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第五章 廟堂の宵
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しおりを挟む「忌々しいっ! なぜ、あの女が、花園に居たのだか! 誰か、妾が花園に行くことを漏らしたか!」
藍玉殿に戻るなり祁貴嬪は、馨しい香りを放つ百合を床にたたきつけて、ぼろぼろに踏みにじる。踏みつけられた百合は、より濃厚な香りを放ち、部屋中が百合の香りで息も出来なくなりそうだった。
「娘娘、お静まり下さいませ!」
史玉が、跪いて、祁貴嬪に申し上げが、祁貴嬪は「お黙り!」と一喝して、手に残った百合の花で史玉の頬を打った。史玉の顔に、濃い橙色をした百合の花粉がべったりと付着する。
「娘娘……」
頼りない声をだす史玉の顔を見て、祁貴嬪の怒りが、す、と引いた。祁貴嬪は、「茶を用意して。それから、一人になりたいわ。みんな出て行きなさい」と命じて榻に身を横たえた。
程なく、祁貴嬪の好む、金蘭茶の馨しい香りが百合の薫りに混じるようになった。他の侍女たちが、床は掃除した為に、すっかり踏みつぶされた百合はなくなっていた。
「娘娘。わたくしは、外に控えておりますから。ご用の時には、鈴でおしらせ下さい」
茶の仕度を終えた史玉が、丁寧に拝礼してから、去って行った。
祁貴嬪は、全く一人になった部屋の中で、唇を噛みしめていた。ややつり上がったような、切れ長の美しい瞳から、すう、と一筋の涙がこぼれ落ちる。
灑洛を、獣と罵った祁貴嬪だったが、そうやって、灑洛を貶めなければ、居られなかった。そうしなければ、祁貴嬪は、自身を保つことさえ難しかっただろう。
そうでなければ何もかもかなぐり捨てて、灑洛の眼を生きながら抉り取って、その身を犬に犯させていたところだった。
(七月七日の夜だわ……)
祁貴嬪は思い出していた。本当は、思い出したくもないことだったが、花園で灑洛に逢ったときに、呼び起こされてしまった。
あの日、灑洛が天青堂で犬に襲われたあと。本当ならば、宴の席で、灑洛に恥をかかせて、他の妃嬪たちからは勝ちを譲らせ、宴の夜を、皇帝と二人で過ごそうと仕度を調えていたのだったが、あの、忌々しい犬の乱入で、計画は水泡に帰した。
皇帝は灑洛を抱き上げて自身の寝所に運んだのだった。
(心の底では、七月七日の今日の夜を、一夜限りの皇后として灑洛と過ごしたかったでしょうね)
腸が煮えくりかえるような、どす黒い嫉妬の炎が、祁貴嬪の身体を内側から苛むようだった。
灑洛さえ現れなければ―――。
祁貴嬪は、祁紅淑は、皇帝へ心を捧げていたことを、知らずに済んだ。祁貴嬪は、我を忘れて水の中に入り、犬を殺して灑洛を助け出した皇帝を目の当たりにして、嫉妬したのだ。
(それが妾だったら、あなたは、妾を助ける為に水の中へは入らない)
皇帝から、一心に愛を受ける灑洛が、憎くなった。寵愛など、祁家の繁栄の為には欲しても、皇帝の心などは、いらないと思い込んでいたというのに。そう、今まで、祁紅淑が信じていたものが、瓦解したのだった。
――――ああ、妾《わたくし》は、皇帝を、愛していたのか……。
藍玉殿は、皇帝の来訪を見越して、料理や酒などを用意して、月夜にだけ咲くという珍しい覇王樹を取り寄せ、今日の日に咲くようにと調整していたのも、不意になった。
いつも、こんなことには慣れていたが、今宵は殊更それが答えて、気晴らしに葡萄で造ったという真紅の胡酒を瑠璃杯で飲もうかとも思ったが、今日に限っては、皇帝が側に居ないことが、ひどく、辛かった。
浮かない顔をして居る祁貴嬪を、侍女達も心配そうに見ているが、声を掛けることは出来ないし、たとえ、声を掛けることが許されても、なんと言って良いのか解らない。
「これは、片付けなさい。妾は、もう休むわ」
立ち上がって、牀褥(ベッド)へ向かおうとしたその時だった。張りのある低い男の声が藍玉殿に響く。
「もう休むのかい?」
まさか、と思った。考えもしなかったことなので、驚いて、頭が付いていかない。願望が、皇帝の魂を招いたのだろうかと思ったほど、現実感がなかった。
「陛下?」
振り返って、拝礼する。そこには、宴で―――灑洛を救助したときに乱れた姿のままの皇帝が立っていたのだった。
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