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第七章 吉報
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しおりを挟む濘灑洛入宮の報は瞬く間に掖庭宮を駆け巡った。
裴淑妃は、現在、祁貴嬪と手を組んで、遊嗄の廃太子と、燕遙の立太子に向けて動いていたが、今後話が変わってくるだろう。
なにしろ、濘灑洛は、皇帝が皇太子から奪うようにして迎える女だ。第一の寵愛をうけることは間違いないし、家柄についても、実家は名家、濘家である。
(これは……後宮の勢力も、変わるわね)
長い爪を眺めながら、裴淑妃は、けだるげに溜息を吐く。いままで、なんの為に、祁貴嬪を『娘娘』と敬って傅いてきたのだか解らなくなってしまう。
裴淑妃が賜る殿舎は、琉梨殿。掖庭宮の中では大きめの殿舎を賜って居るのは、皇子二人を扶育する為だった。成人までの間、皇子は、母の殿舎で過ごすのが習わしだ。今は二人の皇子……燕遙と凍璃は、それぞれの親王府で暮らしている。
広々とした殿舎は、美々しい調度で飾られているが、それも空しいばかり。琉梨殿を訪れるものは、殆ど居ない。
皇帝が訪れるのは、本当は、皇后が何日、三妃が何日……などという規定があるはずだが、それは表向きのことで、裴淑妃の殿舎を皇帝が訪れたのは、おそらく数年も昔のことだ。
(皇子を産んだと言うのに、私は三妃にも上がることは出来ない……)
淑妃は三妃よりも格下の九嬪である。本来皇子を産めば、三妃である夫人または貴人に封じられるのが妥当である。ところが、祁貴嬪のおかげで、裴淑妃は、淑妃のままだ。
淑妃の身分は……皇帝と同じ陵墓に入ることは出来ないし、帝室の系譜にも三妃までしか略伝は作られない。祁貴嬪ならば『槐花帝貴嬪、祁氏』として入宮までの経緯、入宮してからの動きなどが記された略伝が作られて後世に残る。
九嬪には望めない栄誉だった。
どんなに豪奢な調度に囲まれていても、どんなに美しい衣装で着飾っても、空しいだけだ。ため息混じりに我が身を省みていたところで、窓の外を見遣った裴淑妃は、噂の女―――濘灑洛が侍女も伴わずに琉梨殿に来るのを見た。
「だれか」
侍女を呼んで、「皇太子妃殿下がおいでになるわ。……部屋を片付けておもてなしの仕度をして頂戴」と裴淑妃は命じる。濘灑洛がなんの用があるのか、裴淑妃には全く解らなかったが、人目を避けるように訪れた濘灑洛が、ただの散歩とは思えない。
(義母である祁貴嬪でもなく、伯母である濘夫人でもなく、私のところを訪ねるのだから……なにかあるわ)
裴淑妃は、濘灑洛について、特に思うことはない。
幸運なことに寵を得て、皇宮に上がっても、女に出来るのはそこまでだ。せいぜい、皇帝の為に子供を産むだけ。
「皇太子妃殿下がおいでになりました」
侍女が慌ただしく走ってくる。その、物慣れない態度に苛ついたが、裴淑妃は「お通しして頂戴。それと、茶の仕度を調えたら、お前達は下がりなさい」とあらかじめ指示しておいた。
やがて、濘灑洛は現れた。
優美な、薄紅色の上襦に、下裳は、それより少し色味の濃い紅色。それに被帛。紅の上衣は、瑞鳥が織り出された豪華な衣装だった。
「皇太子妃殿下にお越し頂けるとは、嬉しい限りですわ」
裴淑妃は、絹団扇で顔を覆い隠しながら、ころころと笑う。濘灑洛は、裴淑妃に拱手すると「裴淑妃さまに、拝礼申し上げます」と恭しくかしずいた。
あまり拝礼を受ける機会のない裴淑妃は、この灑洛の態度に、酷く感激していた。皇帝の寵愛を恣にしている女が、しきたりに従って拝礼するのだ。それは気分が良かった。
「まあ、そんなに畏まらずとも……」
上機嫌に裴淑妃は笑う。
「いいえ、裴淑妃さま。夫の葬儀の折は、お見舞いの品まで頂きまして……」
「皇太子殿下のことは、本当に残念だったわ……あなたたちは、似合いの夫婦だったから、本当に痛ましくて溜まらなかったのですよ」
裴淑妃に「ありがとうございます」と受けて、灑洛は勧められるままに座った。床に近い卓子と椅子。ゆっくりと座った灑洛は、裴淑妃にほほえみかける。いままで、殆ど交流はなかったが、と中々素直そうで良い娘のように見える。
今から皇帝の妃嬪になる灑洛が、一番与しやすい裴淑妃と仲間になっておく為に、ここに来たのだろうと、裴淑妃は納得した。それならば、裴淑妃も、やぶさかではない。寵愛に近い所に居れば、そのおこぼれに預かる可能性もあるからだ。
裴淑妃は、優雅な手つきで白磁の器に特別薫り高い茶をいれる。
「ところで裴淑妃さまは……そろそろ、貴人か、貴嬪にでも上がりたくはありませんか?」
出し抜けに、灑洛が言う。裴淑妃は、驚いて、声を出すことも出来なかったが、だが確かに、裴淑妃が抱く望みの一つだった。
(この娘、取引に来たというのね……)
「勿論、上がりたいけれど……あなたが叶えてくれるの?」
「ええ。勿論。……皇帝陛下に、わたくしから奏上するわ……わたくしは、立后します。だから、憂いを断っておきたいの。裴淑妃ならば、解ってくださると思うけれど」
立后―――と言う言葉を聞いて、裴淑妃は、指先が震えるのを感じていた。
いままで、皇帝は、皇后を立てようとはしなかった。
それは、皇帝が、姉にたいする邪恋を引きずっていたからだと、裴淑妃は思って居る。けれど、今、その姉の娘である濘灑洛を後宮に迎え、その主に据えようとしているのだ。
それは、あまりにもおぞましいことだったが―――裴淑妃は、そんなことはどうでも良かった。
(皇宮で必要なのは、生き残る覚悟と、生き延びる勇気よ)
その為にならば、何を犠牲にしても良いだろう。そう、裴淑妃は思う。濘灑洛も、自身が生き延びる為に、皇宮入りを受けたのだろう。それは、濘灑洛にとっても、苦痛の決断だっただろうが―――なにせ、恋い慕っている夫を殺した本人と結婚するのだ―――生き延びる為に受けたのだ。
「灑洛。……あなたにとって疎ましいのは、祁貴嬪かしら?」
濘灑洛は答えず、うっすらと微笑している。もともと、美しい娘だとは、裴淑妃も思って居た。皇帝の姪にあたるので、血筋的にも、美形が生まれやすい。
後宮には一族の中でも厳選した美貌と才知に長けた娘が、皇帝の花嫁として送りこまれているのだ。帝室のものは、一目でそれと解るほどに美しい。灑洛も、その特徴が色濃く出た美貌であった。
ほっそりとした肢体に、白い肌。美しい顔は黒瞳が涙を浮かべたように潤んで輝き、形の良い小さな口唇は、さながら良く熟した茱萸のようだった。柳の葉の形に整えられた眉も、陶器のように白く輝く肌も、どれをとっても、一目見たら二度と忘れることは出来ないほどに、美しい。
「それはそうと」と濘灑洛は唐突に別な話を切り出した。「七月七日の宴の折り……。わたくしが、犬に襲われたことは、覚えておいでかしら」
「え? ……ええ。とても大きくて怖ろしい犬だったわ。あなたも、良く無事で居たこと。皇帝陛下が助けて下さらなかったら、あなたの命はなかったわよ?」
灑洛は「皇帝陛下?」と問い返す。不思議そうな顔をして居た。
「ええ。水に飛び込んで、犬を短刀で一突きして殺してから、そのままあなたを抱きかかえて、寝所へ連れたの。わたくしも、祁貴嬪も、濘夫人も、みんな見ていたわ」
「そうでしたの。わたくし、皇太子殿下が助けたのだと伺っておりましたから。今は、その話は置いておきましょう。裴淑妃、犬ですわ」
「犬? ……私は犬など飼っていませんよ」
裴淑妃は、濘灑洛が何を言おうとしているのかよく解らず、苛立ってきた。
「そう。……裴淑妃は犬を飼っておりません。ですが……燕遙皇子と、凍璃皇子が、犬を飼っていて、あまつさえその犬を、わたくしに、けしかけたのだとしたら?」
濘灑洛は、微笑んでいた。美しい口唇が、細い三日月のように、弧を描く。
「証拠は……、ありまして? 灑洛」
動揺を隠しながら、裴淑妃は言う。
「陛下が、この方向で話を進めています。証拠も、勿論ありますわ。……大変ですわね。二人の皇子が、斬首されるのはともかく、裴淑妃さまも庶人に落とされ、奴隷として働かせるのですって。それから、裴家は族滅だそうよ」
族滅―――一族を残らず抹殺するという、処罰だ。
「ま、さか、そんな……」
「皇帝の寵姫……将来の皇后に対しての暗殺未遂。それに、わたくしを犬に犯させるという噂話を吹聴して、わたくしの名誉を汚したという罪もあって、二人の皇子は助けられない」
濘灑洛の言葉を聞きながら、裴淑妃は、嫌な汗が止まらなかった。
「私は、何をすれば良いの?」
濘灑洛は、先ほど、裴淑妃に『そろそろ、貴人か、貴嬪にでも上がりたくはないか』と聞いてきたのだ。つまり、裴淑妃を生かすという選択があるということだ。
「わたくしの後宮で、私の補佐をして頂きたいの。わたくしは、まだここに来て日も浅い。けれど、後宮の女主人になるのならば……わたくしには、右腕が必要だわ」
「……随分、美味しい話ね」
「その代わり、皇子二人は諦めて貰う」
裴淑妃は、思案した。ここて灑洛の申し出を受けなければ、裴家は族滅。裴淑妃も、死ぬより辛い日々が待っているだろう。
「わかったわ。皇子二人なら安いものよ。……その代わり、裴家と、私の昇進は、保証して頂くわ」
濘灑洛は、ふふ、と微苦笑して「わたくしは、約束は守る女よ。わたくしのほうが、あなたが裏切らないという証が欲しいわ」と言う。その笑顔に怖気を震いながらも、裴淑妃は、意を決した。
濘灑洛に拱手して、告げる。
「これより先、私と裴家があなたをお支えいたします。この言葉に嘘偽りがあれば、天からの冥罰が下り、私を殺すことでしょう。あの神鳥のように」
誓いの言葉を口にした裴淑妃を、灑洛は冷たい目で見下していた。背筋が凍るほどに、美しく怖気を震う眼差しだった。
「神鳥は、殺されたのよ。冥罰ではないわ」
言い捨てて立ち上がる灑洛に、「お帰りでしょうか」と問い掛ける。
「ええ。帰ります―――明日は、臨時の大朝議があります。その席で、あなたは、我が子の為に、一度は庇って頂戴、あとは、任せるわ」
裾を返して去って行く灑洛に向かって、裴淑妃は告げる。
「どうぞ、私をお見捨てなきよう……娘娘」
一瞬、灑洛の足が止まった。少し振り返ると、満足そうに微笑して、灑洛は去って行く。裴淑妃は、大きく溜息を吐いた。裴家を護ること―――が、裴淑妃の命題だが、その為に、息子を切るとは思ってもみなかった。
遊嗄が死んだ今、燕遙は、立太子が待っていると思い込んで、親王府で酒盛りでも開いていることだろう。その、有頂天からたたき落とされるのは哀れだった。
(運のないことね、燕遙。私も、あなたも)
まさか今の祝宴が今生の別れの酒宴とは思って居ないだろう。
ここで報せてやれば、何か、次善の策を練ることが出来たかも知れないが、濘灑洛の出した条件は、破格だった。これを呑んだ方が、裴家の為だ。
「あわれね。私も、お前達も」
この皇宮という、魔物に魅入られたばっかりに。
裴淑妃は、自嘲気味に笑った。
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