神鳥を殺したのは誰か?

鳩子

文字の大きさ
上 下
30 / 74
第四章 七月七日の夜

5

しおりを挟む


 瓊玖ぎきゅう殿の、天青てんしょう堂に皇帝が出御しゅつぎょした。

「皇帝陛下に拝礼いたします」

 一同が立ち上がり、一斉に礼を取る。全員の声は、まるで一人の声のように、一糸乱れることなく天青てんしょう堂を満たした。

 皇帝は、長々とした黎黒れいこくの上衣を引いて歩く皇帝の衣擦れの音と、流れる水の音ばかりが、天青てんしょう堂に響き渡る。皇帝の今日の衣装は黎黒の上衣に、漆黒の深衣。それに、窈黒ようこく下裳かしょう。靴も、黒光りする純黒じゅんこくで、冕冠べんかんは付けていなかったが、黒金剛石に黒真珠があしらわれた冠を付けていて、絹で作られた黒纓こくえいが男のものとしてはやや細い顎の下で結ばれていた。

 十七段の黄金の玉座を、一段ずつゆっくりと登ったあと、「楽に」と皇帝は告げる。灑洛れいらくは、先ほど、貴嬪きひんの企みで、さきほど長い間拱手していたこともあって、腕が重くて疲れていたので、礼を許されたときには、ほっと安堵の吐息をもらした。

「今宵は、大勢集まったようだね」

 皇帝は、特別に気色きげんが良いように、仰せになる。その、張りのある低く、冷たげな声音が、水音すらも凍らせていくようだった。熱気が立ちこめていた天青てんしょう堂が、俄に、ひんやりとする。それは、流れる水の作用かも知れなかったが、氷の声のせいもあるだろう。

「今宵は、燕遙えんよう凍璃とうりも来ているのだね……そなた達の顔は、ちんも久方ぶりに目にするな。たまには、朕の所に来ると良いだろう。
 朕が、皇子であった頃は、父帝への挨拶は欠かさなかったものだ」

 皇帝は、暗に、挨拶にも来ないことを詰っているのだろう。燕遙えんよう凍璃とうりは青ざめた顔をして、大急ぎで玉座の御前に設えられた舞台に出て行くと、平伏すように拝礼した。

「申し訳ありませぬ。……皇宮には、兄上もおいでになると思い、我々の姿を、不快に思うのではないかと」

 兄上―――と名指しされた遊嗄ゆうさは、一瞬、眉がぴくりと動いた。巻き込まれたことを、不愉快に思っているのだろう。

「遊嗄さま……」

 と灑洛れいらくは、遊嗄の掌に、そっと、手を重ねる。遊嗄の手は、冷たい汗をかいて、不愉快に湿っていた。灑洛は、侍女に目配せして、手巾をもって来させると、遊嗄の手を、優しく拭う。

「灑洛、済まないね」

「いいえ……」

 見つめ合って、笑みを交わしあう灑洛と遊嗄を切り裂くように、「皇太子!」と皇帝の声が飛んだ。

 折角の甘い時間を過ごしていた灑洛だったが、皇帝の鋭い声に我に返って、慌てて居住まいを正した。

「陛下に拝謁いたします。何用でございましょうか」

「何用だと?」

 皇帝は、不機嫌に眉を跳ね上げる。秀麗な美貌が、歪んだ。

「そなた、今の、弟二人の言葉を聞いていなかったのか?」

 呆れた声音で聞く皇帝に対して、遊嗄は「はい、何も」とにこり、と微笑んで答える。遊嗄は、先ほどの言葉を聞いているはずだった。だからこそも、弟二人に巻き込まれたことを不愉快に思って眉が動いたのだろうから。

「なにしろ、可愛い妃が側にいるのです。弟よりも、妃を愛でたいと思うのは、当然のことでしょう。ましてや、本日は、七月七日。男女が和合する日に他なりませんから、弟たちは……」

 皇帝の前で、遊嗄はぬけぬけと言う。皇帝の薄い唇の端が、ぴくりと引きつる。

 遊嗄と皇帝の会話を、妃嬪たちも、固唾を呑んで見守っている。

 皇帝は、灑洛を気に入っているという噂がある。実際、神鳥を与えるなど、度を超した贈り物をして居ることからも間違いない。それを知っていながら、遊嗄は、皇帝を挑発するように、言ったのだ。

 間に立った灑洛は、胃がキリキリと痛んで、縮みそうだと思ったが、務めて表情を変えずに、にこやかな笑顔を浮かべたままでいた。にこやかな笑顔は、皇城において、鎧である。

「弟よりも、妃か」

 皇帝の声が、冷え冷えと響く。二人の弟皇子は、傍目にもはっきりと解るほど震えている様子で、気の毒なほどだった。まさか、こんな言い争いになるとは思わなかったのだろう。

「無論。弟よりも妃を取るのは、帝室の血を繋いでいかなければならない私の、皇太子としての、務めに他なりません」

 言い切った遊嗄の横顔は、凜として気高かった。なんとしてでも、皇帝を退けて、灑洛を守ろうとするのがよく解る。灑洛は胸が熱くなるのを感じていた。

「なるほど、七月七日の宴に相応しい、夫婦の絆だ。……まあ、後ほど、その話はゆるりと聞こう。まずは、牽牛と織女に、酒を捧げようではないか」

 燕遙えんよう凍璃とうりは、そそくさと、皇帝の前から立ち去る。うやむやなままになったが、解放されて良かったという安堵が、だらかなく緩みきった顔に浮かんでいた。

 皇帝の言葉を合図に、各人に酒器が渡される。夏の夜に相応しい、涼やかな、玉杯ぎょくはいに注がれた酒は、かぐわしく、薫りを聞いているだけで、酩酊しそうなほどだった。



 皇帝の合図で、皆、杯を捧げ、酒宴が始まった。

「あなたは、糸を通す練習をしてきたの?」

 遊嗄に聞かれて、灑洛は「勿論ですわ」と胸を張って答える。「わたくし、刺繍は得意なのですよ?」

「ああ、この手巾を見れば解る。優美な蓮だ。けれど……あの夜を思い出すのは、私だけかな」

 耳許に、戯れるように囁く遊嗄の言葉が耳朶に掛かってくすぐったい。

「あの夜は……恥ずかしかったですけれど、大事な、思い出なので……」

「ああ、あの日……あなたは、私の腕の中で、頼りなそうに震えていたのだった。必死に声を堪えて……、とても、可愛らしかった」

「そんなことを、仰有らないで……恥ずかしいわ」

 灑洛は一気に、酒を呷った。かーっと、顔に熱が広がっていくようだった。

「まあ、まあ……? なんだか、ふわふわしてきたような感じがしますわ」

 頭がぼんやりとして、身体が宙に浮いたような心地になる。

「いまから、針に糸を通すのだけれど……まあ、良いよ。裁縫がこれ以上上達したら、大変だからね」

 遊嗄が、そっと、こめかみに口づける。灑洛は、嬉しくて、ふんわりと微笑んだが、次の瞬間、酩酊感など跡形もなく消し飛んだ。

 皇帝が、およそ、宴の席には不釣り合いなほどの無表情で、灑洛を、じっと見ていたからだった。白い美貌は、陶器で出来た人形のように、玉座の上に、あった。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

寝室から喘ぎ声が聞こえてきて震える私・・・ベッドの上で激しく絡む浮気女に復讐したい

白崎アイド
大衆娯楽
カチャッ。 私は静かに玄関のドアを開けて、足音を立てずに夫が寝ている寝室に向かって入っていく。 「あの人、私が

【取り下げ予定】愛されない妃ですので。

ごろごろみかん。
恋愛
王妃になんて、望んでなったわけではない。 国王夫妻のリュシアンとミレーゼの関係は冷えきっていた。 「僕はきみを愛していない」 はっきりそう告げた彼は、ミレーゼ以外の女性を抱き、愛を囁いた。 『お飾り王妃』の名を戴くミレーゼだが、ある日彼女は側妃たちの諍いに巻き込まれ、命を落としてしまう。 (ああ、私の人生ってなんだったんだろう──?) そう思って人生に終止符を打ったミレーゼだったが、気がつくと結婚前に戻っていた。 しかも、別の人間になっている? なぜか見知らぬ伯爵令嬢になってしまったミレーゼだが、彼女は決意する。新たな人生、今度はリュシアンに関わることなく、平凡で優しい幸せを掴もう、と。 *年齢制限を18→15に変更しました。

王太子の子を孕まされてました

杏仁豆腐
恋愛
遊び人の王太子に無理やり犯され『私の子を孕んでくれ』と言われ……。しかし王太子には既に婚約者が……侍女だった私がその後執拗な虐めを受けるので、仕返しをしたいと思っています。 ※不定期更新予定です。一話完結型です。苛め、暴力表現、性描写の表現がありますのでR指定しました。宜しくお願い致します。ノリノリの場合は大量更新したいなと思っております。

妻のち愛人。

ひろか
恋愛
五つ下のエンリは、幼馴染から夫になった。 「ねーねー、ロナぁー」 甘えん坊なエンリは子供の頃から私の後をついてまわり、結婚してからも後をついてまわり、無いはずの尻尾をブンブン振るワンコのような夫。 そんな結婚生活が四ヶ月たった私の誕生日、目の前に突きつけられたのは離縁書だった。

〖完結〗旦那様には出て行っていただきます。どうか平民の愛人とお幸せに·····

藍川みいな
恋愛
「セリアさん、単刀直入に言いますね。ルーカス様と別れてください。」 ……これは一体、どういう事でしょう? いきなり現れたルーカスの愛人に、別れて欲しいと言われたセリア。 ルーカスはセリアと結婚し、スペクター侯爵家に婿入りしたが、セリアとの結婚前から愛人がいて、その愛人と侯爵家を乗っ取るつもりだと愛人は話した…… 設定ゆるゆるの、架空の世界のお話です。 全6話で完結になります。

アルバートの屈辱

プラネットプラント
恋愛
妻の姉に恋をして妻を蔑ろにするアルバートとそんな夫を愛するのを諦めてしまった妻の話。 『詰んでる不憫系悪役令嬢はチャラ男騎士として生活しています』の10年ほど前の話ですが、ほぼ無関係なので単体で読めます。

【完結】捨てられ正妃は思い出す。

なか
恋愛
「お前に食指が動くことはない、後はしみったれた余生でも過ごしてくれ」    そんな言葉を最後に婚約者のランドルフ・ファルムンド王子はデイジー・ルドウィンを捨ててしまう。  人生の全てをかけて愛してくれていた彼女をあっさりと。  正妃教育のため幼き頃より人生を捧げて生きていた彼女に味方はおらず、学園ではいじめられ、再び愛した男性にも「遊びだった」と同じように捨てられてしまう。  人生に楽しみも、生きる気力も失った彼女は自分の意志で…自死を選んだ。  再び意識を取り戻すと見知った光景と聞き覚えのある言葉の数々。  デイジーは確信をした、これは二度目の人生なのだと。  確信したと同時に再びあの酷い日々を過ごす事になる事に絶望した、そんなデイジーを変えたのは他でもなく、前世での彼女自身の願いであった。 ––次の人生は後悔もない、幸福な日々を––  他でもない、自分自身の願いを叶えるために彼女は二度目の人生を立ち上がる。  前のような弱気な生き方を捨てて、怒りに滾って奮い立つ彼女はこのくそったれな人生を生きていく事を決めた。  彼女に起きた心境の変化、それによって起こる小さな波紋はやがて波となり…この王国でさえ変える大きな波となる。  

運命の番?棄てたのは貴方です

ひよこ1号
恋愛
竜人族の侯爵令嬢エデュラには愛する番が居た。二人は幼い頃に出会い、婚約していたが、番である第一王子エリンギルは、新たに番と名乗り出たリリアーデと婚約する。邪魔になったエデュラとの婚約を解消し、番を引き裂いた大罪人として追放するが……。一方で幼い頃に出会った侯爵令嬢を忘れられない帝国の皇子は、男爵令息と身分を偽り竜人国へと留学していた。 番との運命の出会いと別離の物語。番でない人々の貫く愛。 ※自己設定満載ですので気を付けてください。 ※性描写はないですが、一線を越える個所もあります ※多少の残酷表現あります。 以上2点からセルフレイティング

処理中です...