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第三章 噂と女たち
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しおりを挟む平伏する鳴鈴の手を取って身を起こしてやってから、灑洛は四阿へ向かった。
四阿は、池の畔に建っていて、榻と卓子が置かれている。その榻に鳴鈴を座らせて、灑洛も隣に座った。
「何か、飲むものを持ってきて頂戴。喉が渇いたわ」
今の気分ならば、朝摘みの薔薇からつくった貴重な薔薇水を水で割って、少々の甘みを蜂蜜で付けたものだけれど、鳴鈴以外の侍女が、容易くそれを用意するとは思えなかった。
鳴鈴は、灑洛の意を良く汲んで、細やかな気配りをしてくれる。
「鳴鈴……皇太子殿下は、一体あなたたちに何をお命じになったの? そして、皇宮で、わたくしが、どんな風に悪く言われているの?
わたくしに非のあることならば改めなければならないから、教えて頂戴」
「改める……など!」
鳴鈴が声を荒げた。それから、灑洛がじっと見つめて居ることを知ると、うなだれて、小さく言う。
「皇太子殿下の、ご生母である祁貴嬪が、連日の贈り物のことで、大変ご立腹らしいのです。それで、毎日、藍玉《らんぎょく》殿(祁貴嬪の住まい)では、罵声が絶えないらしく……。
娥婉公主や皇帝陛下までをも貶めるようなことばかりを仰せになって居ると言うことなのです。それを耳にした皇太子殿下は、妃殿下のご母堂様をあしざまに言うのを聞くのは絶えられないだろうから……と仰せになって、私たちに、この話を、妃殿下のお耳に入れないようにと」
「わたくしの耳に入ったら、罰を与えると仰有ったのね?」
「はい」
鳴鈴の声は、消え入りそうなほど小さくなった。
「教えてくれて有り難う、鳴鈴。大丈夫よ、あなたのことは、必ずわたくしが守りますからね……」
泣きじゃくる鳴鈴を抱きしめて、灑洛は、そのか細い背中をさすりながら、優しく言った。
夢月殿で、一文字ずつ心を込めて写経をしながら、灑洛は、鳴鈴から聞き出した『噂話』について考えていた。
母である娥婉と、皇帝陛下までをも貶めるような噂話……というのが、想像も付かない事だった。
(せいぜい、わたくしが、皇太子殿下を夫に持ちながら、皇帝陛下に色目を使って、数々の宝物を贈られているくらいのものだと思って居たわ)
だが、噂話は、少々違うようだ。
けれど、遊嗄を嫉妬させ、おそらく『命令に背けば命を奪う』とでも命じて、侍女達に箝口令を出していることから考えても。
(わたくしの知らない……何かがあるのね)
気に入りの硯は、翠花峰緑石と呼ばれる翡翠色をした硯で、陸が広く、ここに、白と緑、時折黒に近いほどに濃い緑色で美しい縞模様が現れるものだ。母の使っていた形見ということで、入宮の際に持ってきた気に入りの品である。ごく、小さな海の縁には、牡丹と雀が彫刻されている。墨は麝香に少量の伽羅を混ぜたものなので、素晴らしい香気が立ちこめていた。
写経を行うのには、ここを鎮めて一人で行う必要があると言って。灑洛は鳴鈴でさえ、衝立の向こうへ下がらせている為に、こちらの様子はわかっても、表情までは読めないだろう。
一文字、経文を書いて、文字を確認する。心の乱れが出たのか、頼りなく筆先が乱れている。
(わたくしの知らない、母上様の、噂……)
早い内に、この内容を知りたい。だが、これは、鳴鈴達も、死んでも口を割らないだろう。
(ならば、わたくしが、自分で調べるしかないのね……)
この広い皇宮で、誰かの手引きもなく、そんなことが可能なのだろうか。宦官に、金子を渡して探って貰うとしても、危険だろう。
それにしても―――、と灑洛は溜息を吐いた。
(皇帝陛下は、なぜ、私に、こんなに固執なさるのだろう……)
あの日、―――入宮の日、花園で、灑洛は思わず、『皇太子殿下?』と聞いてしまった。なぜ、皇帝が、あそこにいたのかは、灑洛には解らない。
(花を御覧になりたかった……と言っても、あの時は、宴の最中だったはずだわ……)
だから、何か、妙なのだ。
「花園………」
灑洛は、小さく呟く。それを、鳴鈴が聞きつけていた。
「妃殿下、花園が如何致しましたか? 今は、夜咲睡蓮も終わって……あら、なんの季節でしょうね」
夜咲睡蓮、と聞いて、灑洛は、頬が熱くなった。あの、甘く魅惑的な夜咲睡蓮のせいで、灑洛は、今まで考えた事もないような不埒な時間を過ごしたのだ。
経文を前にして、なんということを思い出してしまったのかと、破廉恥な思考には灑洛自身が戸惑う。
「花園も……行ってはいけないのよね?」
灑洛は確認する。
「皇太子殿下とお二人ならば、宜しいのでは?」
また、不埒なことをあんな屋外でされるのではないかと思うと、灑洛からは、遊嗄に花園へ行こうとは言い辛い。
「今は、どんなお花があるのかしらね……」
「今は……解りませんけれど、花園は、今の皇帝陛下の御代になってから、号の槐花(えんじゅ)を植えた一角があると言うことなので……たしか、七月七日の祝いを過ぎた子に咲き始めるということですよ?」
游帝国の皇帝は、諱を持たない。ただ、即位するときに花の名を持つ元号を定める決まりになって居るので、その元号で呼ばれることになる。後世のものは、今の皇帝を、元号の『槐花』にちなんで『槐花帝』と呼ぶ。
槐花の真っ白な花房が、辺り一面を埋め尽くす様は、甘い蜜の香りを漂わせ、夏の雪のように美しいことだろう。
「それは、素敵だわ。是非行きたいわね」
「ええ、本当に……。あとは、花園は、祖霊を祀る廟堂があるということですので……」
「祖霊だったら、わたくしも一度はお詣りしたいものだわ。皇太子殿下に、お願いしてみることにしましょう」
「ええ、それがよろしゅうございます」
気を取り直して灑洛が経典に向かった時、皇太子付の宦官が「妃殿下に拝謁いたします!」と駆け込んできた。礼を許した灑洛の机の前に、立ち膝で進んだ宦官は、張り詰めたように甲高い声で言った。
「妃殿下、皇太子殿下が至急、鳳舞殿へとおいで下さいますようにと……。皇帝陛下の、お召しでございます」
灑洛と鳴鈴は、顔を見合わす。
「陛下が……何のご用事かしら……」
「亡き皇太后殿下のご生誕の日が今日らしいのです。それで、皇太后殿下を忍ぶ為、内々での宴を催されるとか……」
誕生の祝いを行う事はあるが、それは、皇帝や皇太子に限られる。すでに薨じた方の誕生日に宴というのも、妙な話だ。
「皇太子殿下も、これは、お断りすることが出来ぬと、苦々しく仰せでございました」
灑洛の内心を読んだように、宦官は言った。
「仕方がないわ……では、仕度をしましょう。このままの姿では、皇帝陛下の御前に出られないわ……」
宦官を下がらせて、灑洛は思案した。
ただ、皇帝陛下の御前に出るのでは、『妙な噂』が広まっているらしい灑洛にとって、また、本意でない噂が広まったりするかも知れない。
「鳴鈴……。祁貴嬪は、わたくしが、陛下を誘惑していると、思って居るのよね?」
鳴鈴は答えられず、真っ青な顔で立ち尽くす。それが、雄弁な答えだった。
「では、わたくしが、陛下を誘惑していると思われないような態度を示さなければならないわ」
もし、祁貴嬪が、灑洛を徹底的に嫌ったら、彼女は遊嗄の母親である。なにを仕掛けてくるか、解らない。
まずは祁貴嬪の怒りを買わないように、気をつけなければ……と灑洛は腹に力を入れた。
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