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第七章 吉報
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しおりを挟む皇帝が夢月殿を訪ねて、灑洛を恣にしたその日、遊嗄は、戸を蹴破ることも出来ず、ただ、入り口で一晩、立ち尽くしていた。
昼前にゆうゆうと夢月殿を立ち去った皇帝は、殿所で待っていた遊嗄の姿を見つけて、冷笑を浴びせて去って行った。
「灑洛!」
駆け寄ろうとした遊嗄に「来ないで!」と激しい灑洛の声が飛んだ。
遊嗄は、その拒絶にも似た声を聞いて、部屋へ入ることも出来ずに、脚が床に縫い付けられてしまったかのように動くことが出来なかった。
灑洛は、部屋の中で声を殺して泣いて居るようだった。出来ることならば、その背を抱いて優しく慰めてやりたいのに、今の灑洛はそれを拒むのだろう。
(油断した―――)
遊嗄は歯噛みする。油断したのだ。皇帝は、かっきり三日おきに灑洛を寝所に召していたから、安心していた。次の召しだしは、明日。九月一日。ならば、その日に皇帝を失脚させるので、これ以上、灑洛を弄ばれることはないと……そう、思い込んでいた。
(私が甘かった……)
「では……帰るよ」
後ろ髪を引かれるような思いで言うと、「まって」と小さな声が聞こえてきた。灑洛は、身支度もそこそこ、素肌に破かれた上衣を引っかけただけの酷い格好で出て来た。
手ひどくされたのがありありと解る―――。
流石に殴られたり手を上げられたりと謂うことはないのだろうが、手の痕や噛み痕、口づけの痕などが体中に残っていた。聞き慣れない体液の匂いに、胸が悪くなる。
「神鳥を殺した犯人を―――皇帝になすりつけるのは無理です。鳴鈴が、皇帝に捕まりました」
「鳴鈴が? 何か知って居るのか?」
「鳴鈴は……、あるものを持っています。それは……本当ならば、この東宮にはあり得ないものなのです。ですから、皇帝が、その品を持ち出せば……犯人は、皇帝にはなり得ません」
遊嗄は、灑洛の口ぶりを聞いて、「あなたは、それがなんなのか、知って居るのだね」と静かに聞いた。
目の前にいる妻を、とても、とても遠く感じた。
鳴鈴がなにか、証拠になるようなものを持っているのだとしたら―――なぜ、それを、神鳥殺しの犯人を調べていた遊嗄に見せなかったのだろうかと、遊嗄は思う。
「あなたは……、私の知らないところで、何を動いていたの?」
絞り出した声が、遠く感じた。灑洛が、ハッとしたように顔を上げる。
「わたくしは!」
「なぜ、鳴鈴が持っていた品のことを、私に教えてくれなかったの?」
「わたくしも、昨日、陛下から聞いたのです……。鳴鈴が、あるものを持っていると……」
「でも、あなたは、それがなんだか知っているね?」
遊嗄は、確信した。灑洛は灑洛で……何か、動いているのだ。遊嗄には内密にして。
「その証拠は、一体、誰を神鳥殺しの犯人に出来る証拠なの?」
遊嗄の鋭い問い掛けに、灑洛が口ごもって、俯いた。その眦から、はたはたと、涙がこぼれ落ちて、床に濃いしみを作った。
「―――私を、神鳥殺しの犯人に仕立て上げて、あなたは、父の後宮にでも入るつもりかな?」
「違いますっ!」
それだけは違うと全身で否定してくれて、遊嗄は、なぜか、ホッと安堵するのを感じていた。「違います。どうか……許して……わたくし……あなたを守りたかったの。ただ、それだけなの」
灑洛は顔を覆って泣いていた。遊嗄も、泣きたかった。灑洛の細い身体を抱きしめて―――いっそこのまま、逃げ出したかった。
(私が庶人だったら)
遊嗄は唇を噛んだ。尹太監のように、妻女と手を取り合って、川へ身を投げるだろう。本当ならば、そうしたい。灑洛が昨日の皇帝を受け容れた理由は、事情を聞いていた宦官や侍女から聞いた。
『遊嗄を凌遅刑にするか、皇帝の子を産むか』
おぞましい話だが、これでは、灑洛は、受け容れるしかなくなるだろう。
「灑洛……あなたには、辛い思いばかりさせたね」
遊嗄の心は、決まった。父帝に、直訴するしかない。その先のことは―――天に託すしかない。
「えっ? 遊嗄さま?」
遊嗄は、微笑んだ。そして、灑洛の頭を優しく撫でてやる。子供にするような、やり方だった。
「私は……あなたの桃香娘娘になると言ったでしょう? ……だから、あなたは、何にも心配しないで、休んで居なさい」
灑洛が「なぜ? どうして、そんなことを仰有るの? ……せめて、わたくしを、淫婦だと、自害でもしろと言って下さったら……!」と遊嗄に縋り付く。罪悪感に耐えかねて、灑洛は、罰を欲しているようだった。
「では、来世は、帝室ではなく庶人の夫婦として巡り会おうか」
遊嗄は笑う。灑洛の眦から、滂沱たる涙が溢れた。
「いや……お願い、行かないで、遊嗄さまっ!」
遊嗄は、泣いて縋り付く灑洛を残して、皇帝の元へと向かった。
皇帝は、遊嗄が来るのを見越していたらしく、私的な執務室の一つである黒瓊殿へと通された。皇帝が使う執務室は黒瓊殿と麒書殿とある。麒書殿の方は、玉座を備えて、群臣を招くことの出来る執務室であった。
黒瓊殿へ通されるのは、久しぶりのことだった。
「皇帝陛下に拝謁いたします」
礼法通りに拝謁して御前に出ると、皇帝は、怜悧な美貌に陰惨な微笑を浮かべていた。
「文句でも付けに来たのか?」
「その通りです。ご自覚があるのでしたら……、私の妃を、端女のように弄ぶのはおやめ下さい」
遊嗄が毅然とした態度で言えば、皇帝はフッと微笑してから「そなたは甘い」と呟いてから、立ち上がった。ゆっくりと、遊嗄に近づきながら、皇帝は、歌うように告げる。
「もし、朕がお前の立場なら―――父帝が妃を横恋慕していると知った段階で、妃を進上していたことだろう。遊嗄。皇宮はな、そうやって渡っていく場所だ。いやしくも玉座を一度でも夢に見たことがあるのならば、そのくらいの覚悟をしておくことだ」
「ご冗談を。……陛下が差し出すことが出来るのは、せいぜい端女程度。あなたとて、『女一人の為』に国を傾ける道を選んでいる」
ギッと遊嗄は皇帝を睨み付けた。
「女一人……確かに、そなたの言う通りだな。たかが女一人だ。だが、朕は、灑洛が欲しい、なんとしてでも手に入れたい。愛しい女との間に我が子を儲けて、慈しんでやりたい……なぜ、そなたに許された幸運が、朕は手にできぬのだ」
「灑洛は、私の妃だ!」
遊嗄は叫ぶ。思わず殴りかかりそうになったのを、お付きの宦官に止められる。
「ああ、忌々しいことに、お前の妃だ。……だから、朕は、提案したのだ。そなたを凌遅刑にするか。それとも、朕の子を産むか。灑洛は、十中八九、お前の命を知って私の子を産む選択をするだろう。
よかったなあ、遊嗄――――忌々しいことに、灑洛の心は、永遠に朕は手に入れることが出来ないだろう!」
皇帝が遊嗄の首元を掴む。余裕泣く激怒して、眦まで真っ赤に染め上げている皇帝の姿を見て、遊嗄は笑った。
「はははは、父上。では、私の勝ちだ……灑洛は、私だけのものだ。どんなにあなたが汚そうとも、あなたが、灑洛を手に入れることはない!」
唐突に笑い出した遊嗄を見て、皇帝は虚を突かれたように、茫然としていた。
「神鳥殺しの、濡れ衣を、私に着せるつもりだったのだろうけれど……明日の大朝議が楽しみですよ、父上! 東宮からは、大朝議の場で、奏上があるでしょう。明日、あなたは、それを愉しみに待つが良い。
父上、あなたは、すべてを手に入れながら何も手に入れることが出来ない。これが、私からの、呪いの言葉だ!」
茫然と立ち尽くす皇帝を置いて、遊嗄は笑いながら去って行った。
そのまま、笑いながら、遊嗄は自身の寝所である華臥殿へと戻る。池渡る湿度を含んだ風が窓から入ってきて、頬を撫でて心地よい。牀褥の上にごろんと横になって、遊嗄は瞼を閉じた。
紅色で彩られた華やかな初夜から、半年にもならないが、ここで多くの夜を灑洛と過ごしてきた。
じゃれ合うような戯れに、濃密な交接に、あらん限りの愛情を与え……彼女から受けてきた。
(幸せな日々だったな……)
そして、その稚い日々には、もう、戻ることは出来ない。愛おしい妻を、守り抜く。そのことだけが、遊嗄の望みだった。
遊嗄は牀褥から抜け出て、傍らに用意している机に向かった。玉で作られた水差しから、硯に水を出して、ゆっくりと墨を擦る。墨の香りは、灑洛が好きだと言って居たことを思い出す。
愛用の兎の毛の筆を手に取れば、灑洛が『この筆は、とても難しいからわたくしには無理ですわ』と言って居たことを思い出す。
紙を広げて、筆を走らせる。
『遊嗄さまの字は、とても、優しくて力強いのです。わたくしは、この字を見ているだけで、身体を優しく包まれているような心地になりますわ』と言って居たことを思い出す。
行動一つ一つが、すべて、灑洛との思い出に繋がって、切なく胸を軋ませる。
隆々とした墨跡で書かれたのは『奏上』という文字だった。
明日、この奏上文が、東宮から、大朝議へと提出される。奏上文を書きながら思うのは、灑洛のことだった。今は、遊嗄には、それしかない。それ以上大切なことがない………。
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