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第四章 七月七日の夜
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しおりを挟む瓊玖殿の寝室は、殿舎の中でも特に奥まった場所にあり、暗殺の恐れがある為、入り口から一本道ではたどり着く事が出来ない作りになって居る。
執務をする為の殿舎である『黒瓊殿』を抜け、黒く塗られ玉と彫刻で飾られた美々しい回廊を渡り、『天穹殿』『羽花殿』などの殿舎を抜けなければならない。
平素は、考え事をしながらのんぞりと歩いている為、この長々とした距離も気にならないが、腕に灑洛を抱き上げているので、酷く、遠く感じる。
「皇帝陛下。……皇太子妃殿下は、私がお運びしましょうか」
気を遣って尹太監が申し上げるのを、「朕が運ぶ」と一蹴して、皇帝は、そのまま、寝室へ向かった。
寝室たどり着き、控えていた侍女たちに命じて、灑洛を着替えさせる。
犬に襲われた衣装は、あちこちが破れ、血に汚れ、そして、びっしょりと濡れていた。
「こちらのご衣装は、如何致しましょうか」
「一応、乾かして、保管しておくように。今回の件は、羅桂妄が犯人と言う事で片付くだろうが……」
「はい、私が、保管しておきます……万が一、調べが必要になった折りには……」
「ああ、それは頼んだ」
皇帝の命を受けて、灑洛は、白く薄い夜着に着替えさせられ、牀褥(ベッド)へと運ばれた。広々とした牀褥である。大人が二三人、手をめいっぱい広げても、十分なほどに広い。
「皇帝陛下、太医が、薬湯を持って参りました」
皇帝は、すぐさま、太医の元へ向かうと、捧げられた薬湯を見遣った。土で出来た土瓶で煮出された薬湯の、苦みのある匂いが、皇帝の鼻腔を刺激して、皇帝は、秀麗な眉を歪ませた。
「苦そうだな」
「それは、苦いとは思いますが……、その分、効果はございます」
太医は、平伏した。太医の連れてきた医官たちも一緒に平伏する。
「わかった。では、そなたたちは、下がれ」
手短に命じた皇帝に、太医は、首を傾げながら、皇帝に確認した。
「陛下。わたくしどもが、妃殿下に薬湯を飲ませますが……」
「いや、良い。朕が飲ませる」
皇帝の言葉は断定的で、太医は、それ以上何を言えなくなってしまったように「皇帝陛下の仰せのままに」と拱手して下がるほかなかった。
薬湯の入った土瓶と、茶碗を持って、皇帝は牀褥へ上がる。幾重にも絹の褥を重ねて作られた為に、皇帝の体重が乗った牀褥は、皇帝の膝の形にたわんだ。
侍女達も去っている。
ただならぬ雰囲気を察したのか、尹太監が目配せしたのかは解らないが、寝殿には、皇帝と、灑洛そして、閨の記録をする、丹史が居るだけだった。
皇帝は、青白い顔をして眠る灑洛の傍らに座った。そっと、冷たい頬を撫でてから、土瓶の薬湯を茶碗に注ぐ。
「灑洛、薬湯だよ。……飲みなさい」
呼びかけても、灑洛の反応はない。もう一度呼びかけたが、同じ事だった。皇帝は、躊躇わず、次の行動に出た。茶碗の薬湯を口に含み、灑洛の身体を抱き起こす。そのまま、唇を重ねて、幽かに開いた灑洛の口腔の中へ……と、薬湯をゆっくり移していった。
薬湯は、口の中が渋くなって顔を歪めるほどに苦かったというのに、灑洛の唇は、蕩けるように甘かった。
(ああ……これが、罪の味なのかな……)
皇帝は、薬湯を口移しで飲ませきった。口づけは、五度もしなければならず、その間に、胸の奥に燻っていた埋め火が、轟々と音を立てて燃え上がっていくのを、止める事が出来なくなった。
(姉上、あなたの事は、もう、諦めたはずだというのに……)
実姉に対して抱いた恋情という―――薄汚い劣情は、、二十年も昔に、殺したはずだった。けれど違った。恋の火は消えていなかった。埋め火のように胸の奥に宿り、いつか、息を吹きかけられる瞬間を待っていたのだ。
もはや、黎氷に、恋情を抑える事など不可能だった。
「灑洛……」
口移しではない。誰かに見られれば、誤魔化しようのない口づけをして、黎氷は、灑洛の身体をきつく抱きしめた。
寝室の戸を、壊れそうなほどに強い力で殴りつける音を、黎氷は遠くに感じていた。
「父上っ! 灑洛は無事ですか! 父上っ!」
半身を引き裂かれるような、遊嗄の悲痛な叫び声が、寝殿に谺していた。
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