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第七章 吉報
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しおりを挟む「遊嗄さまは、華臥殿においでのはずだわ」
珍しく独り寝をしているはずだった。昨日の朝は―――おそらく、一晩中、灑洛の殿舎である『夢月殿』の前に立っていたのだろう。そのことがあって、灑洛を呼びづらかったのかも知れない。
(それに、今日は、大事な日ですもの……)
遊嗄は、今日の大朝議で、皇帝に奏上するつもりだった。皇帝が、神鳥殺しの犯人だったということを告げるつもりだったのだ。だが、そのもくろみは外れた。皇帝は、灑洛の侍女、鳴鈴を捕らえている。
鳴鈴は―――『犯人』に繋がる有力な情報を持っているのだった。
(今日の日が、どんな結果に転ぶのか解らないけれど……この子のことを考えて下さったら、遊嗄さまは、皇帝陛下を玉座から引きずり下ろすような短慮をなさらないはずだわ)
そうなったとき、灑洛は、どうなるのか解らないが、子を堕ろすつもりはないし、皇帝の召し出しを受けるつもりもない。そして、遊嗄を、凌遅刑にもさせない。
(鳴鈴が持つ切り札がなんなのか、よく知っているのは、わたくしだわ)
それは、念のために入手していたものだった。灑洛自身も、犬をけしかけられたり、殿舎を汚されたり、酷い噂を流されたりしたものだから、万が一のことを考えて、どうとでも使えるようなものを入手しておいた。
それを使えば、遊嗄が凌遅刑になることは避けられる。
だから、皇帝との『取引』事態が、無意味なものになるのだ。
(わたくしが、なんとしてでも、遊嗄さまを守り切る……)
決意を新たにして、灑洛は華臥殿へと足を踏み入れた。
華臥殿は、その名の通り、花が臥せる場所―――寝所として使われる場所なので、優美な調度に囲まれている。灑洛と遊嗄が使うようになってから、新たに作らせたものなどもあって、真珠をあしらった、美しい厨子であったり、螺鈿の卓子だったりしたが、どれも、灑洛を思わせる桃と、遊嗄を思わせる菊の意匠を凝らしている。
(わたくしにとって、桃香娘娘というより、遊嗄さまは、菊の花精ですもの)
しかし、何か―――妙だった。華臥殿には、宦官も女官も侍女も居るはずなのに、人の気配が一切無かった。
「遊嗄さまは……今日は大切な日だから、早めにお支度なさったのかしら……?」
ひとりごちた灑洛の言葉を聞いた、太医が、「そういうこともあるかも知れません。皇太子殿下は、慎重な御方ですので」と言うのを聞いて、確かに慎重な質だけれど……と、灑洛は、腑に落ちない気持ちになっていた。
慎重な質……というのは解る。それはたしかだった。
牀褥のある部屋まで近づくにつれ、灑洛は、胸が早鐘を打っていることに気がついた。呼吸が、浅くなる。嫌な予感がしたのだ。指先が震えて、眩暈がした。下腹部に、そっと手を当てる。
(大丈夫よ……、何でもないわ。わたくしの勘違い……)
昨日の別れしな、遊嗄は妙にさばさばした表情だったのを思い出したのだ。なにかが漂泊されてしまったような、そんな印象を受ける、清冽な空気を纏った遊嗄は、灑洛に微笑して言ったのだ。
『では、来世は、帝室ではなく庶人の夫婦として巡り会おうか』
いまから、散歩にでも行くような気軽な態度で、遊嗄は、皇帝の元へ向かったのだった。
灑洛が嫌な予感を、手で振り払うようにして悶えていると、太医が「妃殿下、お気を確かに」と呼びかけるので、やっと、正気に戻った。
「……そうね、気を待たなくては……私の、妄想なのだから」
だから、この先。牀褥の上で、遊嗄は微睡んでいる。灑洛が起こしに行くと、『あなたが居ないから眠れなかった』と言ってくれて、そして、寝とぼけている夫の頬に、灑洛は口づけをするのだ。
起きて下さいませ、と。わたくし、あなたに、大切なことをお話ししなければならないの、と。
灑洛は、深呼吸して、寝所へと脚を踏み入れた。なにか……饐えたような、妙な匂いが漂っている。
「なにかしら、この匂い……? 果物でも腐らせてしまったかしら」
そういうことは、ここの侍女達は気を配っているはずだった。いつでも、食べ頃の新鮮な果実が用意されており、それらはほんの少しの傷もないように整えられている。大きさや形に至るまで、すべて、同じようなものを取りそろえるのだ。
灑洛は部屋を見回した。
牀帷の垂れ込めた牀褥には、人影はない。遊嗄の姿はなかった。
「おかしいわね。どうしたのかしら、遊嗄さまったら……」
ふと、池渡る風が、そよ、と羅で出来た牀帷を揺らした。そこに、灑洛は、見慣れない影を見た。
「なにか……吊してある……?」
牀帷を吊すのに、華臥殿には、真紅に彩られた美しく太い梁がある。どうやら、そこに、なにかが吊されているようだった。
どくん、と灑洛の胸が跳ねた。
「ま……まさか……っ?」
灑洛は、駆け出す。途中つんのめりそうになって、ゆるやかに風を孕んで優雅に舞う下裳を、たくし上げ、靴を捨てて走り出す。
「妃殿下っ! お体に障ります! お戻り下さいませ!」
太医の金切り声が聞こえた。灑洛は、構わなかった。とにかく、走った。牀褥の横を。窓の所まで。刺して遠くないはずなのに、永遠に走り続けていると錯覚するほど、その距離は長く感じられた。いや、いっそ、永遠に、それにたどり着かなければ良かっただろう。
「っ――――――――ッッッ!」
灑洛の喉から、声なき叫びが迸った。
真紅の梁に、白絹が掛けられ、それで首を吊って死ぬ―――遊嗄の姿があったのだった。
「な、なぜ? どうして、どうし、こんなことになるの? ……どうして、遊嗄さまっ!」
灑洛は髪をかきむしりながら、吊られた遊嗄の遺体に呼びかける。
「遊嗄さま……。おねがい」
遊嗄が黒珠のようだと思っていた、美しい瞳が、透明な真珠を、止めどなく溢れさせた。
「起きて下さいませ」
床に跪いて、灑洛は遊嗄の脚に縋り付いた。
「起きて下さいませ」
どれほどの時間が経っていたのか、遊嗄の身体は、固く冷たい。どんなに素肌で温めても、この身体にぬくもりが戻ることはなく、二度と鼓動は動き出さない。
「起きて……わたくし、あなたに、大切なことをお話ししなければならないの」
わたくしのお腹に、あなたの子供が居るのよ?
なぜ、あなたは、それをわたくしから聞く前に、すべてを決断してしまったの……?
灑洛は、辺りを見回した。螺鈿の卓子の上に、二通、手紙がある。一通は、灑洛へ。もう一通は、奏上だった。灑洛宛てのものには、遊嗄が髪を一房切り取ったらしく、遺髪が同封されていた。
遺髪を切り取ったらしい短刀も残されている。
(わたくしも、庶人になったつもりで、あなたのあとを追う)
灑洛の心はもはや固まっていたので、躊躇いなく、冷たい短刀を手にした。これで、すべての含むから逃れ、遊嗄と二人、来世で巡り会うことを祈るだけだ。
喉元に刃を押し当てようとしたとき、灑洛は、太医の存在に気がついた。太医は、なんの為に連れてきた……?
(わたくしのお腹の中には、遊嗄さまの子がいる……この子を守り抜くことこそが、わたくしのつとめなのではなくて?)
だが、もし、灑洛が遊嗄の子を孕んでいたと皇帝に知られれば、灑洛の食事には、堕胎剤が混ぜられるだろう。
(あの男は……、わたくしの子を欲しがっていたわ)
ならば……この子を、皇帝の子として、ゆうゆうと扶育させるべきだ。灑洛の手が、震えた。心は―――決まった。
(良いのよ、わたくしは、どうせ、薄汚れているわ。だけど――――見ていて遊嗄さま……、あなたの無念は、わたくしが絶対に晴らしてみせる)
灑洛は震えながら、顔を上げた。
「妃殿下……、こんな所においでになっては、お子様に障ります。……どうぞ、お戻り下さいませ。皇太子殿下のことは、私どもで……」
親切な太医が、灑洛をむごたらしい現場から話そうと申し出たその瞬間。
灑洛の白い繊手が、ヒュッと風切る音を残し、銀の軌跡を描きながら宙を翻った。
「う……ぐ……っぉ……」
太医は喉笛を切り裂かれていた。吹き出した血が、しゅーしゅーと音を立てているがやがて、音もしなくなって、どさり、と床に倒れ込んだ。
夥しい返り血を浴びながら、灑洛は、遊嗄を見上げる。そして、抜き身の血刀を持ったまま、灑洛は、大朝議の行われる、大極殿へと向かって行った。
途中、何人もの宦官や侍女、高官達とすれ違ったが、誰も灑洛に近づくことの出来る者は居なかった。
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