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第五章 廟堂の宵
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しおりを挟む祁貴嬪に、返礼の品を受け取って貰う為、灑洛は、鳴鈴を連れて、皇宮花園に来ていた。このところ、花園では純白の百合が見頃だとかで、毎日のように祁貴嬪が花園に通っているという話を聞いたのだった。
直接、祁貴嬪の住まいである藍玉殿へ向かっても、門前払いされるだけで、話すら聞いて貰うことは出来ないだろう。
鳴鈴たちは、結局、祁貴嬪から何を言われたのか、口にすることはなかったが、相当酷いことを言われたのだろと言うことは、さっしが付いた。しかも、それは、灑洛に関することである。
七月七日の宴を過ぎ、盛夏である。
日向に居れば、じりじりと太陽が肌を焼くほどに陽差しは強く、普通ならば、灑洛も侍女に傘を持たせて歩くところだった。しかし、今日は、鳴鈴と二人で、その上鳴鈴には、贈り物として用意した硯を持たせているので、日よけになるようなものは何もない。
四阿は日陰になって居るのでいくらか涼しいはずだが、それでも、外に居るだけで、肌は汗ばんでしっとりしている。
「本当に、祁貴嬪は、ここに来るんですか? 妃殿下」
「ええ、確かな筋から、情報を得たの。間違いないわ」
灑洛は、キッパリと答える。驚いたのは、鳴鈴だった。
「情報……ですか? 妃殿下が、わざわざ……密偵のような者を雇っているというのですか? 私にも、教えて下さらず?」
裏切られたような顔をして居る鳴鈴に、灑洛は、優しく言う。
「まずは、あなたを欺けなければ……密偵にはならないと思ったの。けれど、大分前から、雇っているわ。これは遊嗄さまにもお教えしていないことよ。だから、あなたも黙っていてね?」
「はい……」と鳴鈴は渋々、言う。納得出来ていないというのがありありと解る。「絶対に黙っていますけれど、一体、それは誰なんですか? それとも、いつも、どこかに潜んでいるのですか?」
「いつも、潜んでいるのよ。さ、鳴鈴、この話はここでおしまいにしましょう……」
密偵のもたらした情報は、確かなはずだった。藍玉殿の造り、祁貴嬪の身の回りの話、祁貴嬪の一日の動き方……などを、事細かに報せてくれる。その密偵の言うことだ。まず、間違いないとみて良い。
(だから、ここには、祁貴嬪が来るわ)
そして、百合の花を摘んで帰る。この花園から、花を手折って、殿舎へと持ち帰ることを許されているのは、祁貴嬪くらいだろう。
灑洛と鳴鈴が、四阿の中で、じっと待っていると、やがて、祁貴嬪の一行が、花園に現れた。
白い百合が映える、濃紺の上衣には水面と小鳥たちが刺繍で描かれているが、生地自体が透けるほど薄いので、重苦しくはない。そして、やはり濃紺の上襦に下裳。すべて濃紺づくしなので、髪も、結い上げたところに、黄金と青金石で造られた釵が飾られており、所々に、小さな真珠の飾りが散らされていた。被帛までもが濃紺である。
涼やかな色味の装いだった。
史玉をはじめとする侍女に、宦官まで引き連れて、総勢十五名の一行だった。
花摘みを楽しみ、両手に抱えなければ持てないほどの沢山の百合の花を手折った祁貴嬪は、上機嫌に、引き上げるところだった。
「今しかないわ……っ!」
灑洛は、帰り際の祁貴嬪の前に躍り出た。とっさに拝礼をして、「祁貴嬪にご挨拶申し上げます」と申し上げた。本来ならば、礼を許されるはずだが、祁貴嬪は、また、礼を許そうとはしなかった。七月七日の宴の時と同じだ。
「……灑洛。もう、礼など良いわ。……妾は、お前の顔を見たくないの。二度とよ?」
「えっ?」
祁貴嬪は、絹団扇で口元を覆いながら、柳眉を逆立てて、灑洛を見下していた。しかし、その視線の意味がわからず、灑洛は混乱する。
「先日のお見舞いのお礼に参りましたのですけれど……」
灑洛が、祁貴嬪に硯の入った箱を手渡すと、祁貴嬪は、美しい手で箱を振り払ったあと、肩に掛けていた被帛を剥ぎ取って、そのまま地面に投げ捨てた。高価な品である。それは、祁貴嬪も重々承知していたはずだった。
灑洛は慌てて地面に落ちた被帛を手に取ったが、既に、早々と祁貴嬪は立ち去ろうとしていた頃であった。灑洛が取りすがろうとしても、誰も、取り合わない。侍女の柳栄花だけが、チラリとこちらを見たので、灑洛は必死になって、栄花の手を取った。
「待って頂戴。是非とも、この贈り物を、祁貴嬪へお渡し下さいませ」
灑洛は、硯と落ちた被帛を祁貴嬪へ贈りたかった。その気持ちに、嘘偽りはない。あまりにも熱心に、灑洛が勧めるので、ついに栄花は折れて品物を受け取ると、
「栄花っ! そのようなものは、受け取らないで頂戴!」
「けど、娘娘……折角、皇太子妃殿下がお贈り下さいましたのに……」
せめて、品物を見るくらいは……と栄花が祁貴嬪に捧げ見せると、祁貴嬪は顔色が変わった。
「しつこいわね! そんなものいらないと言っているのよ! ……妾は、獣が触れたものなんて、汚らわしくて手元に置きたくないわ!」
「獣……っ?」
おそらく、それは、灑洛のことを言っているのだ。
「祁貴嬪さま……なにゆえ、わたくしを、獣などと仰せになるのでしょう」
おずおずと、灑洛は聞く。祁貴嬪は、眉を歪めて、「父親と寝た女が、獣でなくて、一体何だというの?」と言い残して、立ち去っていった。
茫然としていた灑洛に、栄花が、祁貴嬪に渡せなかった贈り物を持たせて、去って行く。
「父親と……寝た……交わったと……、言いたいのね? 祁貴嬪は。皇帝陛下は、遊嗄さまの父君だから、私にとっても義理の父だけれど……わたくしは、そんなことをした覚えはないわ……っ!」
震える声で、灑洛は言う。けれど、聞くべき祁貴嬪は既に花園を立ち去ったあとだった。
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