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第四章 七月七日の夜
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しおりを挟む瓊玖殿の、天青堂に皇帝が出御した。
「皇帝陛下に拝礼いたします」
一同が立ち上がり、一斉に礼を取る。全員の声は、まるで一人の声のように、一糸乱れることなく天青堂を満たした。
皇帝は、長々とした黎黒の上衣を引いて歩く皇帝の衣擦れの音と、流れる水の音ばかりが、天青堂に響き渡る。皇帝の今日の衣装は黎黒の上衣に、漆黒の深衣。それに、窈黒の下裳。靴も、黒光りする純黒で、冕冠は付けていなかったが、黒金剛石に黒真珠があしらわれた冠を付けていて、絹で作られた黒纓が男のものとしてはやや細い顎の下で結ばれていた。
十七段の黄金の玉座を、一段ずつゆっくりと登ったあと、「楽に」と皇帝は告げる。灑洛は、先ほど、祁貴嬪の企みで、さきほど長い間拱手していたこともあって、腕が重くて疲れていたので、礼を許されたときには、ほっと安堵の吐息をもらした。
「今宵は、大勢集まったようだね」
皇帝は、特別に気色が良いように、仰せになる。その、張りのある低く、冷たげな声音が、水音すらも凍らせていくようだった。熱気が立ちこめていた天青堂が、俄に、ひんやりとする。それは、流れる水の作用かも知れなかったが、氷の声のせいもあるだろう。
「今宵は、燕遙と凍璃も来ているのだね……そなた達の顔は、朕も久方ぶりに目にするな。たまには、朕の所に来ると良いだろう。
朕が、皇子であった頃は、父帝への挨拶は欠かさなかったものだ」
皇帝は、暗に、挨拶にも来ないことを詰っているのだろう。燕遙と凍璃は青ざめた顔をして、大急ぎで玉座の御前に設えられた舞台に出て行くと、平伏すように拝礼した。
「申し訳ありませぬ。……皇宮には、兄上もおいでになると思い、我々の姿を、不快に思うのではないかと」
兄上―――と名指しされた遊嗄は、一瞬、眉がぴくりと動いた。巻き込まれたことを、不愉快に思っているのだろう。
「遊嗄さま……」
と灑洛は、遊嗄の掌に、そっと、手を重ねる。遊嗄の手は、冷たい汗をかいて、不愉快に湿っていた。灑洛は、侍女に目配せして、手巾をもって来させると、遊嗄の手を、優しく拭う。
「灑洛、済まないね」
「いいえ……」
見つめ合って、笑みを交わしあう灑洛と遊嗄を切り裂くように、「皇太子!」と皇帝の声が飛んだ。
折角の甘い時間を過ごしていた灑洛だったが、皇帝の鋭い声に我に返って、慌てて居住まいを正した。
「陛下に拝謁いたします。何用でございましょうか」
「何用だと?」
皇帝は、不機嫌に眉を跳ね上げる。秀麗な美貌が、歪んだ。
「そなた、今の、弟二人の言葉を聞いていなかったのか?」
呆れた声音で聞く皇帝に対して、遊嗄は「はい、何も」とにこり、と微笑んで答える。遊嗄は、先ほどの言葉を聞いているはずだった。だからこそも、弟二人に巻き込まれたことを不愉快に思って眉が動いたのだろうから。
「なにしろ、可愛い妃が側にいるのです。弟よりも、妃を愛でたいと思うのは、当然のことでしょう。ましてや、本日は、七月七日。男女が和合する日に他なりませんから、弟たちは……」
皇帝の前で、遊嗄はぬけぬけと言う。皇帝の薄い唇の端が、ぴくりと引きつる。
遊嗄と皇帝の会話を、妃嬪たちも、固唾を呑んで見守っている。
皇帝は、灑洛を気に入っているという噂がある。実際、神鳥を与えるなど、度を超した贈り物をして居ることからも間違いない。それを知っていながら、遊嗄は、皇帝を挑発するように、言ったのだ。
間に立った灑洛は、胃がキリキリと痛んで、縮みそうだと思ったが、務めて表情を変えずに、にこやかな笑顔を浮かべたままでいた。にこやかな笑顔は、皇城において、鎧である。
「弟よりも、妃か」
皇帝の声が、冷え冷えと響く。二人の弟皇子は、傍目にもはっきりと解るほど震えている様子で、気の毒なほどだった。まさか、こんな言い争いになるとは思わなかったのだろう。
「無論。弟よりも妃を取るのは、帝室の血を繋いでいかなければならない私の、皇太子としての、務めに他なりません」
言い切った遊嗄の横顔は、凜として気高かった。なんとしてでも、皇帝を退けて、灑洛を守ろうとするのがよく解る。灑洛は胸が熱くなるのを感じていた。
「なるほど、七月七日の宴に相応しい、夫婦の絆だ。……まあ、後ほど、その話はゆるりと聞こう。まずは、牽牛と織女に、酒を捧げようではないか」
燕遙と凍璃は、そそくさと、皇帝の前から立ち去る。うやむやなままになったが、解放されて良かったという安堵が、だらかなく緩みきった顔に浮かんでいた。
皇帝の言葉を合図に、各人に酒器が渡される。夏の夜に相応しい、涼やかな、玉杯に注がれた酒は、馨しく、薫りを聞いているだけで、酩酊しそうなほどだった。
皇帝の合図で、皆、杯を捧げ、酒宴が始まった。
「あなたは、糸を通す練習をしてきたの?」
遊嗄に聞かれて、灑洛は「勿論ですわ」と胸を張って答える。「わたくし、刺繍は得意なのですよ?」
「ああ、この手巾を見れば解る。優美な蓮だ。けれど……あの夜を思い出すのは、私だけかな」
耳許に、戯れるように囁く遊嗄の言葉が耳朶に掛かってくすぐったい。
「あの夜は……恥ずかしかったですけれど、大事な、思い出なので……」
「ああ、あの日……あなたは、私の腕の中で、頼りなそうに震えていたのだった。必死に声を堪えて……、とても、可愛らしかった」
「そんなことを、仰有らないで……恥ずかしいわ」
灑洛は一気に、酒を呷った。かーっと、顔に熱が広がっていくようだった。
「まあ、まあ……? なんだか、ふわふわしてきたような感じがしますわ」
頭がぼんやりとして、身体が宙に浮いたような心地になる。
「いまから、針に糸を通すのだけれど……まあ、良いよ。裁縫がこれ以上上達したら、大変だからね」
遊嗄が、そっと、こめかみに口づける。灑洛は、嬉しくて、ふんわりと微笑んだが、次の瞬間、酩酊感など跡形もなく消し飛んだ。
皇帝が、およそ、宴の席には不釣り合いなほどの無表情で、灑洛を、じっと見ていたからだった。白い美貌は、陶器で出来た人形のように、玉座の上に、あった。
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