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第四章 七月七日の夜
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しおりを挟む七月七日の宴が行われるということで、灑洛と遊嗄は、皇帝の常の住まいである瓊玖殿に来ていた。
瓊玖殿の中でも、天青堂と呼ばれる大広間で、池から引いた水が巡らされて、広間の中だというのに、噴水や橋がある。その作りを見た時に、灑洛は、皇帝の意図に気がついた。
各々の席は、橋で繋がれている。橋は、楕円を半分に切ったような形の、大きく湾曲したものだったし、あちこちから噴水や、水滴に想を得たらしい、水晶を連ねた簾が掛けられた場所もある。
水晶の簾は、部屋のあちこちで灯された、行灯の光を受けて、橙色の柔らかな光を、あちこちに優しく乱反射させていた。まるで、黄金の水面にいるようだった。
この美しい広間は、橋で区切られているので、人の行き来が容易でない。
それだけではない。対面からは、人の顔さえ見えないように、それぞれの席が独立した配置になっている。けれど、おそらく、どこからでも、玉座と、その前に設えられた、舞台は、よく見えるのだろう。
灑洛たちの席がそうなので、おそらく、どの席も優劣はない。
祁貴嬪が到着したので、灑洛と遊嗄は立ち上がって、拱手した。
「祁貴嬪に拝礼申し上げます」
遊嗄が、朗々とした声で告げるが、祁貴嬪は、聞こえないふりをし続けていた。祁貴嬪から「楽に」と言われなければ、灑洛と遊嗄は、礼を解くことは出来ない、
そのうち「おや、まだ、父上はお見えになって居ないようだな!」と元気な声を響かせて、男二人が入ってきた。皇子であることを示す、緑色の上衣を着ている。
「まあ、燕遙に凍璃。久しぶりにお目にかかりますね……」
祁貴嬪は、いつもよりも声を弾ませて、燕遙と凍璃の二人の元へ、小走りに近づいた。燕遙も凍璃も、父親である皇帝よりも、母親である裴淑妃の方に似ている。その為、遊嗄と兄弟とは、一見わからない。
燕遙と凍璃は、上背も高く、筋肉がしっかりついたがっしりした体格である。裴家は、軍人出身なので、その血を色濃く受け継いだ燕遙と凍璃は、剣術や馬術が得意であった。
駆け寄ってきた祁貴嬪の姿を見た二人の皇子は、「祁貴嬪に拝礼申し上げます」と挨拶して、「まあ、あなたたちは、他人行儀な事……早く楽にしなさい」と二人に礼を許したが、灑洛たちは無視をしている。
(こんなに、祁貴嬪のご不興を買っているのは、良くないわ……)
どうすれば良いか解らないが、なんとかして、祁貴嬪と和解しなければならない。困ったことだが、灑洛も、多少の準備はしている。これも、遊嗄の為とおもえば、灑洛は、どんなことでも出来るような気がしていた。
「二人は、とても良い子ね。わたくしは、あなたが羨ましいわ、裴淑妃」
「有り難うございます、娘娘。お前達も、お礼を申し上げなさい」
裴淑妃に促されて、燕遙と凍璃は、祁貴嬪に深々と拱手して、礼を述べた。
「祁貴嬪には、格別な思し召しを頂きまして。有り難うございます」
二人の皇子を伴って席に移動したあとも、礼を許されない。そろそろ、腕が疲れて、震えはじめたのを、「クス」と笑う声が聞こえた。腹が立ったが、宴の席の前で、文句を言うわけにも行かない。
「あら」と祁貴嬪が態とらしく言いながら、立ち上がった。周りの皇子達も立ち上がる。
「遊嗄と灑洛は、いつまで礼をしているの? 変わったことが好きなのね」
絹団扇を優美に動かしながら、祁貴嬪は言った。「妾は、お前達に、礼を許したわ。上の空で聞いていなかったのでしょう。まったく、失礼な子供達だわ。……ねぇ、燕遙、凍璃」
「はい、祁貴嬪」
「私も、確かに、皇太子殿下と皇太子妃殿下は、楽に、と祁貴嬪が仰せになったのを聞いております」
平然とした顔で、二人は語る。それを聞きながら、灑洛は腹立たしくなった。
(こんな時に、晧珂が居てくれたら、真実が解るはずなのに)
今日の宴に、灑洛は、神鳥を同行させようとしていた。神鳥も、しばらく皇帝に逢っていないはずなので、寂しがっているかも知れないと思ったのだった。
ところが、遊嗄は『神鳥は連れていかない方が良い』と言って、神鳥の世話を、鳴鈴にきつく命じていた。それだけども、おかしなことなのに、道すがら、皇帝付の尹太監が、
『本日の宴には、神鳥はお連れにならぬようとの仰せでございましたが……、神鳥は、殿舎に置いてきたのですね。安心いたしました』
遊嗄に加えて、尹太監まで、神鳥を殿舎に置いてこいというのは、異様なことだった。だから、灑洛も、訝しく思って居たのだ。けれど、祁貴嬪の態度と言い、遊嗄が何も語らないことと言い……おそらく、灑洛のあずかり知らないところで、何か、怖ろしい企てが動いているのだろうと言うことも、よく解った。
「遊嗄さま、わたくし、どうすればよろしゅう御座いますか?」
礼を解いて席についた灑洛は、遊嗄に問い掛けた。か細い声だった。
「あなたは、いつも通りしていてくれ。私は、あなたが、無理をするところなどは見たくない。………あなたの、この肌に触れて良いのは、私だけだからね。だから、私は、あなたの為にならば、何でもするよ」
「わたくしよりも、国のことを考えて下さいませ」
「そうだな。君が住む国だからね。君の為に、私はこの国を、よりいっそう発展させていくよ。何千年後に生きる者が、私の時代を見て、栄えていたことに驚くほどに」
遊嗄は懐から手巾を取り出した。蓮の花が刺繍された純白の手巾を、口唇に押し当てる。ただそれだけのはずなのに、灑洛は気恥ずかしくなる。灑洛と遊嗄が仲睦まじい様子を見て、祁貴嬪たちは、なにやら話し合っている。
時折、甲高い笑い声が上がるのが聞こえてきたが、内容までは、灑洛には解らなかった。
「遊嗄さま」
灑洛が呼びかけると、遊嗄は「なんだい?」と、優しく聞き返した。春そのもののような、優しい笑顔だった。
「今回は、間に合いませんでしたけれど。……今度、わたくしが刺繍した上衣を作りますわ」
「それは嬉しいことだ! 今日の憂い気分が吹き飛んでしまったよ。灑洛」
「出来映えについては、期待しないで下さいませ。わたくしは、不器用なのです。けれど、一針一針、愛を込めて、遊嗄さまの為に、刺繍いたしますわ」
「ありがとう……では、重陽(九月九日)までに、作っておくれ。その日は、私がこの世に生を受けた日なのだ。もし、間に合わせてくれたら、最高の生誕日になるだろう」
灑洛は、「まあ! 絶対に間に合わせますわ!」と遊嗄の手を取って言う。灑洛の頬は、白磁の肌に、ほんの少しの薔薇色が乗ったように、ほの赤い。灑洛が、上気しているのだ。
「お約束いたしますわね。重陽の節句には、必ず、わたくしは刺繍した上衣を、遊嗄さまにお贈りします」
「今から、重陽が楽しみだよ」
他愛のないことを言い合っているうちに、どおん、という鈍い金の音が聞こえてきた。
「皇帝陛下のおなりーっ!」
尹太監が声を張り上げ、宦官特有の甲高い声で、皇帝の来訪を告げた。
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