神鳥を殺したのは誰か?

鳩子

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第五章 廟堂の宵

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 刺繍をしている途中で、眠ってしまったらしい。

 灑洛れいらくは口元を手で押さえて欠伸をしてから、机の上に片付けられた刺繍を見遣った。遊嗄の為に作っている、重陽ちょうようの宴の為の衣装だ。

 この日が誕生日だと聞いたので、皇太子の色である『紺』の衣装に、重陽にちなんで菊を刺繍している。灑洛の掌ほどにもなる大きさの菊もあれば、小指の先ほどの小ささの菊もあり、百以上の菊で覆い尽くす華麗な上衣にする予定だった。

 濃い橙色の菊、薄い黄色の菊、白菊、糸菊は銀糸と金糸で作り出した大作で、重陽の前には完成する見込みだった。根を詰めて刺繍していたのが悪かったのだろう。針をもったまま寝ていたのを見かねて、鳴鈴が片付けてくれたようだった。

「わたくしは、随分寝ていたのかしら」

 独りごちる。微睡む灑洛を気遣ってか、殿舎の中に、人気はなかった。羽音もなく、晧珂こうかが机に舞い降りたので、灑洛は、そっと頭を撫でながら、問い掛ける。

「わたくし、随分長い間眠っていたの?」

『半刻くらいだろう』

「まあ……丁度、風が心地よかったからかしら……」

 随分寝たおかげで、頭がスッキリしている気がする。大きく伸びをすると、身体が凝り固まっていたようで、肩や手が痛かった。

「なんだか、風が甘い気がするわね」

『ああ、花園の槐花えんじゅが盛りだからな。甘い香りがここまで届くのだろう』

 そういえば、七月七日を越えたあたりから、槐花が盛りになると、鳴鈴が言って居たことを思いだした。

「見物に行きたいわね。……晧珂、一緒に来てくれるかしら?」

『ああ、あなたの散歩ならば、私が付き合った方が良いだろう』

 丁度、侍女は出払っている。晧珂に相談したいこともあったし丁度良い。灑洛は、花だけを見たらすぐ戻るから大丈夫だろうと思って、晧珂と共に出かけることにした。

「陽差しが強いわね」

 盛夏である。紺青の空は、深い青で、遠くの方に沸き立つような入道雲が見えた。夏の空だ。

『日に焼けるのではないか?』

「傘を持つほどじゃないわ。……晧珂は、暑くても大丈夫なの?」

 灑洛が問い掛ける。

『私には、暑さも寒さも気にならない』

 そうか、と灑洛は呟く。晧珂は、灑洛の肩に止まっている。重さなど全く感じたことのない、不思議な鳥だ。

「晧珂は……どこから来たの? 天帝のお庭から来たのかしら?」

 いままで、人目を憚って聞いた来なかったことだ。聞いた話では、神鳥は、皇帝の即位式の真っ只中に舞い降りて、その錫杖の上に留まったと聞いている。千年を生きると言われる、聖なる鳥。それが神鳥だ。

『おそらく、それを伝えても、あなたには伝わらない言葉だろうが……わたしは、この世ならざる所からきて、あなたたちの考えも付かないように長い時間を生きるのが常だ』

「予言は……本当の事なのよね」

『そうだな。……あなたの妹の息子は、立派に成長して天寿を全うする』

「そうじゃないわ。わたくしの予言よ。……わたくしは、あなたを退け、そして国母こくもとなり、黒珠黒衣こくじゅこくいを身に纏う―――けれど、今のわたくしは、もはや、東宮に居ることは出来ないでしょう。酷い噂を聞いたのよ。わたくしは、自分の寝所に、皇帝と皇太子の二人を招いて、同時に戯れる毒婦なのですって」

 どうやれば、そんなおぞましいことを考えられるのか、灑洛はこの噂を流したものに聞いてみたい。

 犬の件もそうだ。だれが、あの犬をけしかけたかは解らない。ただ、あの宴の責任者という宦官が、夜明け前に、責任を取って自決したと言うが、灑洛はなんとなく知って居る。皇帝が、すべての罪をその者に負わせて、切り捨てただけだ。

(ほんとうは、そういうことをなさる、怖い方なのだわ)

 だからこそ、灑洛の噂を、このままにするはずがないと思っている。

「晧珂は……ねい家で暮らす? それとも、皇城の方が良いかしら」

 しかし、晧珂は答えなかった。

「どうして、こんなことになったのか、わたくしには解らないの。皇帝陛下が、わたくしに……邪恋を抱いていたというのは、みんなの妄想よ? わたくしの母様と皇帝の間にも、なんにもなかったのよ? それは、父様が、教えて下さったわ」

 花園を歩きながら、灑洛は呟く。最初にここに来たときは、桃が満開だった。甘酸っぱい桃の香りが空気を甘く染めていて、紅雲の中を歩いているような心地さえして、世界中が輝いて見えるほど、幸せでたまらなかった。

 あの日から、まだ、半年しか経っていないのに、あの無邪気な日々が、酷く懐かしく思えて、涙がにじむ。

(そういえば、ここで、皇帝陛下と出会ったのだった……)

 灑洛は、皇帝陛下を、勘違いして皇太子と間違えてしまったのだった。皇帝が、あまりにも美しく若々しかったからだ。皇帝は、風に舞い上がってしまった灑洛の被帛ひはくを取ってくれた。

 それだけの、灑洛が忘れてしまうような些細な出会いだ。

 まさに、今、宴に居るはずの人が、花園にいるとは思わなかったし、皇帝が、供も付けずに歩くとは思わなかったからだ。

『灑洛、槐花は、あちらだ。少し遠いが、大丈夫か?』

「大丈夫よ。わたくし、ここへ夜咲睡蓮よざきすいれんを見に来たこともあったの」

 思い出しただけでも赤面してしまうほど、不埒なことをここでして居たのを、晧珂が見ていなくて良かったと、灑洛は思って居たが晧珂が思いも寄らないことを言ってきた。

『あなたとの遊嗄は、四阿でもなく、池ので交わっていたな。……ああいうことは、控えた方がよいが……』

「な、なぜ知って居るの、晧珂っ!」

『あの楼門の上から、よく見えるのだ。……まあ、そんなに恥ずかしがらずとも、あなたと遊嗄ゆうさが夜を過ごすときには、私も連れて行くのだし……』

 顔から火が出そうなほど恥ずかしい。両手で顔を覆って、灑洛は身もだえる。

「だって……牀褥しょうじょく(ベッド)のことなら、仕方がないわ。すべて、記録に付けられているもの。でも、誰も知らない……秘密の夜のことは、人には知られたくないわ。まさか、皇帝陛下もご存じなの?」

 晧珂が、『まあ』と呟いたのを聞いて、灑洛は絶望的な気持ちになった。

「なんてことかしら……。あんな所を見られていただなんて……」

 呟いてから、はた、と灑洛は気がついた。

 その日ではなかったか―――?

 皇帝が、夜更けに倒れたというのは。

 灑洛と遊嗄も、取るものも取りあえずに駆けつけたのは……。ぞくり、と鳥肌が立った。嫌なことを知ってしまったような気がするが、

「……あまり……のんびりしていると、みんなが探すわね。槐花の所へ行きましょう」

 気を取り直して、灑洛は行く。槐花は、桃園の最奥にあった。真っ白な槐花の花房はこんもりと枝に積もった雪のように白く、蜜を含んだ濃密な香りが、辺り一面に漂って、くらくらする。

「真っ白で綺麗ね。……晧珂、一房取って飾って上げましょうか? きっと、あなたの羽の純白には、似合うはずだわ」

『いや、私は遠慮しておくよ。……あなたのかんざし変わりに取ってやろう』

 ふわりと舞い上がり。晧珂は槐花の花房を嘴で摘み取って、灑洛の髪に飾った。

『よく似合う』

「嬉しいわ。早く戻って、遊嗄さまに見て頂かなきゃ」

『ああ、それが良いだろう』

 きびすを返して自分の殿舎へ戻ろうとした灑洛は、桃園と槐花園の間に、人目を憚るように、お堂があるのを見つけた。

「お堂……? たしか、鳴鈴が祖霊を祀る廟堂があると言って居たけれど」

『ああ、ここは桃香娘娘とうかにゃんにゃんを祀る廟堂だ』

 晧珂の言葉を聞いて、どくん、と灑洛の胸は、嫌な跳ね方をした。鼓動が、早くなっていく。呼気が、浅くなる。

 指先が震えた。

「それって……」

 遊嗄が語った、廟堂のことだろう。元々、灑洛の母、娥婉公主の姿絵が飾られていたという場所だ。

 見なかった振りをして立ち去ろうとした灑洛の視界が、一瞬、チカッと真っ白になった。

「えっ? なに、今のは……?」

 しばらくして、遠くの方で雷の音が聞こえた。

『灑洛、早く戻ろう』

 晧珂に促されるが、灑洛は、怖ろしくなって、動けない。雷が、苦手なのは、まだ、変わっていなかった。

「あ、駄目よ………わたくし、こわいわ……」

 灑洛の白磁のような頬に、ぽつり、と雨が落ちる。最初は、パラパラとした雨だったのに、すぐに伸ばした指先が見えないほどと、雨脚が一気に強まる。空には、紫龍が何本も走り、その飛びに、遠くで音がする。

 見れば、真っ白な槐花は、突然の雨の暴虐によって散らされ、地面が真っ白になっていた。

『灑洛。……お堂に逃げよう。ここに居るよりは、マシだ』

 晧珂の声に導かれ、脚が震えてへっぴり腰になりながらも、灑洛はなんとか、お堂へたどり着く。軋んだ音を立ててお堂の扉が開かれれば、中では蝋燭が灯され、香が手向けられていたのが解った。沈香に白檀、貝香に伽羅、竜涎香を混ぜて作った香で、天上の住人もかくやというような、霊香が漂っている。

「……明かりが付いているのなら、安心だわ。それにしても、赤い柱に赤い帳だなんて、初夜のようだけれど……」

 そこに祀られていたのが、母・娥婉公主だと思えば、灑洛は、ざらついた気持ちになるのが解った。

 初夜の閨のような場所で、皇帝は、何を思っていたのかと、はっきりと嫌悪したのだ。

「ともかく、濡れて仕舞ったわ……まずは、上衣だけでも脱いだ方が良い……」

 かしら、と言おうとしたときに。灑洛と、

 茫然とした表情で、男は、灑洛を見ていた。

 たちあがり、信じられないものを見たと言うような顔で、男の口唇が、動く。

 とっさに、灑洛が土砂降りの雨の中に戻ろうとしたが、男に腕をつかまれ、抱き寄せられていた。

「お、おやめください……皇帝陛下……っ!」

 悲鳴のような声が灑洛の口唇から迸ったのと、稲光が世界を焼いたのは、同時だった。


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