神鳥を殺したのは誰か?

鳩子

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第五章 廟堂の宵

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 遊嗄ゆうさは、父母に愛された記憶がない。

 帝室の長子ちょうしとして、やらなければならないことが山のようにあり、少しでも出来が悪ければ、母親である貴嬪きひんが手に持った馬術用の鞭で、容赦なく手や肩を叩かれた。

 物心ついたころには、すっかり遊嗄は、劣等感が身に染みついて、何をやっても叩かれると怯えながら暮らしていたが、別段、出来が悪かった子供ではなく、むしろ、優秀な子供であった。

 祁貴嬪という女は、その名の通り、祁家の出身である。祁貴嬪の台頭により、祁家自体も力を付けてきたが、宰相を排出する『ねい家』や、軍人を多く輩出する『てい家』、学者を輩出する『せき家』、多くの官僚を輩出する『家』などの、いわゆる『さんずい』を持つ姓に比べて、格下になる。

 そして、この格差は、乗り越えがたい壁として祁家に立ちふさがっていた。けれど、ここで、祁家は一計を案じる。

 ―――祁家出身の皇帝が即位すれば。

 祁家の扱いは、『さんずい』をもつ名家と、大差無くなるはずだ。そして、一族の総力を挙げて作り出された女。それが、紅淑こうしゅく―――祁貴嬪として、皇宮に君臨する女だ。

 祁貴嬪は、一族の宿願を背負って入宮した。だからこそ、運良く生まれた皇子は、なんとしてでも皇太子に付けなければならなかったし、なんとしてでも、遊嗄を立派な皇太子に育て上げなければならなかった。

 その重圧もあって、祁貴嬪は、鞭を持ったのだ。

 泣き叫ぼうが容赦なく、鞭は飛んでくる。いつしか、泣けば余計に叱られると知って、遊嗄は泣かなくなった。様々な事が出来るようになって、大師たちが遊嗄を褒めそやしても、祁貴嬪は、いつも冷淡で、褒めてくれることなどは一度もなかった。

 父帝も、疎遠である。

 遊嗄が幼い頃は、まだ、あちこちで戦があり、父帝は自ら軍を率いて出なければならなかった。北の国境に出る夷狄いてきとの戦いは、父帝が皇太子だった頃から続いていたはずなので、十年以上つづいただろう。

 戦の声に遊嗄は怯えたが、いつの日か、自分も戦場で戦わなければならないことを悟って、兵法や、剣術、馬術に精を出したが、やはり、祁貴嬪は褒めてはくれなかった。

 誰にも認められない人生は、辛い。

 幼いながらに、遊嗄は疲れ果てて、皇宮の花園の桃の甘い香に誘われるように、ふらふらと、花園へ向かった。

 空気を甘やかに染め上げる桃の香。今まで、遊嗄は、香を焚きしめた部屋の中に居ても、大して、薫りを感じたことはなかったが、今は、馨しい香気を体中で感じている。

(桃の花は、こんなに可憐だったのか……)

 桃の林の最奥、夏を待つ槐花かいか(えんじゅ)の森に隠されるように、小さな廟堂があった。

「お堂?」

 遊嗄は、辺りを見回して、誰も居ないことを確認してから、中へ入った。実際は、後ろに宦官達が控えていたが、それは常のことなので、気にならないようだった。

 お堂は、で赤く彩られ、緑や青、金や銀など、極彩色に彩られていた。

「まるで、女神様の四阿あずまやのようだな」

 遊嗄がそう思ったのは、宝物として飾られている、仙女図の四阿に似ていると思ったからだ。

 扉は鍵も掛けていなかった。おそるおそる、堂の中へ入っていくと、誰が付けたのか、蝋燭が灯されていた。ここを参る者は居るのだろう。遊嗄は、初めて見る堂内を目を輝かせながらぐるりと見回した。

 真紅の柱、真紅の帳。真紅一色で彩られた堂内は、まるで華燭の紅閨こうけいのようだった。

 帳の奥。香と花が手向けられた所に、一幅の絵が掛けられていた。

 陶磁器のように白い肌。黒水晶のように煌めく瞳。桃の蕾のように可憐な唇。額に花鈿かでん(額に丹青で施した梅花の化粧)を飾り、結い上げた髪には、桃の花枝があしらわれ、ふんわり途中に舞う軽やかな被帛ひはくを纏って、桃色の上襦じょうじゅと紅色の下裳かしょうを身に纏った、可憐な女の姿絵だった。

「う、わあ……」

 仙女と思しく彼女は、生き生きとしていて、まるでそこで生きているかのようで、遊嗄は何度か目を擦った。しばらく、時が経つのも忘れてそこに居たが、やがて遊嗄を探す声が聞こえて、仕方がなく、堂を後にした。

 それから、遊嗄は、祁貴嬪に鞭でぶたれたり、褒めて欲しかったのに、相手にもして貰えなかったとき、堂を訪れるようになった。

「……あなたは、桃花娘娘とうかにゃんにゃん(桃の花の女神)なのですね」

 絵に語りかけているだけで、遊嗄は、満たされているような心地になった。遊嗄が、どうしても聞いて貰いたかった―――たとえば、とても苦労して練習したしつの古曲が、今日、やっと弾けるようになっただとか、育てていた牡丹が、美しい花を咲かせたので、祁貴嬪に届けに行っただとか、とういう他愛のないことを、一方的に話しているだけで良かった。

 桃香娘娘は、やんわりとした笑みを浮かべながら、遊嗄のすべてを受け容れてくれるようだったからだ。

 けれど、遊嗄が八つになった年だった。

 ある日、廟堂へ行くと、真紅の柱、真紅の帳も変わらなかったが、廟堂から、姿絵が消え失せていた。

 堂の中を探し回ったが、遊嗄には見つけられず、途方に暮れていたとき、廟堂を訪れる者があった。

 初老の宰相、ねい東哲とうてつであった。正二品の高位を示す紫の衣装を身につけた彼は、遊嗄の姿を見つけるなり、「皇子さまに拝礼いたします」と優美に拝礼する。

「濘宰相……ここに、仙女……桃香娘娘の姿絵が掛けてあったが……見当たらぬのだ。不届き者に盗まれたのかも知れぬ」

 遊嗄の言を聞いて、濘宰相は微苦笑した。

「あの絵は、桃香娘娘ではありません」

「桃香娘娘ではない?」

「……あの絵は、陛下が、お部屋の方へとお持ちになりました。あの絵は、私の妻で……陛下の姉君、娥婉がえん公主のものです」

「なぜ……こんな所に?」

「さあ……」

 濘宰相は、答えをぼやかした。それを、遊嗄は物足りない気持ちで聞いていたが、「私は、この姿絵に、心を慰められていたのだ。私の伯母上にお目にかかりたい。今度、皇宮へ連れてきては頂けまいか」と思い直して、濘宰相に詰め寄っていた。

「殿下、それは出来かねます。妻は、娘を産んで程なく、泉下へ参りました」

「そうだったのか、知らぬ事とはいえ、失礼なことを申した。濘宰相、許されよ」

 舌を噛みそうになりながら、遊嗄は、殊更丁寧に礼をした。濘宰相は、かえって恐縮したらしく「殿下、お顔を上げて下さいませ……」と遊嗄の側に寄る。その手が、遊嗄の手に触れたとき、酷く、温かいと思った。人の手は、暖かものなのだ。それも、遊嗄は忘れかけていた。

「こちらの廟に掛けられていた、姿絵は、もはや陛下のお部屋から出ることはないでしょう。けれど、対になる姿絵を、作らせて、我が濘家に飾ってあります。もし、濘府ねいふを訪れることがございましたら、その時に、お目に掛けましょう」

 濘宰相の言葉を聞いて、遊嗄は、濘府を尋ねる機会が来ることを心待ちにした。

 そのうちに、『皇太子』となる遊嗄の花嫁候補として、濘家の令嬢の名が上がっていると聞いて、遊嗄は、心が躍った。

(あの桃香娘娘の姫が、私の妃になるのか!)

 祁貴嬪が望んで居たのは、『桃香娘娘の姫』ではなく『後妻の姫』だったが、遊嗄はこの時に、既に決めていたのだった。

(私は……、私の支えになってくれた、あの桃香娘娘の姫を妃に迎えるのだ……)

 それから、遊嗄が濘府を尋ねる日まで一年かかったが、心は変わらなかった。





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