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セルジュ・アングラードという人
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セルジュ・アングラード。
その名を知らぬものは、この国にはいないだろう。何故なら、彼は類まれなる美貌を持ち、幼少時から天使の異名をも持つ人物。
だが、いつの頃からか――同時に悪魔の獣とも囁かれるようになった。
「リディをあんな男の元に嫁がせるなんて、本当にお父様もお兄様も正気?」
「お姉さま……。お父様もお兄様もどうしようもないかと。何といっても、国王陛下の信頼も厚い三大公爵家のひとつなのですから」
「分かっているわよ。こんなしがない伯爵家が、あちらから申し込まれたらどうことできないってことぐらいは。……でも、あの男は危険過ぎるわ」
ソフィは苛立ったように眉間に皺を寄せて唇をかんだ。
「そんなに悪い方なのでしょうか?」
「はぁ。リディは本当にこういう話に疎いわね。王女様の話を知らないの?」
「王女様? 来年隣国の第二王子に嫁がれるという王女様の話?」
「えぇ、そう。あのお方は表ざたにはされていないけど、3年前にアングラード公爵の婚約者だった方よ」
「そうなのですか⁉」
「公爵は幼い頃からお美しい方だったから、王女様が強く望まれたそうよ。でも、いざ婚約を結ばれた時から、王女様はアングラード公爵に怯えるようになってしまったようなの」
リディにとっては全くの初耳だった。王女様といえば、療養のためにここ数年は地方の離宮で暮らしているという。その美しさに心を奪われた隣国の王子に求婚され、大恋愛の末に結婚という、貴族も庶民も今や大人気の話題の中心人物だ。
そのようなお方が、まさかアングラード公爵と婚約していたとは全く知りもしなかった。
「なんでも『天使の皮を被ったおぞましい獣』『悪魔に殺される』などと大騒ぎして、心の病気になってしまったようなの。それで、すぐに婚約は解消されたそうよ。王都を離れて療養して、ようやく前向きになられたことで新たな婚約が結ばれたらしいわ」
「信じられない……」
「えぇ。でも、実際公爵は先の戦では1人で100人をも倒し、血まみれのなかでうっそりと笑っていたとか。それに、公爵と関りのある人が、ここ1年で何十人も王都を追放されているそうよ。そのなかには心神喪失で自殺に追い込まれた人や姿を消した者、そして秘密裏に殺された者も少なくないそうよ」
悪名高いとは聞いていたが、思わず身震いしてしまう噂話に「えっ、まさか……」と呟く。だが、ソフィはそんなリディに黙って首を横に振った。
「いくら絶世の美貌と公爵位があるとはいえ、王女様のように心を壊したくないものね。花嫁探しが難航していたのだわ。……だから、こんな名前だけの伯爵家に話が回ってきたのよ」
「家なら借金もあるから文句はいえない、ということ?」
「そりゃそうでしょう。じゃなかったら、こんな良い条件あり得ないわ」
「なんだ、やっぱり理由があったのね」
(実際に会ったこともない公爵様……。なぜこんなにも破格の条件が、とも思ったけど、お姉さまの話で納得したわ。全く不安がないといえば嘘になるけど……でも、会ったこともない人に恐怖を覚えることはないわ。だって、想像ができないもの)
「でも、お姉さま。大丈夫よ。いくらアングラード公爵が噂通りの方であろうとも、私はもう決めたもの。私が大切に想う家族や領民のために、私を迎えたいと思ってくれる人の元へ行くのよ」
リディは心の中に渦巻くモヤモヤとした不安を振り払うように首を横に振る。そして、姉を安心させるために微笑みを浮かべた。
「何があっても後悔はしないわ」
「リディ……あなたって子は。本当に変なところで気が強いんだから……」
ソフィは目の前の妹をギュッと強く抱き締めた。すると、自分の背中を優しく撫でる手の温もりに目頭が熱くなるのを感じる。
そしてソフィは心から願った。――この優しく家族思いの妹をどうか不幸にしないでください、と。
「……今なら逃げても大丈夫よ」
「そんなことをしたら、この家もお姉さまの結婚もお終いよ?」
「妹の幸せを壊してまで、自分だけ幸せになんてなれないわ」
「それなら大丈夫よ。私だって幸せになるために嫁ぐのですもの。……それに、全てが悪いわけではないです。あの絵姿、あのように美しい方を近くで見られると考えれば、ね」
リディがいたずらっ子のように笑う姿を見て、ようやくソフィはふっと肩の力を抜いた。
「リディ……えぇ。……そう、よね」
「えぇ、そうです!」
仲のいい姉妹は、それから妹が旅立つまでの数日を惜しむように、毎日寄り添った。時に、幼子のように同じベッドで寝て、夜更けまで語り合った。
だが、リディがアングラード家の馬車に乗り込む直前まで、ソフィはどこか不安そうに瞳を揺らしていた。
そんな姉の姿を思い出しながら、リディは今現実に起きていることをふわふわとした思考のまま受け入れていた。そして、目の前で腕組みをしながら自分を見下ろす人物……目の前で不機嫌そうに腕組みをする公爵らしきクマさんを、目を丸くして見つめていた。
――お姉さま、ひとつ訂正しなければいけません。
お姉さまはセルジュ様を『悪魔』、『おぞましい獣』といいましたが……セルジュ様は決しておぞましくなんてありません。
それどころか、ディタに似たとても可愛らしいクマさんのようなお方です。
その名を知らぬものは、この国にはいないだろう。何故なら、彼は類まれなる美貌を持ち、幼少時から天使の異名をも持つ人物。
だが、いつの頃からか――同時に悪魔の獣とも囁かれるようになった。
「リディをあんな男の元に嫁がせるなんて、本当にお父様もお兄様も正気?」
「お姉さま……。お父様もお兄様もどうしようもないかと。何といっても、国王陛下の信頼も厚い三大公爵家のひとつなのですから」
「分かっているわよ。こんなしがない伯爵家が、あちらから申し込まれたらどうことできないってことぐらいは。……でも、あの男は危険過ぎるわ」
ソフィは苛立ったように眉間に皺を寄せて唇をかんだ。
「そんなに悪い方なのでしょうか?」
「はぁ。リディは本当にこういう話に疎いわね。王女様の話を知らないの?」
「王女様? 来年隣国の第二王子に嫁がれるという王女様の話?」
「えぇ、そう。あのお方は表ざたにはされていないけど、3年前にアングラード公爵の婚約者だった方よ」
「そうなのですか⁉」
「公爵は幼い頃からお美しい方だったから、王女様が強く望まれたそうよ。でも、いざ婚約を結ばれた時から、王女様はアングラード公爵に怯えるようになってしまったようなの」
リディにとっては全くの初耳だった。王女様といえば、療養のためにここ数年は地方の離宮で暮らしているという。その美しさに心を奪われた隣国の王子に求婚され、大恋愛の末に結婚という、貴族も庶民も今や大人気の話題の中心人物だ。
そのようなお方が、まさかアングラード公爵と婚約していたとは全く知りもしなかった。
「なんでも『天使の皮を被ったおぞましい獣』『悪魔に殺される』などと大騒ぎして、心の病気になってしまったようなの。それで、すぐに婚約は解消されたそうよ。王都を離れて療養して、ようやく前向きになられたことで新たな婚約が結ばれたらしいわ」
「信じられない……」
「えぇ。でも、実際公爵は先の戦では1人で100人をも倒し、血まみれのなかでうっそりと笑っていたとか。それに、公爵と関りのある人が、ここ1年で何十人も王都を追放されているそうよ。そのなかには心神喪失で自殺に追い込まれた人や姿を消した者、そして秘密裏に殺された者も少なくないそうよ」
悪名高いとは聞いていたが、思わず身震いしてしまう噂話に「えっ、まさか……」と呟く。だが、ソフィはそんなリディに黙って首を横に振った。
「いくら絶世の美貌と公爵位があるとはいえ、王女様のように心を壊したくないものね。花嫁探しが難航していたのだわ。……だから、こんな名前だけの伯爵家に話が回ってきたのよ」
「家なら借金もあるから文句はいえない、ということ?」
「そりゃそうでしょう。じゃなかったら、こんな良い条件あり得ないわ」
「なんだ、やっぱり理由があったのね」
(実際に会ったこともない公爵様……。なぜこんなにも破格の条件が、とも思ったけど、お姉さまの話で納得したわ。全く不安がないといえば嘘になるけど……でも、会ったこともない人に恐怖を覚えることはないわ。だって、想像ができないもの)
「でも、お姉さま。大丈夫よ。いくらアングラード公爵が噂通りの方であろうとも、私はもう決めたもの。私が大切に想う家族や領民のために、私を迎えたいと思ってくれる人の元へ行くのよ」
リディは心の中に渦巻くモヤモヤとした不安を振り払うように首を横に振る。そして、姉を安心させるために微笑みを浮かべた。
「何があっても後悔はしないわ」
「リディ……あなたって子は。本当に変なところで気が強いんだから……」
ソフィは目の前の妹をギュッと強く抱き締めた。すると、自分の背中を優しく撫でる手の温もりに目頭が熱くなるのを感じる。
そしてソフィは心から願った。――この優しく家族思いの妹をどうか不幸にしないでください、と。
「……今なら逃げても大丈夫よ」
「そんなことをしたら、この家もお姉さまの結婚もお終いよ?」
「妹の幸せを壊してまで、自分だけ幸せになんてなれないわ」
「それなら大丈夫よ。私だって幸せになるために嫁ぐのですもの。……それに、全てが悪いわけではないです。あの絵姿、あのように美しい方を近くで見られると考えれば、ね」
リディがいたずらっ子のように笑う姿を見て、ようやくソフィはふっと肩の力を抜いた。
「リディ……えぇ。……そう、よね」
「えぇ、そうです!」
仲のいい姉妹は、それから妹が旅立つまでの数日を惜しむように、毎日寄り添った。時に、幼子のように同じベッドで寝て、夜更けまで語り合った。
だが、リディがアングラード家の馬車に乗り込む直前まで、ソフィはどこか不安そうに瞳を揺らしていた。
そんな姉の姿を思い出しながら、リディは今現実に起きていることをふわふわとした思考のまま受け入れていた。そして、目の前で腕組みをしながら自分を見下ろす人物……目の前で不機嫌そうに腕組みをする公爵らしきクマさんを、目を丸くして見つめていた。
――お姉さま、ひとつ訂正しなければいけません。
お姉さまはセルジュ様を『悪魔』、『おぞましい獣』といいましたが……セルジュ様は決しておぞましくなんてありません。
それどころか、ディタに似たとても可愛らしいクマさんのようなお方です。
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