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第三章 噂と女たち
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しおりを挟む亡くなった皇太后の誕生日に故人を偲ぶ……という、こじつけにも程がある内容の召し出しを受けて、灑洛は遊嗄と共に、皇帝が日常の生活の場として使用する瓊玖殿に赴くことになった。
瓊玖殿は、皇帝を楽しませる為に宴を行う広間も三つ用意されていると言うことだった。
本日の催しは、二番目に広い花玉堂と呼ばれる広間で、その名の通りに玉で作られた花で飾られ、柱や梁は黄金で彩られていた。
十七段の階段の上、皇帝の玉座があり、その横に妃嬪たちが並ぶ。祁貴嬪、濘夫人、裴淑妃。
「灑洛、あなたはこちらだよ」
遊嗄に導かれたのは、広間でも上座に当たる場所であった。他にも二人皇子は居るはずだが、二人の姿はなかった。
席に着いたとき、灑洛は、祁貴嬪からの突き刺さるような視線を感じて、チラリと見遣る。今日、灑洛は視線を避ける為に、頭に薄物を被っている。もしも取るように言われたら、顔に傷を付けてしまったと断る予定だった。
そして、傷は……頬の所に、浅く、傷を付けたのだった。
灑洛は、宴の為に、衣装を着替えた。故人を偲ぶのが名目ということなので、出来るだけ質素な装いに務めた。襦裙も喪を示す白に近い色を選び、長々と床を擦る上衣も、少し青みがかった月白で、そこに、銀糸と、水晶の欠片で作った米粒よりも小さな玉で槐花が刺繍されているので、大分、涼やかだった。
髪も高々と結い上げた形ではあるが、釵なども、あくまで控えめなものばかりを付けている。だが、それだけでは、不足だった。
「お嬢様! 本当におやめ下さいませ。お願いですから」
泣きじゃくる鳴鈴を「静かにして頂戴」と灑洛は鋭い声で命じて黙らせる。鳴鈴は、混乱のあまりに、いつもの『妃殿下』ではなく、『お嬢様』に戻ってしまったが、灑洛にはどうでも良いことだった。
「わたくしは、どうしても被り布をしていきたいの。けれど、ただ、被り布をしていけば、皆が不審に思うわ。だから、これで、傷を付けるのよ。傷を付けたのが本当だったら、被り布をして居ても不審じゃないわ」
灑洛が指し示したのは、小さな守り刀だった。螺鈿細工が優美な守り刀は使ったことはなかったが、切れ味には間違いはないはずだった。万が一、辱めを受けるようなときは、これで喉を一突きして死ぬ為のものだ。
「お顔に傷でも残ったら如何なさいます! 折角の、花の顔だというのに……」
さめざめと嘆く鳴鈴だったが、灑洛の心は決まっていた。
祁貴嬪は、灑洛が義父である皇帝に色目を使っていると決め付けているのだろう。ならば、その疑いを払拭しなければならない。払拭とまで行かずとも、これ以上、疑われては、遊嗄と祁貴嬪母子の関係の為にも良くない。
灑洛は意を決して、守り刀の鞘を払う。
触れただけでも切れそうな程、研ぎ澄まされた霜刃が、きらめいた。
「お嬢様っ!」
鳴鈴の悲鳴が響く中、灑洛は刃を頬に宛がった。ひんやりとした感触が、腰のあたりをざわつかせたが、目を閉じて、呼気を整える。そして、勢いよく腕を引いた。
頬に真っ直ぐ、熱を帯びた真紅の線が、一条走ったのが解った。
頬に傷を作った、灑洛は大げさに治療をして、顔に薬草の湿布をして、包帯を巻き付けていた。
最初、灑洛のこの行動を、遊嗄は酷く怒ったが、それでも灑洛の『祁貴嬪から、これ以上誤解されるのを防ぐ為です』との説得に折れた。
傷口は、薬草の湿布がしみて、じんじんと痛む。
痛む頬を手で押さえたとき、わざわざ壇上を降りた祁貴嬪が、灑洛と遊嗄の前までやってきた。慌てて、席を外れてから拱手して「祁貴嬪に拝礼いたします」と挨拶すると、たっぷり待たされたあとで、
「楽になさい」
と礼を許された。祁貴嬪は、鮮やかな黄色の上衣を纏っていた。金糸銀糸を惜しげもなく使って刺繍の施された衣装は、見ているだけでずっしりとした重みがある。髪に飾る釵も、玉で作った鳳凰が花鳥と戯れるようで、美々しい。
「灑洛、どうしたのかしら? 頭から被り布を被ったりして」
祁貴嬪は、猫なで声を出汁ながら、灑洛に言う。その灑洛の被り布をした頭を、ぽん、と祁貴嬪の絹扇が一度叩いた。
「母上っ!」
抗議の声を上げた遊嗄に対して「お黙り!」と鋭い一喝が飛ぶ。「妾は、灑洛に聞いている。そなたの妃ならば、灑洛は我が娘。母が、娘の心配をして、何が悪い」
そう言われてはぐうの音も出ず、遊嗄は「祁貴嬪にお詫び申し上げます」と拱手して謝罪した。祁貴嬪が灑洛の方へ顔を向けたので、灑洛は一度礼をしてから申し上げた。
「頬を、切ってしまったのです……幸い怪我は浅かったのですが、御前に出るには見苦しいと」
「まあ、可哀想に……」
くすくすと祁貴嬪は笑う。「どうして、頬に傷が付いたのかしら? 化粧をした侍女が粗相をした? だったら、大変だわ、皇太子妃に……未来の皇后になるかも知れないあなたに、傷を付けたのですものね。両手を切り落としてしまうと良いわ」
思わぬ言葉を聞いて、灑洛は顔を上げた。
「ま、まさか……そのようなこと、とても……」
「あら」と祁貴嬪の絹扇の先端が、灑洛の頤を捕らえた。「優しいのね、妾の義娘は……。でも、ダメよ? 優しいだけでは生き残れないの。それを、ちゃんと、覚えるべきだわ」
「き、祁貴嬪……これは、わたくしが、間違って付けてしまった傷なのです。ですから、侍女には咎はありませんわ。わたくし、ちょっと、鬢からほつれた毛が気になってしまって、これくらいならば自分で削いでしまおうと剃刀を使ってしまったのです」
しどろもどろにならないように、気をつけながら灑洛は言う。祁貴嬪は、一つ、大きな溜息を吐いた。
「自分で鬢の手入れをしようとしたの? あきれたことだわ……濘夫人!」
急に呼ばれた濘夫人は、壇上から降りて、祁貴嬪の側に進み出た。
「およびになりましたか? 娘娘」
妃嬪の中では、第一位の地位にいる祁貴嬪に対して、濘夫人が『娘娘』と敬って言うことに、灑洛は驚いた。今は、妃嬪の第一位だが、皇后でもない。立場としては、そう変わらないはずだ。灑洛は、祁貴嬪の権勢ぶりを、初めて目の当たりにしたのだった。
「濘夫人。あなたの姪は、自分で髪の手入れをするのね」
「娘娘、育ちの悪い娘で申し訳ありません」
濘夫人は、拱手して祁貴嬪に謝る。仕方がないので、灑洛も、一緒に謝るほかなかった。
「皇宮の妃嬪の仕事は、皇帝陛下にお仕えすること。お前の役目は、皇太子殿下にお仕えすることであって、髪の手入れなどは、お前の仕事ではないの。そんなことも濘家は教えてこなかったの?」
「申し訳ありません、灑洛には母親がおりませんでしたので、やはり、男親だけでは、躾が行き届かずに……」
濘夫人が膝を床に付いたのを見て、祁貴嬪が「まあ! 濘夫人。あなたが、そんなに謝ることはないのよ」と言いながら、濘夫人を立たせたので、「娘娘にお礼申し上げます」と濘夫人は拱手して、礼を言う。
「けれど、お前は別よ? お前は、遊嗄の妃。妾の娘なの。娘が母親の言うことを聞くのは当然のことだし……それに、お前は、全く挨拶がなっていないわね―――史玉!」
祁貴嬪は、侍女の史玉を呼ぶ。音もなく拱手して現れた史玉に、祁貴嬪は命じる。
「この娘に、礼の取り方を教えてやりなさい」
「はい、娘娘」
史玉は、べったりと床に五体投地して、「娘娘にご挨拶申し上げます」と告げる。その様子を見て、流石に、遊嗄が声を上げた。
「母上! 灑洛は、母上の娘である以上に、私の妃です! ……このような礼など、取る必要はない!」
灑洛の腕を引っ張って、遊嗄が祁貴嬪と対峙する。遊嗄は、ぎゅっと灑洛を抱きしめて、祁貴嬪から庇った。その、温かく逞しい胸の感触に、灑洛は、安堵のあまり気が緩んだ。目頭が熱くなって涙が溢れそうだった。
「遊嗄っ! その娘にも、礼を取らせなさい!」
「いいえ、私が、そんなことはさせません!」
祁貴嬪と対立してしまった遊嗄の姿を見て、灑洛は、唇を噛む。こんな予定ではなかった。これでは、遊嗄の立場が悪くなる。
「殿下。わたくし……義母上様に、拝礼いたします」
無理に、遊嗄の腕を振り払って、灑洛は一度祁貴嬪の前で拱手した。
「祁貴嬪さま。わたくしは、濘夫人が仰有るとおりに母の顔を知らずに育ちましたゆえ、母上様にどう接して良いのか今まで解りませんでした。今まで、非礼があったことを、お詫び申し上げます」
被り布で、表情は隠れているはずだ。灑洛は、唇を噛みしめて、床に五体投地した。両手両足を床に付ける、被服従の証だ。
「祁貴嬪さまに、拝礼申し上げます」
屈辱に震えそうになりながらも、務めて声を明るくして灑洛は拝礼する。
「灑洛っ! もう良い、起きろっ!」
遊嗄は、声を荒げて灑洛の身を起こそうとする。その二人の姿を見て、祁貴嬪の哄笑が堂内を満たした。
「ほほほほ、それで良い。良いか? 灑洛。娘は、親に逆らうものではない。解ったか? ……これからは、毎日、妾の殿舎に、朝昼晩と拝礼の為に参上しなさい。うんと、床を磨いて待っていて上げるわ!」
歪んだ哄笑を聞きながら、ぎり、と遊嗄が歯噛みした。灑洛は、まだ、床に臥したままだ。その時、だった。
「楽しい余興の最中だったかな?」
玲瓏たる美声が、堂の中を静かに満たした。
「皇帝陛下っ! ……まあ、思って居たよりも、お早いご到着でしたのね……。陛下に拝礼……」
慌てて駆け寄る祁貴嬪を手で制して、皇帝は、灑洛の側まで来た。遊嗄は、皇帝の登場で拱手しなければならず、拝礼をしている。灑洛は床に臥したままだった。
「おや、朕の姪は……なぜ、床に臥しているのかな? それに、その被り布……。このところ、東宮から出てこないようだったけれど、それにも何か関係のあることだったのかな?」
皇帝の声は笑っていた。
だが、その、身に纏う空気が、ピリ……、と刺すような冷気を伴っている。冷気―――或いは、怒気かもしれない。一同は、礼を許されたが、しばらく顔を上げられなかった。
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