする、子供みたいな独り言。僕にとってそれは笑いとか怒りとかと同じ、とても素直で単純で原始的な欲求の現れだった。
そういえばここ最近、研究に没頭しすぎていたせいで、物を測っていなかった。それすら忘れるぐらいに多忙だったせいだ。助手のミーに「先生、今日も手に何も持っていないですね」と指摘されたばかりだったっけ。
「相棒は?」久しぶりすぎて、置き場所が分からなかった。散々探し回った挙げ句、リビングのソファの上に放置されていた傷だらけの物差しを見つけた。僕はそいつをつかむと、自分の部屋に戻った。
そこで気づいた。机の上に投げかけられていた光が先程より薄く弱まっていた。「あー、待て待て。まだ測り終えていない!」僕は慌てて机の上に走り寄ると、使い込んですり減っていた目盛りを、光の端と端に合わせ、その長さを読み取ろうとした。
ふっと光が消え失せた。ちょうど太陽が、水平線とその上に浮かぶ伸びた雲の中に完全に身を隠したのだ。
その瞬間、僕はふわっと体が持ち上がったような変な錯覚を覚えた。続いてストンと落ちて、スリッパを履いた足が元の跡に戻る。
「ああ、結局間に合いませんでした」軽い失望感を言葉にした。「まあいい……予報では明日も晴れですから」すぐに気持ちは回復した。
直接の照明を失って、部屋は一気に暗くなった。僕は物差しを机の上にポンと放り、再び椅子に腰掛けた。
「さあて、残りを仕上げるとしましょうか。そうすれば明日、原稿を催促されなくて済みます」
モニタから漏れる青い光で顔を照らされる中、僕は背を丸めて再びパソコンの方に手を伸ばした。
――――――
「せ……先生! どうなさったんですか!?」
翌日僕は、キーボードに手を伸ばした格好で固まっているのを、出勤してきたミーに発見された。
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