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第四章 七月七日の夜
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「皇帝陛下に申し上げます!」
祁貴嬪が声を上げたとき、天青堂は水を打ったように静まった。聞こえているはずの水音さえ、遠くに聞こえるほどの、静寂を破ったのは、皇帝の問いかけだった。
「なにか、あったのかな、祁貴嬪」
「ええ、陛下。……まだ、糸を通すのが終わっておりませんから、いっそ、これを賭け物にしては如何かと」
祁貴嬪の提案に、一同がざわめいた。これは、濘夫人も聞いていなかったことらしく、
「祁貴嬪、賭け物だなんて、なにを賭けるおつもりですの?」
と心配そうに聞く。
「心配なことではありません。先ほど、遊嗄も申し上げていた通り、本日は、七月七日。夫婦和合の日ございます。けれど……」
祁貴嬪は、チラリと、皇帝の坐す玉座に視線をやってから、続けた。
「陛下の玉座は、お隣に座る方がご不在で、淋しいばかり」
隣に座る方―――玉座の隣は、皇后の席である。
現在、妃嬪の中で、第一位の地位に居る祁貴嬪でさえ、あの席に座ることは許されない。本来ならば、祁貴嬪が座っても良いはずなのだが、皇帝が退けていたのだった。
『これは朕の皇后にしか座らせぬ』
即位したときの言葉だったので、祁貴嬪たちも反対しなかった。皇太子を産めば、皇后になることが出来ると、信じて疑わなかったのだった。かくて、玉座の隣は、空席となったのだった。
「針に糸を通したものを、皇后にせよと?」
皇帝が、さも可笑しそうに、クッと身を屈めて笑った。「朕の皇后の座は、賭け物か。そなたも、中々、面白いことを言うね」
「今後、どなたもお座りにならぬのですから、真珠で飾った椅子が哀れと思いまして……今晩一夜だけの皇后……という趣向は如何でございましょう」
にっこりと、祁貴嬪は笑んだ。妖艶な、と言うより、なぜか、悪戯を思いついた少女のような、あどけない笑みだった。髪に飾った金歩揺が、祁貴嬪の動きに吊られて、シャラリと揺れる。
「一晩の皇后か」
「ええ、選ばれた者は一夜限りの皇后として、御寝所にお仕えいたしますわ。そして、朝が来たら、霞のように消えてしまいますの」
「それは、楽しい趣向だね……どうやって、今宵の夜伽を誰に命じるか、思案していたところだった。けれど、それで、誰も針に糸を通せなかったらどうするのかな?」
皇帝は、祁貴嬪の提案に、乗り気のようだった。珍しく、身を乗り出して聞いている。先ほどのうつろな表情は消えて、愉しげに、薄い口元を歪ませていた。
「その時は、灑涙雨が降ったと言うことで、牽牛と織女の逢瀬が叶わなかったと言うことになりましょうか? 申し訳ありませぬが、独り寝をお楽しみ下さいませ」
灑涙雨とは、七月七日の夜に降る雨のことで、牽牛と織女の逢瀬が適わなくなることから付けられた名だ。涙を灑ぐ雨という意味である。
祁貴嬪の雅な提案は、皇帝の興を誘ったらしい。
「灑涙雨もあるとは驚いたね。……今日の、この七月七日の夜に、そなたらは朕を独り寝させようという魂胆かな。薄情な妃たちだ」
「妾たちは、皆、常から針と糸を持っておりますから、酔っていても、五色の糸を通すことなど、造作もありませんわ」
ほほ、と祁貴嬪は笑う。
「なるほど、自信が有るようだね。良かったよ、今日の独り寝は、淋しいところだった」
「では、一夜限りの皇后をお選び下さいませ」
「うむ……では、こういうことは、年長の者からいこうか。さあ、誰が一番年上だったかな。そのものから、初めておくれ」
皇帝は、妃達を見遣る。
「あら、わたくしよりも、祁貴嬪のほうが年嵩でしてよ?」とは裴淑妃。
「わたくしは、年少ですから」と控えめに言うのが、濘夫人。
「まあ! お二方とも、一番年が若いのは、妾ですよ!」
負けずと祁貴嬪も声を上げたので、皇帝は笑い出す。
「そなた達は、こういうときは、皆で譲り合うのだね………みな、姉妹のように仲が良くて麗しいことだが、これでは、年少の者からと言っても角が立つ。……ああそうだ、こうしよう。灑洛!」
唐突に、皇帝は、灑洛の名を呼んだ。
祁貴嬪たちの、笑顔が、一瞬で凍り付いた。
「は……い、皇帝陛下」
拱手して答えながら、灑洛は、嫌な汗で、背中がびっしょりと濡れていくのを感じた。傍らの遊嗄も、まさか、この話が、こちらに飛び火するとは思わず、立ち上がりかける。
祁貴嬪の眉が、憤怒の形に吊り上げられ、濘夫人は、開いた口がふさがらない。裴淑妃は、口元を押さえて、得体の知れない者を見るように、皇帝と灑洛を交互に見比べていた。
もし、ここで、灑洛が針に糸を通せば、皇帝は、灑洛を閨へ連れていくつもりだろうか。
そんなことは、断じてあってはならないことだが―――皇帝は、それを望んで居るのではないか。妃嬪達は、少なくとも、そう思ったし、灑洛も、そう考えた。歯がかみ合わなくなるほど、全身が震えた。
ここで、もし、糸を通すように言われたら、灑洛は、そうするほかない。皇帝の命令は、絶対のものだ。拒めばその先には、死が待ち受けているだろう。
拱手している為、皇帝からは見えないだろうが、灑洛の顔色は、青白く。血の気など、消え失せていた。
「こちらで、なにやら、順番で揉めているようでね……。今回は、あなたが最初にやりなさい。五色の糸を、針に通すだけだ。簡単なことだろう? あなたは、刺繍が得意だったね」
皇帝の、愉しげな声音が、天青堂に谺するようだった。
祁貴嬪が声を上げたとき、天青堂は水を打ったように静まった。聞こえているはずの水音さえ、遠くに聞こえるほどの、静寂を破ったのは、皇帝の問いかけだった。
「なにか、あったのかな、祁貴嬪」
「ええ、陛下。……まだ、糸を通すのが終わっておりませんから、いっそ、これを賭け物にしては如何かと」
祁貴嬪の提案に、一同がざわめいた。これは、濘夫人も聞いていなかったことらしく、
「祁貴嬪、賭け物だなんて、なにを賭けるおつもりですの?」
と心配そうに聞く。
「心配なことではありません。先ほど、遊嗄も申し上げていた通り、本日は、七月七日。夫婦和合の日ございます。けれど……」
祁貴嬪は、チラリと、皇帝の坐す玉座に視線をやってから、続けた。
「陛下の玉座は、お隣に座る方がご不在で、淋しいばかり」
隣に座る方―――玉座の隣は、皇后の席である。
現在、妃嬪の中で、第一位の地位に居る祁貴嬪でさえ、あの席に座ることは許されない。本来ならば、祁貴嬪が座っても良いはずなのだが、皇帝が退けていたのだった。
『これは朕の皇后にしか座らせぬ』
即位したときの言葉だったので、祁貴嬪たちも反対しなかった。皇太子を産めば、皇后になることが出来ると、信じて疑わなかったのだった。かくて、玉座の隣は、空席となったのだった。
「針に糸を通したものを、皇后にせよと?」
皇帝が、さも可笑しそうに、クッと身を屈めて笑った。「朕の皇后の座は、賭け物か。そなたも、中々、面白いことを言うね」
「今後、どなたもお座りにならぬのですから、真珠で飾った椅子が哀れと思いまして……今晩一夜だけの皇后……という趣向は如何でございましょう」
にっこりと、祁貴嬪は笑んだ。妖艶な、と言うより、なぜか、悪戯を思いついた少女のような、あどけない笑みだった。髪に飾った金歩揺が、祁貴嬪の動きに吊られて、シャラリと揺れる。
「一晩の皇后か」
「ええ、選ばれた者は一夜限りの皇后として、御寝所にお仕えいたしますわ。そして、朝が来たら、霞のように消えてしまいますの」
「それは、楽しい趣向だね……どうやって、今宵の夜伽を誰に命じるか、思案していたところだった。けれど、それで、誰も針に糸を通せなかったらどうするのかな?」
皇帝は、祁貴嬪の提案に、乗り気のようだった。珍しく、身を乗り出して聞いている。先ほどのうつろな表情は消えて、愉しげに、薄い口元を歪ませていた。
「その時は、灑涙雨が降ったと言うことで、牽牛と織女の逢瀬が叶わなかったと言うことになりましょうか? 申し訳ありませぬが、独り寝をお楽しみ下さいませ」
灑涙雨とは、七月七日の夜に降る雨のことで、牽牛と織女の逢瀬が適わなくなることから付けられた名だ。涙を灑ぐ雨という意味である。
祁貴嬪の雅な提案は、皇帝の興を誘ったらしい。
「灑涙雨もあるとは驚いたね。……今日の、この七月七日の夜に、そなたらは朕を独り寝させようという魂胆かな。薄情な妃たちだ」
「妾たちは、皆、常から針と糸を持っておりますから、酔っていても、五色の糸を通すことなど、造作もありませんわ」
ほほ、と祁貴嬪は笑う。
「なるほど、自信が有るようだね。良かったよ、今日の独り寝は、淋しいところだった」
「では、一夜限りの皇后をお選び下さいませ」
「うむ……では、こういうことは、年長の者からいこうか。さあ、誰が一番年上だったかな。そのものから、初めておくれ」
皇帝は、妃達を見遣る。
「あら、わたくしよりも、祁貴嬪のほうが年嵩でしてよ?」とは裴淑妃。
「わたくしは、年少ですから」と控えめに言うのが、濘夫人。
「まあ! お二方とも、一番年が若いのは、妾ですよ!」
負けずと祁貴嬪も声を上げたので、皇帝は笑い出す。
「そなた達は、こういうときは、皆で譲り合うのだね………みな、姉妹のように仲が良くて麗しいことだが、これでは、年少の者からと言っても角が立つ。……ああそうだ、こうしよう。灑洛!」
唐突に、皇帝は、灑洛の名を呼んだ。
祁貴嬪たちの、笑顔が、一瞬で凍り付いた。
「は……い、皇帝陛下」
拱手して答えながら、灑洛は、嫌な汗で、背中がびっしょりと濡れていくのを感じた。傍らの遊嗄も、まさか、この話が、こちらに飛び火するとは思わず、立ち上がりかける。
祁貴嬪の眉が、憤怒の形に吊り上げられ、濘夫人は、開いた口がふさがらない。裴淑妃は、口元を押さえて、得体の知れない者を見るように、皇帝と灑洛を交互に見比べていた。
もし、ここで、灑洛が針に糸を通せば、皇帝は、灑洛を閨へ連れていくつもりだろうか。
そんなことは、断じてあってはならないことだが―――皇帝は、それを望んで居るのではないか。妃嬪達は、少なくとも、そう思ったし、灑洛も、そう考えた。歯がかみ合わなくなるほど、全身が震えた。
ここで、もし、糸を通すように言われたら、灑洛は、そうするほかない。皇帝の命令は、絶対のものだ。拒めばその先には、死が待ち受けているだろう。
拱手している為、皇帝からは見えないだろうが、灑洛の顔色は、青白く。血の気など、消え失せていた。
「こちらで、なにやら、順番で揉めているようでね……。今回は、あなたが最初にやりなさい。五色の糸を、針に通すだけだ。簡単なことだろう? あなたは、刺繍が得意だったね」
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