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第七章 吉報
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しおりを挟む遊嗄の葬儀を終えたその夜、泣女たち(葬儀の折に、泣き叫ぶ役)が五十人も雇われて、一晩中死を悼むことになっているので、東宮は、悲痛な叫び声で埋め尽くされるようだった。
(わたくしも、あんな風にも泣いて泣いて……声を張り上げて泣きたかった……)
灑洛は、喪の装束である白一色を身に纏いながら、泣女たちの声を聞いていた。
そっと目を伏せ、手を合わせる。心の中で、経文を唱えたのは、何千回目だろう。
(お願い、遊嗄さま……。わたくしと、この子を守って……)
遊嗄の死から、三日。残暑の厳しい折だったので、遊嗄の遺体に逢うことが出来たのは、彼が自殺した当日だけだった。遺体の遊嗄の姿を思い出そうとしても、灑洛が思い出すことが出来るのは、惜しみなく優しい笑顔を向けてくれた、遊嗄の姿で―――。
それを思うと、やはり涙が溢れた。
「今日は、もう休むわ……牀褥の仕度をして頂戴」
呼びかけたが、侍女の姿は消え失せていた。やはり、鳴鈴でないと、勝手がわからないものだと、少々不自由な気持ちを味わいながら、灑洛は牀褥へ向かう。たれ込めている薄い帳を開いた灑洛は、「えっ?」と硬直してしまった。
そこにいたのは、大蛇だった。真っ白で、男の腕ほどもある胴をした、大蛇だ。とぐろを巻き、シャーシャーという嫌な音を立てながら、鎌首をもたげてくる。
「誰か! 誰か居ないのっ!」
必死に人を呼ぼうと叫んだ灑洛は、気がついた。今日は、一晩中、泣女が泣きわめいている。灑洛の声などかき消されてしまう。
(皇帝は、密偵が居ると言ったけれど……)
しかし、周りに人影はない。
ぼとっという重い落下音がしたので顔を向ければ、やはり、そこには、似たような大蛇が落ちており、猛然と灑洛に向かって床を這ってくる。
「い、嫌っ! 来ないでっ!」
言って聞くようなものではない、灑洛は、恐怖に腰が抜けそうになりながらも、必死で走る。今ならば、皇太子の弔いを行っている華臥殿に、人が居るはずだ……。
必死に華臥殿へ向かった灑洛だが、華臥殿にはたどり着かなかった。犬が、居たのだ。大きくて黒い影のような犬だった。かつて、あの犬の襲撃を受けたことを思い出して、灑洛は身体の芯から震え上がる。
(犬に犯され……)という噂話を思い出して、灑洛はぞっとした。おそらく、灑洛が、ここで捕まれば、あの犬に獣姦される。灑洛は、そういうことには詳しくなかったが、そういうことが出来るらしいとは鳴鈴が言っていた。
(逃げなくては)
灑洛は、とにかく逃げた。途中、喪服の白い上衣が邪魔になったので脱ぎ捨てる。これが、犬の身体を包み込んだらしく、鳴き声を上げながら暴れているのが解ったが、振り返らない。
(……もう、どうしようもないわ……)
灑洛は我が身の格好を思い返す。今、眠ろうとして居たところだ。とうぜん、喪の色である、白を着ているが……肌や、身体のラインが透けるほど、薄いものを着ていた。走って逃げる際に、あちこちが汚れて破れているし、酷い格好だ。
(もう、今しかないわ……)
灑洛は、勝負に出ることにした。どうせ、皇帝の元へ行かなければ、未来はない。ここで、皇帝に助けを求めることにしよう。
東宮を抜け、灑洛は皇帝の住まいである太極殿へと向かった。ここには、沢山の衛士や宦官が居るはずである。
「どなたか、どなたか、助けて!」
叫びながら灑洛は必死に走る。その様子に気がついた衛士の三人が駆け寄ってきた。
「皇太子、妃殿下?」
掠れた声で、男たちは聞いた。その視線は、灑洛の豊かな胸の膨らみに釘付けだった。
「お願い……わたくしを、皇帝陛下の所まで、連れていって下さいませ……殿舎に、大蛇が二匹。それから、また、犬にけしかけられました。どうぞ、わたくしをお助け下さいませ」
必死に灑洛が訴えると「妃殿下、お気を確かに。只今、皇帝陛下の所へお連れいたします。犬と蛇についても、お任せ下さい」と衛士は快く引き受けてくれたので、灑洛は心底安堵して、身体がくらりと傾いだ。
「少々……こちらでお休み下さいませ。只今、皇帝陛下に、許しを得て参ります」
丁寧に拱手して、衛士は去って行った。休めと言っても、石に腰を下ろせば冷えてしまう。子を宿す女にとって、冷えは大敵だった。どうしようかと立ち尽くしていると、別の衛士が駆け寄ってきて自らの表着を脱いでから、石畳の上に敷いて、灑洛に座るように勧めた。
「けれど……あなたの衣装が汚れてしまいますわ」
そう言って固辞した灑洛だったが「私如きの衣装をなど構いませんよ」と笑って提供してくれたので、有り難く使わせて貰うことにした。
「心ばせに感謝いたします」
丁重に礼を言うと、男は、闇の中でもはっきりと顔を真っ赤にして「いえ、そんな!」と慌てた様子で言って、灑洛から少し離れた。
「犬に追いかけられたとか」
「ええ、前にも犬に襲撃されたことがあって………その時は、皇太子殿下に助けて頂いたから、良かったのだけれど……」
七月七日の宴の折りだ。
水に入って、灑洛を助けてくれたのは、愛しい夫だった。いまは、その夫の葬式の夜だというのが、灑洛には信じられない。
「あの時も、天青堂に犬が入ってきたようだけれど……そんなに簡単に、犬が入ることが出来るのかしら」
「いえ、犬のような生き物は、人を襲いますから、我らは、見つければ入れることがありません。つまり……我々衛士の目をかいくぐって入った犬かと存じます」
衛士の目をかいくぐって……。と灑洛は考える。
「つまり……どなたかが、わたくしに、犬をけしかけたということなのね? わざわざ……」
殿舎は広い。ましてや、東宮に住まう灑洛は、掖庭宮の様子など、解らない。犬を隠れて飼っていたとしても、解るはずもない。
「どなたか……と申しましても、そうとう大きな犬だったと聞いております。そんな大きな犬ですから、女人だけしか居ない所では、飼いづらいのではないでしょうか」
女人だけが住んでいるところ―――後宮である掖庭宮では。
たしかに、大きな犬であっても、世話をしなければならないし、運動をさせなければならない。掖庭宮で、大きな犬を飼っていれば、おそらく、人目に付く。
「では、別の所から来たと言うことなのね?」
「我らの目をかいくぐっておいでになることが出来れば、或いは」
衛士の言葉を聞いた灑洛は、それが出来るものについて、考えを巡らしたとき、あの宴に出席していた者の中で、二人、該当する者が居ることに気がついた。
(もし、犬をけしかけたのが、あの二人ならば……)
灑洛にとって、もはや、都合は良い。
やがて、皇帝へ取り次ぎを頼んで衛士が戻って来た。取り次ぎの結果を聞く必要はなかった。皇帝その人が、夜着を引っかけただけのしどけない姿で、駆けつけたからだった。
一斉に、その場に居た衛士たちが拱手して拝礼する。
灑洛は、拝礼しなかった。
皇帝の腕の中に飛び込んでいって「わたくしをお助け下さいませ!」と縋り付いたのだった。
「灑洛?」
「……東宮にいれば、わたくしは、殺されます。どうぞ、わたくしをお助け下さいませ……」
声が震えた。灑洛から、皇帝を求めたことは、一度もなかった。
(これは、遊嗄さまを裏切ることではない……)
とは思って居たけれど、心の底では、やはり裏切りに等しいのではないかと灑洛自身を責める声が聞こえてくる。
「大蛇と犬に襲われたと聞いた」
「はい……わたくしは、どなたかに、命を狙われているのです……たすけてくださいませ、わたくしは、怖いっ!」
必死に皇帝の胸に縋り付きながら、灑洛は、身体の震えが止まらなくなった。
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