神鳥を殺したのは誰か?

鳩子

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第五章 廟堂の宵

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 花園にて貴嬪きひんから嫌なことを言われた話は、瞬く間に皇城に広まったらしい。

(皇太子妃は、どうやら、七月七日の宴のあと、皇帝のご寝所にお仕えしたらしいわよ)

(あら、私の聞いた話だと、あの方、犬に犯されたのだって聞いたけど)

(そうじゃないわ、皇帝が、姉君に産ませた子供があの方らしいわよ)

 好き勝手な噂ばかりが耳に入ってきて、灑洛は、胸が重く苦しくなるのを感じていた。けれど、灑洛は知って居る。七月七日の宴のあとに、皇帝の寝所に仕えたという事実はないし、犬に襲われたが犯されてはいない。解らないのは、灑洛自身の出自くらいだ。

 灑洛は人払いをして、考えを巡らせていた。鳴鈴めいりんが居れば、あまり聞こえてこない噂話も、一人だと聞こえて来ることがある。そして、一人になるのは、灑洛が個人的に契約している密偵からの連絡を受け取る為でもある。

 昼間の間、灑洛は、遊嗄ゆうさの為に刺繍をしたり、本を読んだり、楽器の練習をして過ごしているが、今日は、実家の父を呼ぶことにして、それまでの間は一人で過ごしていた。

「わたくしが、こんな風に言われていたら、遊嗄ゆうささまにも、累が及ぶわ」

 だからこそ、噂の芽は早く摘まねばならない。

 花園での、祁貴嬪の様子のおかしかったことは、気に掛かったけれど……。

 密偵から受け取った赤瑪瑙を指で弄びながら、灑洛は、祁貴嬪のことを思い浮かべる。いままでの祁貴嬪ならば、あけすけに、

『父親と寝た女が、獣でなくて、一体何だというの?』

 などとは言わない。毒を塗った刃は、美しい絹に隠して言うべきものだ。

「祁貴嬪に、何があったのかしらね」

 灑洛の呟きを聞きつけて、羽音もなく、晧珂こうかが飛んできた。白く大きな羽が、二三度羽ばたけば、止まり木の黄金の枝から灑洛の机まで一飛びだ。

『祁貴嬪が気になるのか?』

「気にならないはずはないでしょう、晧珂。……わたくしの、義母上にあたる方なのだし」

 今回のいわれのない噂話の半分は、祁貴嬪から出ているのではないかと思う節もある。犬に犯されただの、皇帝の寝所に仕えただのという話だ。

「父上をお呼びしたの。すくなくとも、……私が、噂のような出自なのかは、父様に聞けば解るわ」

ねい宰相か』

 晧珂が、頷く。晧珂は、灑洛の父、濘東哲とうてつと面識があるらしい。

「わたくし、あまり、父上のことを知らないの。……父上は、私を疎んじておられたようだし」

『あれは……いつも、影を負ったような表情かおをしていたから、憂いごとでもあるのだろう』

 憂いごとが―――噂のようなことでなければ良いが、と灑洛は思いながら、父の来訪を待っていると、丁度午睡に良さそうな時間に、父が妹の汀淑ていしゅくを伴って、参上した。

 父は、宰相で正二品の高位だが、灑洛に深々と拱手こうしゅして拝礼をした。

「皇太子妃殿下に、拝礼申し上げます」

 汀淑も一緒に礼をする。

「父上、それに汀淑。久しぶりですね。特に、汀淑は、あまりお話しする機会もなかったから、尋ねてきてくれて、とても嬉しく思います」

 殊更丁寧に呼びかけると、汀淑は「有り難うございます」と言って、ぽろ、と白玉のような涙をこぼした。疎遠だった姉との再会が嬉しいはずはない。

「父様、それに汀淑―――わたくしの噂で、二人は、迷惑をしているのね?」

 顔を上げた汀淑は、いつになくやつれて、げっそりと頬が痩けていた。その割に、体つきはふっくらとしているようで、調和が悪い。

『妹御は、腹の中に……男の子が居る』

「えっ? ……あなた、汀淑……妊娠して居るの?」

 汀淑は、こくん、と頷いた。とりあえず鳴鈴を呼んで卓子の仕度をさせたあと、灑洛は汀淑が冷えないようにと、膝掛けを渡した。

「でも、汀淑。あなたは結婚していなかったでしょう?」

「結婚を口約束していた武官がいたのだよ。幸い、将来は将軍に就くことを嘱望された、優秀な男でね。……一年ほど、国を離れるからと言って、仮に華燭だけを上げたのだよ。正式なものではなかったから、妃殿下にはお知らせしなかったが……」

 濘宰相は、苦々しく言う。その傍らで、汀淑が顔を覆って、卓子に突っ伏して泣き始めてしまった。

「汀淑……泣かないで頂戴……。美しかったあなたが、どうしてこんなことになってしまったの?」

「これも、噂のせいなのですよ、妃殿下」

 濘宰相は、溜息を吐いた。鳴鈴が、そっと、茶を出す。それを一口に飲み干してから、濘宰相は続けた。

「汀淑の相手は、しばらく、このゆう国内には居ない。だが、汀淑の腹は膨れた。一度や二度、夜を過ごしただけで、子を孕むはずがない。―――姉である、皇太子妃が、獣にも劣る交わりを繰り返しているのだから妹の方も、別の男と交わったのだろうと……一方的に離縁された」

 灑洛は息を呑んだ。汀淑に、掛ける言葉もなかった。

「わたくしの、せいなのね……?」

「誰のせいでもない。―――皇城というところは、誰も、自分の心を見せては生きていけないところだ。それを曲げて、心を晒した者たちが、不幸を招いている。ここに立つものに、『わたくし』など、あってはならない。一切だ」

 濘宰相の言葉に、身を切られるようだった。灑洛も、自分の心のままに生きている。それ自体が、この皇城では罪になるのだと、喉元に鋭い刃を突きつけられた気持ちだった。

「汀淑は、子を産むの?」

 汀淑が顔を上げた。涙で化粧が流れ落ちて、ただでさえ、やせこけた顔が見るも無惨なことになっていた。

「産むわ……。産んでから、私は、出家する。子供は……神鳥様、私の子供は、男の子なのね?」

 はた、と気付いたらしい汀淑が、晧珂に問い掛ける。晧珂は、大きく頷いた。

『そなたの子は、男子として生を受け、あまねく困難に遭いながらも、老年にて往生するまで生きる』

「ならば、決まったわ! お父様。私は、この子を産む。産んで、出家するから、子供は、お父様が育てて下さいませ。そして、ねい家の跡取りとして、立派に育てて欲しい!」

 伏して願う汀淑の言葉を聞いて、灑洛は、胸が熱くなった。子を産もうとするのは、母親としての汀淑の気持ちだ。そして、出家するのは、一度の恋に殉じたいという汀淑の気持ちだろう。

「わたくしからも、お願いいたしますわ。父上様」

 灑洛も、伏して願った。濘宰相は戸惑っていたようだが、この件について、思案していたのは確かだったようで、すぐに、「わかった。それでは、そなた達の言う通りに」と了承してくれた。

「良かったわ。汀淑……あなたとは、あまり縁遠かったけれど、わたくしに出来ることならば、言って頂戴。とはいえ、今は、あなたに迷惑を掛けたのね」

 本当に済まないという気持ちだった。

 本当は、皇太子妃として、祁貴嬪が望んで居たのは、汀淑だったはずだ。

「お姉様……。私、今まで、お姉様を、嫌な方だと思って居たのです。皇太子殿下を誘惑しただとか……でも、こんなに酷い噂が立って、私は、お姉様のことを誤解していたんだと思ったの。
 ……噂が、一つでも真実だったら、信じるしかないけど。お姉様は、犬に犯されるはずがないし、皇帝の寝所にお仕えするはずもない。それに、お姉様が、皇帝陛下の娘と言うことはないわ。わたくし、それを伝えたくて、ここに来たの」

 汀淑は、灑洛の手を取った。灑洛の手と、汀淑の手を並べて卓子の上に置く。

「似ているでしょう? ……お父様も、似ているのよ?」

 手の形が、なんとなく似ている。こじつけのようだったが、そうやって、酷い噂に耐えている姉を気遣ってくれたのだと思ったら、灑洛の瞳から、涙が溢れて止まらなくなった。

「父上……、わたくしは、たしかに、父上の娘ですわよね? ……噂話のような、おぞましいことは、ありませんわよね?」

 灑洛が泣きながら問うと、濘宰相は、大きく頷いた。

「そなたの母は、娥婉がえんは、間違いなく、初夜の時に処女おとめだったよ。それは、私が身をもってよく知っている。間違いない―――以降、娥婉は、皇城には足を踏み入れていないし、陛下も、ねい府に行幸したことはない。
 つまり、お前は、間違いなく、私の娘だから、安心しなさい」

「そうよ。私は、あまりお話しも出来なかったけど……あなたは、私のお姉様なのだもの! 私、祁貴嬪という方が、怖かったの。だから、お姉様が、代わりに皇太子殿下に入宮すると聞いたときには、泣いて喜んだのよ?」

 そんな話は、知らなかった。

 父娘三人は、そうして、なきじゃくりながら、沢山の話をして、過ごした。

 何よりも味方が出来たことが、灑洛には有り難かった。


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