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第七章 吉報
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しおりを挟むしばらく鳴鈴は預かる―――と言った皇帝には、何か特別な算段があるのだろう。
灑洛は、とりあえず承知して居たが、鳴鈴の身は心配だった。勿論、皇帝が、鳴鈴に対して、よこしまなことをするとは思って居なかったし―――鳴鈴自身は、手に入れた『モノ』がなんなのか、理解して居なかっただろうから、何かを聞かれても、灑洛が窮地に立つことはない。
しかし……、夢月殿で一人牀褥に横たわっていると、心にぽっかりと風穴が明いたように空しくて、部屋の中も、寒々しい。こんな時には、鳴鈴の、明るい笑顔が恋しかった。
今は、灑洛は、馴染んだ侍女も居ない。
卓子の上に、やりかけの刺繍の衣装があった。遊嗄が、重陽に着る予定だったものだ。
「どうせ眠れないのだから……刺繍でもやりましょうか」
あと少しで、上衣は完成する。完成したら、遊嗄の墓に一緒に入れて貰おうと、思ったのだ。
色鮮やかな黄色の刺繍糸は、今の気分にはそぐわないが、ぼんやり、牀褥に入っているより、良いように思えた。何しろ、こうして居る間は、ずっと、遊嗄のことを考えられる。
重陽の菊の節句に生まれた遊嗄を、菊花そのもので表現する。一針一針、心を込めて、遊嗄との思い出を縫い込めていれば、時がたつのを忘れた。
遊嗄から、灑洛へ宛てた文は、実は、良く見ていない。あとで、ゆっくり見なければと思って居たが、殿舎へ戻ってくると、今度は、読むのが怖ろしくなった。
(わたくしを、恨んでいらっしゃるのかも知れないし)
もし、遊嗄が灑洛に関わることのない人生だったら―――幸福な一生を過ごし、皇帝として、この游帝国をますます発展させていったことだろう。
それを思えば、灑洛は、遊嗄の一生を台無しにしたようでもあって、とても、文を開けなかった。
(もし、あとを追ってくれ……と書かれていたら)
灑洛は陶然と考える。尹太監がいう庶人のように、夫婦ともに手を取り合って川へ身を投げることが出来たら……どれだけ素晴らしかっただろう。
刺繍は、最後の菊を残すばかりとなった。
(遊嗄の葬儀は、三日と決まったよ。……死因については、病死となった。急に、心の臓がおかしくなったと言うことらしい)
皇帝に告げられた言葉に、灑洛は驚かなかった。皇太子が、皇帝を諫める為に、自死した―――などという、皇帝にとって不名誉極まりない話は―――表には出ないだろう。
(灑洛。今日の独り寝は辛いだろう。私の殿舎へいらっしゃい)
皇帝が誘う言葉を聞いて、灑洛は、正気を疑った。実の息子が、このせいで自殺したというのに、この男は、全く懲りていないのだ。いずれ寝所に上がって、この男に抱かれるとは覚悟していたが、まさか、それが、自殺した当日だとは思わずに、灑洛は絶句した。
(これでは、遊嗄さまは、無駄死にだわ)
丁重に『月のもの』だから……と言い訳して断ったのは、良かった。けれど、この偽りの『月のもの』が終われば、灑洛は、自ら進んであの男の寝所に通わなければならなくなるだろう。
刺繍をしながら、灑洛は、(ごめんなさい)と遊嗄に謝った。それでも、皇帝が不審を抱く前に、皇帝の子を身ごもったことにしてしまわなければならないのだ。
(これは、賭けよ)
灑洛の人生と、子供の人生が掛かった賭けだった。
刺繍の途中で、灑洛は眠り込んでしまったらしい。気がつけば明け方で、灑洛は榻ではなく、牀褥に寝せられていた。
髪を撫でてくれる優しい感触がする。
(遊嗄さま?)
遊嗄が来てくれたのだろうかと、灑洛はその手に取りすがる。行かないで欲しい、戻ってきて欲しいと、切々と訴えていると、手の主は、困ったような声をして、呟く。
「私は遊嗄ではないよ、灑洛」
「へ、陛下……っ?」
皇帝だった。牀褥の端に腰を下ろして、灑洛の髪を撫でていたのだろう。いつもの黒衣ではなく、寛いだ……温かい色合いの上衣を着ていて、灑洛は、似合わないなと、素直に思う。
この、冷酷な男には、黒珠黒衣が一番似合う。
灑洛のほうは、夜着ではなかった。殿舎で過ごすときの衣装を着たまま、灑洛は横になっていた。皇帝が、ここまで運んだのだ。
「遊嗄の上衣を作っていたのかい?」
「はい……」
「そうか」と皇帝は、呟いてから「では、葬式までに完成させて……一緒に葬ってやると良いだろう」などと言う。
「よろしいのですか?」
「ああ……。その代わり、殉死などは出さないようにするつもりだ。陵墓は、いずれ私が入る予定の陵墓があるから、そこへ埋葬することにした。なにか、遊嗄に持たせたいものがあるのならば、尹太監に命じなさい」
皇帝は、そっと立ち上がった。
灑洛も拱手して応じようかと思ったが、皇帝の手が、やんわりと、灑洛を牀褥へ押し戻す。
「あなたは、休んで居なさい……それと、もしも……」と皇帝は言を切ってから言う。「あなたの身に何かあれば、私の密偵たちがあなたの周りには控えているから、その者達に助けを請いなさい」
「わたくしが……、何か?」
「あなたを私の後宮に入れることを反対しているものが多いからね。……親切な者たちが、あなたを遊嗄の所へ送り届けようと、躍起になっているのを、私でも知っている」
つまり、命を狙われていということだ………。灑洛は、腕を抱いた。
「大丈夫だよ、灑洛。あなたの身は、私が必ず守ってみせるからね」
安心しなさい、と言われたが、とても、安心出来なかった。
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