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第五章 廟堂の宵
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しおりを挟む「陛下……灑洛の様子は、どうですの?」
「おや、開口一番に灑洛の心配をするとは、意外なことだね」
皇帝は、揶揄するように笑いながら、祁貴嬪の傍らまで来た。
「心配は致しますわ。灑洛は、皇太子妃。遊嗄の妃なのですよ? 妾にとっては、娘も同然です」
「きつくあたっていたようだけれど?」
「わたくしも実家では、師たちから、鞭を持って叩かれて来ましたの。灑洛が、一人前の、皇太子妃になる為でしたら、わたくしは、心を鬼に致しますわ」
「それは頼もしいかな……灑洛は、今夜が山だそうだ。今、遊嗄が見ている。朕が居ては邪魔だろうからね」
「まあ、ご自身の寝所を追い出されましたの?」
くす、と祁貴嬪は笑う。皇帝も、吊られて笑ってから、深衣を脱いだ。実は、ずっと濡れた衣装を着ていて、重く冷たかったのだ。
祁貴嬪はすぐに察して「夜着をお持ちして」と命じる。
「追い出されて、来るところが妾の所しかないなんて、お可哀想な陛下」
「いや。今日の勝者は、あらかじめ君だっただろう? だから、ここに来ただけだ。つまり、朕は、灑洛のことがあってもなくても、ここで一晩を―――我が皇后殿と過ごすことになるだけだよ」
ふふ、と祁貴嬪は、口元に笑みが滲むのを隠すことが出来なかった。
皇帝が、ここに居る。灑洛の所ではなく、ここに居る。そして、祁貴嬪を一夜限りでも、皇后と言ったのだ。
「ああ、わたくしの、陛下……」
祁貴嬪は、皇帝の肩に顔を寄せる。夏の盛りだというのに、皇帝の身体は、冷え切っていた。
「陛下。……そのままでは、お風邪を召されますわ。湯殿をお使いになりますか? それとも……わたくしが、素肌で、暖めて差し上げましょうか」
媚びるような猫なで声が、自然に出た。
今まで、甘えるのは、手練手管の一つとして、独身時代入宮前に、房事の師から習ったとおりに演技をしていただけだ。だが、目の前の男を、心底恋しく思った途端、自然に甘い声が出た。
いつもと様子が違うのは、皇帝の方も解ったらしい。
それはそうだろう。十五、十六の子供でもあるまいし、女が本気かどうか―――身をもって知っているはずだ。
(では、わたくしは、いま、本気で恋をする、馬鹿な女なのね)
皇宮で、皇帝に恋をする。これほど滑稽なことはない。ここは、恋とは無縁の場所だ。
「……七月七日の夜に、君のような織女に暖めて貰う、牛飼いになるのは、なかなかないことだね」
視線が甘く絡む。身体の奥が甘く蕩けそうなほどに、切ない気持ちになって、ほぅ、と嘆息のような息が漏れた。皇帝に導かれて、牀褥へ向かう。初夜を迎える処女のように、煩いほどに胸が高鳴っていた。
ともに牀褥へ向かい、皇帝から濡れた着衣を奪って、牀褥の外へと投げ捨てる。
冷え切った身体を抱きしめて、口づけをして居ると、身体の中に火が灯されたように、肌も、身をも焼かれていくように熱く燃えていく。
「君の身体は……こんなに熱かったかな」
皇帝は、口づけが好きなのを、祁貴嬪は知って居る。覆い被さるようにした、何度も口づけするのは、呼気を奪って―――陰の気を口から奪っているのかも知れないが、薄くて冷たい、皇帝の酷薄な口唇が、口づける度に熱を帯びていくのを感じるのは、愉しいことだった。
(この瞬間だけは、あなたは、私に夢中なんだわ……)
そう思っただけで、陶然とした心地になる。
冷たい手が、熱く火照った身体を張っていく。まるで、融けない氷に触れられているようで、いつもよりも過敏になっている祁貴嬪には辛いほどの官能だった。
おそらく、いつもよりも反応が良い祁貴嬪に、皇帝は気を良くしたのだろう。
しつこく肌に唇を這わせ、もはや触れたところがないほどに、口唇と掌で愛し尽くされ、慣れているはずの祁貴嬪でさえ、身を大きくくねらせて牀褥に顔を埋めて何度か意識が飛んだほどだった。
あられもない声を聞かせるのははしたないことだが、それを、皇帝が聞きたがるのも知っている。
皇帝がいつになく性急に身を繋げて来た時に、感極まって、声をあげてしまうと、満足したように微笑んでから、頬に口づけを一つ落とした。
いままで、こんなことはなかった……。
それもこれも……、皆すべて、皇帝を愛していると気がついたからだろうか。熱く脈打つ皇帝を身体の最奥に感じ、呼気を荒げて、玉のような汗を滴らせている皇帝の姿を見ていると、胸が満たされていくのを感じる。
生まれて初めて―――幸せだ、と祁紅淑は思った。愛する男と、身も心も溶け合った瞬間のように思えたからだった。
「……ん……、愛しているよ」
蕩けそうな笑みを向けられて、祁貴嬪は、腰が砂糖菓子のように崩れそうになる。
(わたくしも、あなたを)
愛しています―――と囁こうとした瞬間だった。祁貴嬪の耳に、信じがたい言葉が飛び込んできたのだった。
「灑洛」
それは――――おぞましい瞬間だった。
皇帝の顔は、青ざめて、いまだ昂ぶったままの雄を慌てて引き抜くと、散らばった夜着を引っかけて、牀褥から離れた。
「陛下っ!」
とっさに、祁貴嬪は立ち上がり、牀褥を降りて、皇帝のあとを追う。今の言葉は、嘘だと、いって欲しかった。その言葉が嘘でも良いから、皇帝自身の口で、嘘だと言って欲しかった。
「妾を、利用なさったの? ……あの娘の、身代わりになさったの?」
身を引き裂くようなも悲痛な声が、迸った。天漢に引き裂かれた、牽牛と織女も、これほどまでの悲痛な声を漏らしたことはないだろう。生きながら、身を引き裂かれる痛みの声だ。
皇帝は振り返らなかった。ただ、いちど足を止めて、「今日のことは忘れなさい」とだけ、教師が教え子に諭すような言葉を残して、どこかへ去って行った。
祁貴嬪は、へなへなと、床に崩れた。
やっと得られたと思った、たった一度限りの、幸せな夜は―――皇帝が、抱きたくても抱くことも出来ない女の、身代わりに使われたのだ。
「許さない……」
祁貴嬪は顔を手で覆い尽くした。「灑洛を許さないわ……お前など、もっともむごたらしい死に方で死ねば良いのよ!」
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