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第四章 七月七日の夜
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しおりを挟む黄金の玉座の上から、黒衣黒珠に飾られた皇帝は、無表情で、灑洛を見ていた。
皇帝の美貌は、水晶の簾が反射させる、きらきらした柔らかな橙色の光を受けてなお、蝋のように青白く、作り物めいて見えた。
天青堂の煌びやかな装飾すら、色を失うようだった。皇帝は、身動き一つせず―――杯も取らずに、彫像のように固まっている。
それに気付きながら、遊嗄は灑洛と、仲睦まじくしているのだろうが、虚無を写したような皇帝の眼差しに見つめられていると思うと、どうにも落ち着かない。
「遊嗄さま……、もうそろそろ、おやめ下さいませ」
遊嗄は、灑洛を抱き寄せて、共に杯を呷っている。時折、灑洛の唇に残った酒を、指先で拭ったりするものだから、灑洛は皇帝の視線が気になって仕方がない。
「そうだね。あなたが千杯を空けたら、止めて上げるよ」
遊嗄は、意地悪なことを言う。酔っているのだろう。灑洛は困りながらも、遊嗄が差し出した杯を呷った。
「酔っていらっしゃいますのね?」
「いいや、酔えないよ。……酔ったら、何かあったときに、あなたを守れない」
遊嗄の口調は、彼が酔っていないと主張するように、確かなものだった。
「遊嗄さまは、こんなにお酒に強かったかしら?」
「実は、仕掛けがある」
遊嗄は、自分の杯を灑洛に渡した。見た目には、何も変わらない。すこし、山吹色掛かった、素晴らしい美酒である。一口含んで、灑洛は「まあ!」と口に出してしまった。
遊嗄が飲んでいたのは、少々の色と香りを付けた、ただの水だったからだ。
遊嗄とともに過ごすとき、酒を酌み交わすこともあるので、遊嗄が酒が嫌いというわけでは、なかった。
「こんなものを、侍女によういさせていたのですか?」
「ああ。……宴の席は、ただの遊楽の場所ではない。だから、準備は必要なのだよ」
遊嗄の顔つきが、一瞬だけ、険しくなった。
「本当ならば、政の席でこういうことは言いたかったけれど、父上の、あの眼を御覧、灑洛」
遊嗄が、皇帝の顔を見るように、灑洛を促す。ひどく、顔色が悪く見えた。
皇帝の顔色は悪かったが、もっとも驚いたのは、空ろな眼差しだった。この世の終わりに繋がる虚のなかのようだった。
「この先、皇帝陛下が、何かを企てていないとは思わない」
固い声を出す遊嗄を、少しでも支えられるように、と灑洛は、遊嗄の腕にしがみついた。皇帝が見ていようとも、構わなかった。
「皇帝陛下が……なにか、なさるつもりだと? 遊嗄さまは、実の子ですのに」
「いろいろと考えられるよ。実の子も、親兄弟も、あの方には、関係がないけれどね……あの方は、実弟であっても容赦はしない。実際、ご自身の手で、弟は抹殺されているんだ」
遊嗄の言葉を聞いた灑洛は、信じられないというような顔をして、掠れた声で言う。
「歴史をひもとけば、兄弟が殺し合うことなんて、珍しくもないのでしょうけれど……」
実際に、近い所で起こったと聞かされると、怖ろしい……というよりも、やるせない気分になった。実際、殺したくて殺したということは、殆どないだろうと思う。だとすると、生きる残る為に、必死に抵抗した結果、実弟を殺すと言うことになったのだろう。それを、灑洛は、『怖ろしい』の一言で切り捨てることは出来なかった。
「皇帝に同情するのかい?」
遊嗄の問いに、灑洛は「いいえ」とキッパリと答えられた。同情ではない。「わたくしの気持ちは、同情ではないわ」
「なら、なんだろうね……やっぱり、私は心配なんだよ、灑洛」
遊嗄が、指をつぶすような強さで、灑洛の手を握ってくる。
「痛いですわ……遊嗄さま」
「時々、私とあなたは、出す答えが違う。……私は、父上を、哀れなことだと思ったけれど、あなたは違う。なぜ、私は、あなたと違う答えを出してしまうのだろうね。だから、私は、あなたが遠くに感じる事があるんだよ」
「以前は、わたくしたちの間に、天漢が流れているような気がすると、仰せでしたわ」
「良く覚えていたね」
遊嗄は、苦笑した。「そう、私たちの間には、どうしても、越えられない溝があって、私は、それが耐えられない」
「どういうことでしょう……」
「私と、あなたは、元は一人の『人』だったものが、二つに分かれてしまったように、いつも、同じことを考えて居ればよいのだと、そう思っている。あなたは、どうだろう。灑洛」
遊嗄は、不安に揺れる眼差しで、灑洛を見ていた。皇帝譲りの美貌である。その黒い瞳が、潤っているようだった。
人は、『全く同じ』などと言うことはない。一人の人が、二つに分かれたように……というならば、それは、己の半身を求めて居ると言うことになるのだろうが、灑洛にはただ、それだけとは思えなかった。遊嗄は、灑洛と全く同一になりたいと思うのならば、それは、遊嗄の自己愛に過ぎない。
本当ならば、嫌悪感を抱くのだろうが、灑洛は、ただ、嬉しかった。
灑洛を、雁字搦めにしようとしている遊嗄の感情は、愛情から出ているものだと思ったからだった。
どうせ、とらわれるのならば、灑洛は、遊嗄の愛情という桎梏にとらわれたい。
「わたくしも、何もかも、すべて、遊嗄さまと同じになりたい……私たちは、魂の片割れのように、二人で一つという存在なのです。きっと」
「本当に、そう、おもうのかい?」
おそるおそる聞く遊嗄に、灑洛は「ええ」と大きく頷いて、躊躇なく答えた。
「わたくしの、魂の半身は、あなたです。遊嗄さま」
その言葉は、甘い罠のように灑洛を絡め取るが、灑洛はそれで構わなかった。このまま、遊嗄の腕の中に飛び込んでしまおうかと思ったが、すんでの所で留まる。それは、遊嗄にも伝わったらしく、もどかしげに、指が蠢いていた。
思わず顔を見合わせて「わたくしたち、やっぱり、魂の半身なのですわ」と灑洛が言った言葉をかき消すように、祁貴嬪の声が、天青堂に谺した。
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