神鳥を殺したのは誰か?

鳩子

文字の大きさ
上 下
41 / 74
第五章 廟堂の宵

5

しおりを挟む


「忌々しいっ! なぜ、あの女が、花園に居たのだか! 誰か、わらわが花園に行くことを漏らしたか!」

 藍玉らんぎょく殿に戻るなり貴嬪きひんは、馨しい香りを放つ百合を床にたたきつけて、ぼろぼろに踏みにじる。踏みつけられた百合は、より濃厚な香りを放ち、部屋中が百合の香りで息も出来なくなりそうだった。

娘娘にゃんにゃん、お静まり下さいませ!」

 史玉しぎょくが、跪いて、祁貴嬪に申し上げが、祁貴嬪は「お黙り!」と一喝して、手に残った百合の花で史玉の頬を打った。史玉の顔に、濃い橙色をした百合の花粉がべったりと付着する。

「娘娘……」

 頼りない声をだす史玉の顔を見て、祁貴嬪の怒りが、す、と引いた。祁貴嬪は、「茶を用意して。それから、一人になりたいわ。みんな出て行きなさい」と命じてながいすに身を横たえた。

 程なく、祁貴嬪の好む、金蘭きんらん茶の馨しい香りが百合の薫りに混じるようになった。他の侍女たちが、床は掃除した為に、すっかり踏みつぶされた百合はなくなっていた。

「娘娘。わたくしは、外に控えておりますから。ご用の時には、鈴でおしらせ下さい」

 茶の仕度を終えた史玉が、丁寧に拝礼してから、去って行った。

 祁貴嬪は、全く一人になった部屋の中で、唇を噛みしめていた。ややつり上がったような、切れ長の美しい瞳から、すう、と一筋の涙がこぼれ落ちる。

 灑洛れいらくを、けだものと罵った祁貴嬪だったが、そうやって、灑洛を貶めなければ、居られなかった。そうしなければ、祁貴嬪は、自身を保つことさえ難しかっただろう。

 そうでなければ何もかもかなぐり捨てて、灑洛の眼を生きながら抉り取って、その身を犬に犯させていたところだった。



(七月七日の夜だわ……)

 祁貴嬪は思い出していた。本当は、思い出したくもないことだったが、花園で灑洛に逢ったときに、呼び起こされてしまった。

 あの日、灑洛が天青てんしょう堂で犬に襲われたあと。本当ならば、宴の席で、灑洛に恥をかかせて、他の妃嬪ひひんたちからは勝ちを譲らせ、宴の夜を、皇帝と二人で過ごそうと仕度を調えていたのだったが、あの、忌々しい犬の乱入で、計画は水泡に帰した。

 皇帝は灑洛を抱き上げて自身の寝所に運んだのだった。

(心の底では、七月七日の今日の夜を、一夜限りの皇后として灑洛と過ごしたかったでしょうね)

 腸が煮えくりかえるような、どす黒い嫉妬の炎が、祁貴嬪の身体を内側から苛むようだった。

 灑洛さえ現れなければ―――。

 祁貴嬪は、紅淑こうしゅくは、皇帝へ心を捧げていたことを、知らずに済んだ。祁貴嬪は、我を忘れて水の中に入り、犬を殺して灑洛を助け出した皇帝を目の当たりにして、嫉妬したのだ。

(それが妾だったら、あなたは、妾を助ける為に水の中へは入らない)

 皇帝から、一心に愛を受ける灑洛が、憎くなった。寵愛など、祁家の繁栄の為には欲しても、皇帝の心などは、いらないと思い込んでいたというのに。そう、今まで、祁紅淑が信じていたものが、瓦解したのだった。

 ――――ああ、妾《わたくし》は、皇帝を、愛していたのか……。

 藍玉らんぎょく殿は、皇帝の来訪を見越して、料理や酒などを用意して、月夜にだけ咲くという珍しい覇王樹さぼてんを取り寄せ、今日の日に咲くようにと調整していたのも、不意になった。

 いつも、こんなことには慣れていたが、今宵は殊更それが答えて、気晴らしに葡萄で造ったという真紅の胡酒こしゅを瑠璃杯で飲もうかとも思ったが、今日に限っては、皇帝が側に居ないことが、ひどく、辛かった。
 浮かない顔をして居る祁貴嬪を、侍女達も心配そうに見ているが、声を掛けることは出来ないし、たとえ、声を掛けることが許されても、なんと言って良いのか解らない。

「これは、片付けなさい。わらわは、もう休むわ」

 立ち上がって、牀褥しょうじょく(ベッド)へ向かおうとしたその時だった。張りのある低い男の声が藍玉らんぎょく殿に響く。

「もう休むのかい?」

 まさか、と思った。考えもしなかったことなので、驚いて、頭が付いていかない。願望が、皇帝の魂を招いたのだろうかと思ったほど、現実感がなかった。

「陛下?」

 振り返って、拝礼する。そこには、宴で―――灑洛を救助したときに乱れた姿のままの皇帝が立っていたのだった。



しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

逃した番は他国に嫁ぐ

基本二度寝
恋愛
「番が現れたら、婚約を解消してほしい」 婚約者との茶会。 和やかな会話が落ち着いた所で、改まって座を正した王太子ヴェロージオは婚約者の公爵令嬢グリシアにそう願った。 獣人の血が交じるこの国で、番というものの存在の大きさは誰しも理解している。 だから、グリシアも頷いた。 「はい。わかりました。お互いどちらかが番と出会えたら円満に婚約解消をしましょう!」 グリシアに答えに満足したはずなのだが、ヴェロージオの心に沸き上がる感情。 こちらの希望を受け入れられたはずのに…、何故か、もやっとした気持ちになった。

寝室から喘ぎ声が聞こえてきて震える私・・・ベッドの上で激しく絡む浮気女に復讐したい

白崎アイド
大衆娯楽
カチャッ。 私は静かに玄関のドアを開けて、足音を立てずに夫が寝ている寝室に向かって入っていく。 「あの人、私が

【完結】初めて嫁ぎ先に行ってみたら、私と同名の妻と嫡男がいました。さて、どうしましょうか?

との
恋愛
「なんかさぁ、おかしな噂聞いたんだけど」 結婚式の時から一度もあった事のない私の夫には、最近子供が産まれたらしい。 夫のストマック辺境伯から領地には来るなと言われていたアナベルだが、流石に放っておくわけにもいかず訪ねてみると、 えっ? アナベルって奥様がここに住んでる。 どう言う事? しかも私が毎月支援していたお金はどこに? ーーーーーー 完結、予約投稿済みです。 R15は、今回も念の為

王太子の子を孕まされてました

杏仁豆腐
恋愛
遊び人の王太子に無理やり犯され『私の子を孕んでくれ』と言われ……。しかし王太子には既に婚約者が……侍女だった私がその後執拗な虐めを受けるので、仕返しをしたいと思っています。 ※不定期更新予定です。一話完結型です。苛め、暴力表現、性描写の表現がありますのでR指定しました。宜しくお願い致します。ノリノリの場合は大量更新したいなと思っております。

愛された側妃と、愛されなかった正妃

編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。 夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。 連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。 正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。 ※カクヨムさんにも掲載中 ※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります ※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。

私の知らぬ間に

豆狸
恋愛
私は激しい勢いで学園の壁に叩きつけられた。 背中が痛い。 私は死ぬのかしら。死んだら彼に会えるのかしら。

〖完結〗旦那様には出て行っていただきます。どうか平民の愛人とお幸せに·····

藍川みいな
恋愛
「セリアさん、単刀直入に言いますね。ルーカス様と別れてください。」 ……これは一体、どういう事でしょう? いきなり現れたルーカスの愛人に、別れて欲しいと言われたセリア。 ルーカスはセリアと結婚し、スペクター侯爵家に婿入りしたが、セリアとの結婚前から愛人がいて、その愛人と侯爵家を乗っ取るつもりだと愛人は話した…… 設定ゆるゆるの、架空の世界のお話です。 全6話で完結になります。

妻のち愛人。

ひろか
恋愛
五つ下のエンリは、幼馴染から夫になった。 「ねーねー、ロナぁー」 甘えん坊なエンリは子供の頃から私の後をついてまわり、結婚してからも後をついてまわり、無いはずの尻尾をブンブン振るワンコのような夫。 そんな結婚生活が四ヶ月たった私の誕生日、目の前に突きつけられたのは離縁書だった。

処理中です...