54 / 74
第六章 天譴
7
しおりを挟む母親が、実の子を殺すことは、さして珍しくはない。
古代の話になるが、皇后の座を欲した下位の妃が、自分の産んだ男の子を毒殺して、皇后に罪をなすりつけ、自身はのうのうと皇后に登った例もある。
真夏だというのに、灑洛は震えが止まらなかった。
少なくとも、祁貴嬪の心は、廃太子に傾いている。この真意がわかっただけでも有り難い。まだ、遊嗄が祁貴嬪に近づいていない今だったら、引き返すことが出来る。
もし、遊嗄が祁貴嬪に近づいて行ったら、おそらく、祁貴嬪は、遊嗄を利用して『父帝を弑虐した』という悪逆を行った者として、新皇帝に処分させるだろう。
(遊嗄さまを、止めなければならないけれど……)
それよりも、灑洛が気になったのは、祁貴嬪だ。おそらく、この先、遊嗄を邪魔する為に、祁貴嬪は全力を尽くすだろう。祁貴嬪は、おそらく、『汚らわしい』灑洛と交わった遊嗄をも、汚らわしい存在としてみているに違いない。
「それと、あの汚らわしい女はどうしたの? まだ、ピンピンしているようじゃない」
ドキリ、と胸が跳ねた。認めたくはない事実だが、おそらく、祁貴嬪が、そう呼ぶのは、灑洛のことだ。
「何度か毒を入れているのだけれどね……、中々上手くいかない。何人か、端女でも買収しようと思うのだが、誰に似たものか、遊嗄は、人を入れるときの審査を厳しくしている」
「厳しく? たかが端女を入れるのに?」
祁貴嬪は、くだらない、とでも言いたげにフンと鼻を鳴らしたが、祁僕射の言葉を聞いて、口ごもった。
「たかが端女を入れるのに、親兄弟は勿論、祖父母に至るまで、経歴と借金などの状況を調べてから入れているというよ。おかげで、東宮には、中々近づけない」
「あらそうかしらね」と祁貴嬪は、さもおかしそうに笑う。「だって、あの女の殿舎に、汚物がぶちまけられていたり、淫猥な姿絵を張り出されたりしているのよ? 神鳥の死体だってそうだわ。誰かが、あそこにうち捨てたのでしょう」
「たしかに、それだけ聞いていれば、東宮の守護官は、詰めが甘いと言うべきか……」
「壁に汚物をぶちまけて、汚らわしい絵を貼らせたのは、わたくしだけどね」
(なんですって……っ!)
灑洛は憤慨して叫びそうになったのを、すんでの所で押しとどめた。鳴鈴を初めとする侍女たちは、何も言わなかったが、こうした嫌がらせを、地道に片付けていたのだ。灑洛の耳には入れないようにして、最新の注意を払いながら。
「お、おい……たいした嫌がらせでないのは解るが……相手は……あの濘灑洛だ。あまり、過激なことはしない方が良い」
祁僕射が狼狽えながら言う。
「良いのよ、アレは私が侍女にやらせたの、もしかしたら、濘家から使わされたのかもしれないという侍女が一人居てね。しばらく泳がせていたのだけれど、しっぽを出さないから、『あの女と通じていないのならば、東宮に嫌がらせをしておいで』と命じたの。
そうしたら、あの娘はやってきたのよ」
ころころと祁貴嬪が笑う声が聞こえた。
「そのものは、どうしているんだ。もし……」
「しばらく、まだ側で使うわ。最近、あの娘の兄とやらが濘家に仕えているから……。今は妾に仕えていると言っても、濘家に何か言われれば断ることも難しいでしょうからね」
内通者かも知れない―――つまり、敵かもしれない相手を手元に置いて、悠然としているのだから、やはり、祁貴嬪は肝が据わっている。
祁貴嬪と祁僕射の会話はしばらく続いたが、あとは、灑洛への罵詈雑言を聞かされただけで、たいした収穫はなかった。
東宮へ戻った灑洛は、祁貴嬪が祁僕射に話していたことを、遊嗄に伝えなければならなかった。
遊嗄は、実母である祁貴嬪を信用しているだろうから、この事実を伝えるのは、心苦しいが仕方がない。灑洛は、遊嗄が執務する、鳳舞殿まで行くことにした。皇城で執務がないときは、鳳舞殿に居るのが常だったからだ。
夜も傾いてきたので、寝室である華臥殿で待っていれば、遊嗄は訪ねてくるはずだったが、華臥殿でする話ではないと判断したのだった。
鳳舞殿は、灑洛も滅多に立ち入らない。
執務をするだけの場所なので、煌びやかな装飾はないが、多くの臣を集めることができる広間が目を引く。そこに、皇帝の十七段ほどではないが、五段ほど高くなった場所に、皇太子の執務場所はある。遊嗄は、机に本を積み上げてなにやら書き物をしているようだった。書物に向かう真剣な眼差しは、あまり、灑洛の見たことのない表情だ。
「皇太子殿下! 妃殿下ですぞ!」
お付きの宦官に声を掛けられた遊嗄が、顔を上げて、書き物の手を止めた。
「あなたがここに来るのは珍しいね。……さあおいで。私も、ちょうど、一休みしたいと思って居たところだよ」
遊嗄が手招きして灑洛を呼ぶ。机の所まで行って、灑洛は素早く書簡に目を落とした。廟堂の建築の資料のようだった。おそらく、神鳥を祀る廟堂のものだろう。
「一休みしてよろしゅう御座いますの?」
「勿論」と遊嗄は相好を崩す。「本当に、今日は根を詰めすぎて、疲れていたからね。いずれにしても、そろそろ休もうと思って居たところだよ。今日は、華臥殿でなく、ここで過ごそうか? ここにも、狭い牀褥はあるよ」
「まあ……、そんなことならば、わたくし華臥殿に参りますわ。それより、遊嗄さま、聞いて頂きたいのです」
「おや、珍しいね。なんだろう?」
確かに、遊嗄の言う通り、灑洛が何かを言うのは珍しいことだった。一緒に蓮の花を見たい―――と言うような、容易いことまで、灑洛は口にすることが出来なかったことを思い出す。
「実は、先ほど、わたくし、掖庭宮に参りましたの」
「後宮に? なぜ?」
遊嗄が眉を吊り上げたのを見て、灑洛は、後宮と同義である掖庭宮に入った事を、後悔したが、すぐに消えた。こうでもしなければ、得られなかった情報だ。
「……勿論、祁貴嬪さまに、遊嗄さまの味方になって頂く確約が頂きたかったのです。けれど、わたくし、祁貴嬪と祁僕射が、怖ろしい事を話しているのを、聞いてしまったのです」
「怖ろしい事……?」
なんだ、それは? と遊嗄が首を捻る。
灑洛は、意を決して、遊嗄に告げようとしたときだった。
―――どぉぉん。
鈍い音を立てて、銅鑼が鳴り響いた。灑洛と遊嗄は顔を見合わせる。これは、皇帝の出御もしくは、皇帝の名代が到着したことを告げるものであった。
かくて、鳳舞殿の広間までやってきたのは、尹太監であった。
「これは、尹太監……」
尹太監は、皇帝付の宦官である。現皇帝に取っては、雑務全般をこなす秘書のようでもあった。
灑洛と遊嗄は、壇上から降りて、尹太監に拝礼した。
「皇帝陛下の名代に、拝礼いたします」
尹太監は、にこにこと笑っていた。おかげで、用件も、尹太監の感情も読めない。
何用だろう……? と思って居ると、尹太監は、灑洛に向かって拝謁した。
「おめでとうございます、妃殿下。―――皇帝陛下が、本日の進御(夜伽)に、妃殿下をお召しになりました。輿を用意しておりますので、どうぞそのまま、お乗り下さいませ」
灑洛は、全身から血の気が引いて行くのを感じた。
「進御っ? どういうことだ、尹太監!」
皇帝の名代たる尹太監に掴みかかろうとした遊嗄だが、尹太監は、遊嗄に勅書を広げてみせた。
勅書は、両端に竜の彫刻の施された棒が付けられた黒地の絹布で書かれる。金泥で書かれた場合は、右筆(代筆をするもの)が書いたものであり、銀泥で書かれたものは、皇帝の宸筆である。
銀泥で書かれた勅書には、はっきりと、『濘灑洛を寝所へ召す』と書かれていた。
0
お気に入りに追加
35
あなたにおすすめの小説
逃した番は他国に嫁ぐ
基本二度寝
恋愛
「番が現れたら、婚約を解消してほしい」
婚約者との茶会。
和やかな会話が落ち着いた所で、改まって座を正した王太子ヴェロージオは婚約者の公爵令嬢グリシアにそう願った。
獣人の血が交じるこの国で、番というものの存在の大きさは誰しも理解している。
だから、グリシアも頷いた。
「はい。わかりました。お互いどちらかが番と出会えたら円満に婚約解消をしましょう!」
グリシアに答えに満足したはずなのだが、ヴェロージオの心に沸き上がる感情。
こちらの希望を受け入れられたはずのに…、何故か、もやっとした気持ちになった。
寝室から喘ぎ声が聞こえてきて震える私・・・ベッドの上で激しく絡む浮気女に復讐したい
白崎アイド
大衆娯楽
カチャッ。
私は静かに玄関のドアを開けて、足音を立てずに夫が寝ている寝室に向かって入っていく。
「あの人、私が
王太子の子を孕まされてました
杏仁豆腐
恋愛
遊び人の王太子に無理やり犯され『私の子を孕んでくれ』と言われ……。しかし王太子には既に婚約者が……侍女だった私がその後執拗な虐めを受けるので、仕返しをしたいと思っています。
※不定期更新予定です。一話完結型です。苛め、暴力表現、性描写の表現がありますのでR指定しました。宜しくお願い致します。ノリノリの場合は大量更新したいなと思っております。
【完結】初めて嫁ぎ先に行ってみたら、私と同名の妻と嫡男がいました。さて、どうしましょうか?
との
恋愛
「なんかさぁ、おかしな噂聞いたんだけど」
結婚式の時から一度もあった事のない私の夫には、最近子供が産まれたらしい。
夫のストマック辺境伯から領地には来るなと言われていたアナベルだが、流石に放っておくわけにもいかず訪ねてみると、
えっ? アナベルって奥様がここに住んでる。
どう言う事? しかも私が毎月支援していたお金はどこに?
ーーーーーー
完結、予約投稿済みです。
R15は、今回も念の為
忌むべき番
藍田ひびき
恋愛
「メルヴィ・ハハリ。お前との婚姻は無効とし、国外追放に処す。その忌まわしい姿を、二度と俺に見せるな」
メルヴィはザブァヒワ皇国の皇太子ヴァルラムの番だと告げられ、強引に彼の後宮へ入れられた。しかしヴァルラムは他の妃のもとへ通うばかり。さらに、真の番が見つかったからとメルヴィへ追放を言い渡す。
彼は知らなかった。それこそがメルヴィの望みだということを――。
※ 8/4 誤字修正しました。
※ なろうにも投稿しています。
彼女が望むなら
mios
恋愛
公爵令嬢と王太子殿下の婚約は円満に解消された。揉めるかと思っていた男爵令嬢リリスは、拍子抜けした。男爵令嬢という身分でも、王妃になれるなんて、予定とは違うが高位貴族は皆好意的だし、王太子殿下の元婚約者も応援してくれている。
リリスは王太子妃教育を受ける為、王妃と会い、そこで常に身につけるようにと、ある首飾りを渡される。
妻のち愛人。
ひろか
恋愛
五つ下のエンリは、幼馴染から夫になった。
「ねーねー、ロナぁー」
甘えん坊なエンリは子供の頃から私の後をついてまわり、結婚してからも後をついてまわり、無いはずの尻尾をブンブン振るワンコのような夫。
そんな結婚生活が四ヶ月たった私の誕生日、目の前に突きつけられたのは離縁書だった。
好きな人に『その気持ちが迷惑だ』と言われたので、姿を消します【完結済み】
皇 翼
恋愛
「正直、貴女のその気持ちは迷惑なのですよ……この場だから言いますが、既に想い人が居るんです。諦めて頂けませんか?」
「っ――――!!」
「賢い貴女の事だ。地位も身分も財力も何もかもが貴女にとっては高嶺の花だと元々分かっていたのでしょう?そんな感情を持っているだけ時間が無駄だと思いませんか?」
クロエの気持ちなどお構いなしに、言葉は続けられる。既に想い人がいる。気持ちが迷惑。諦めろ。時間の無駄。彼は止まらず話し続ける。彼が口を開く度に、まるで弾丸のように心を抉っていった。
******
・執筆時間空けてしまった間に途中過程が気に食わなくなったので、設定などを少し変えて改稿しています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる