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第七章 吉報
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しおりを挟む最近、灑洛は、自身を、水面にたゆたう蓮のようだと思う。
皇帝の閨を拒むことも出来ず、かといって、遊嗄から離れることも出来ず。
あちらへ―――こちらへ……と、流されているだけのようだ。
皇帝は彼の中で一応の線引きか何かがあるのか解らないが、灑洛を寝所に召すのは三日おきにしていた。
寝所に五回も通えば、流石に、慣れる。どれだけ灑洛が頑なに拒んでも、存外優しげに触れる手は、最初の時ほどの―――吐き気を催すほどの嫌悪感を抱かなくなっていた。
輿で瓊玖殿から戻る途中、腰が止まるから「なんだろう」と思って居ると、皇帝付の宦官が「妃殿下、申し訳ありません。少々遠回りを致します」と申し出ていた。
なにがあったのかと思って輿の窓を少し開けて様子を見ていると、宦官が二人倒れているのが見えた。
残暑の折、ジリジリと肌を焼くような陽差しが目に痛い。その中、宦官が二人、倒れたまま、動くことも出来ないようだった。通り過ぎても良かったが、もともと、灑洛の輿が通る道の上だったのも気になった。
「輿を止めて頂戴」
輿を止めさせて、宦官の様子を確認するために近づこうとしたが、出来なかった。あたりには、汚物や、小動物の死体がぶちまけられていて、この宦官たちは、それをぶつけられたようだった。
妃嬪の誰かからか―――の嫌がらせだろう。皇帝は、妃嬪を一切寝所に上げず、灑洛だけを召し続けている。
「彼らは、こういうことには慣れておりますので」
尹太監が、拱手しながら言うのを聞いて、灑洛は「わたくしは、こんなことには慣れていないわ。それに、慣れるつもりもない」と言い捨てて、汚物と屍肉の間を行った。
「ひ、妃殿下っ……っ!」
倒れていた宦官立ちが慌てて身を起こし、拱手する。
「楽にして頂戴。……こんなものしかないけれど、どうか使って」
灑洛は、胸元から、白絹で作った手巾を取り出して、宦官に差し出す。宦官二人は、顔を見合わせて、「受け取れません」と震える声で言う。
「いいえ、お願いだから受け取って頂戴……。こんな目に遭ったのも、わたくしの今日の輿に付いて居たくれたからだわ。だとしたら、すべて私の責任です。本当に、ごめんなさいね」
「いえっ! そんな……」
宦官たちは否定したが、灑洛は知って居る。汚物で壁が汚されただとか、酷い姿絵を描かれただとか、そういう、子供じみた真似をすることを知って居る。それに、遊嗄が付けてくれた侍女達が優秀なので灑洛は実害がないが、祁家が毒を盛っていることも、知って居る。
「わたくしが……、自害でも出来れば良いのに、わたくしは、それも許されていないの。だから、なんの落ち度もないあなた方が、こんな目に遭うのね。本当に、ごめんなさい」
灑洛の瞳から流れ落ちた、真珠のような涙を見て、宦官二人は、「こんなに優しい方なのに……なにが毒婦なのだろう」と顔を見合わせて呟きあった。
「妃殿下!」
尹太監までも汚物に汚れながら近づいてきて、宦官二人を立たせてやる。
「妃殿下……もう、参りましょう。おまえたちも、妃殿下には、よく仕えるように。この方は、我らのような人として扱われることさえ少ない者たちにも、こうも温情掛けて下さる。それは、入宮以来、ずっと変わっていないことなのだよ」
「だって、わたくしも同じよ。この皇宮に於いて、誰一人、安穏とした日々を過ごすことの出来るものなんて居ないのよ。わたくしだって皇帝陛下の気まぐれでお召しを受けているだけ。飽きれば捨てられるし―――皇太子殿下が、わたくしを見捨てても、未来はないわ」
灑洛の言葉を聞いた宦官たちが声を揃えて言う。
「そんなことは在りません! 妃殿下は、きっと、……国母になります! 神鳥が、そう予言したのですから、間違い在りません」
灑洛は、微苦笑した。
「輿には乗らず、みんなで歩いて東宮まで戻りましょうか」
夏の陽差しが、灑洛を照りつける。一度召し出されると、皇帝は執拗に灑洛を求めるので、正直なところ、身体が辛い。
「東宮へ戻ったら、身支度を調えて……少し昼寝をしてから、刺繍をするつもりなの」
灑洛は、誰に聞かせるわけでもなく、自らに言い聞かせるように呟く。
「刺繍ですか」
尹太監が反応した。
「ええ……重陽までもう少しでしょう? 今月は、あと三日で終わることだし……気を入れないと、終わらなさそうなのよ。重陽の為に、遊嗄さまの衣装を作っているのよ」
「そうでしたか。それは、皇太子殿下も、お喜びになることでしょう……皇帝陛下には、なにか、献上なさらないのですか?」
尹太監のさりげない問い掛けに、灑洛は、ほんの少しだけ苛立った。
「なぜ、わたくしが、皇帝陛下の衣装の心配をしなくてはならないの? それは、妃嬪の務めだわ」
灑洛は召し出されているが、妃嬪ではない。あの男に、好きなように遊ばれているだけで、身分は皇太子妃だ。
「尹太監―――あなたにとった、わたくしは、汚らわしい女に見えるかも知れないけれど、間違わないで。わたくしは、皇太子妃です。どれほど、この身を汚されようとも、わたくしが心を捧げるのは、この生涯で、遊嗄さまただ一人よ」
毅然と言いきった灑洛に、尹太監は気圧されて「これは、妃殿下、失礼を……」と拱手しかけたのを灑洛が手で制して「見送りはここで良いわ。私は、一人で東宮へ戻ります」と言い残して、一人で歩いて帰った。
ふと、刺すような視線を感じて、振り返ると、瓊玖殿の花窓から、皇帝が様子を見ていることに気がついて、拱手もせず、にこりともせずに灑洛は東宮へ戻っていった。
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