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第二章 遠雷
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しおりを挟む幻灯が空から見えなくなった頃、皇帝は「では、朕はそろそろ戻る。そなた達は、夜咲睡蓮でも見物してから帰ると良い」と言い残して去って行った。
拝礼して皇帝の帰還を見送った灑洛と遊嗄は、皇帝の一行――常に侍官や宦官、女官を連れて歩くので、一度に三十人近い人が動く――を見送ったあと、遊嗄は四阿から人払いをした。
「夫婦の時間を邪魔されたくはない」
ということだったので、女官や宦官たちは、会話が聞こえないくらいの所まで下がることとなった。
「灑洛。……私は、父上から言われて、少し、悲しかったよ」
「えっ?」
遊嗄は出し抜けに言う。先ほどの、『願い事』云々の話だろう。改めて詰られるとは思ってもいなかった灑洛は、驚いたが、「殿下をご不快にしてしまったのでしたら……」と謝りかけて、手で制された。
「なぜ、父上には、言った?」
なぜと言われても、困ってしまう。
「とても、恥ずかしいのですけれど……皇帝陛下が、この……胸に残った口づけの痕を、御覧になって……。こんなに、わたくしと殿下は仲良くして居るのに、お願い事の一つも出来ないのかと、ご下問があったのです」
「それで……、父上にお話ししたと?」
「だって、わたくし……、『指南書』に書いてあるとおりに、閨でのお願い事はしないように、守っていたのですもの。そうしたら、皇帝陛下は、酷くお笑いになって……」
「あの父上が、笑う? ……信じられないな。多少の微笑くらいは浮かべる方だが」
「本当ですのよ! 眦に涙までお浮かべになって……信じられないわ」
「私も、それは信じられないが……解ったよ。でも、灑洛、あなたにならば甘えられるのは悪くないのだけれど」
灑洛の動きがぴたり、と止まった。目を瞬かせて、遊嗄の顔をまじまじと見ている。
「皇帝陛下も、そんなことを仰せでしたわ」
「うーん、あの父上の甘い声音など全く想像出来ないし……したくもないが」
実の息子としては、腑に落ちないらしく、遊嗄は額を押さえて呻いている。
「まあ、良い。……灑洛、そろそろ蓮の咲く頃合いだよ。月が空の天頂を過ぎた頃合いに咲く蓮なんだ。美しいだけではなくて、類い稀なる薫りもする。それに……」
言いかけた遊嗄が口ごもったが、その先を口にすることはなかった。
「まあ、それに、なんですの?」
「さあ、私も伝え聞いただけのことだから……本当かどうかは解らないので、今宵確かめてみようと思っただけだよ」
遊嗄の唇の端に、少しだけ笑みが滲む。なにか、薄暗い愉悦のようなものを浮かべる表情は、どことなく、皇帝に似ている。
「確かめる……ですか?」
「ああ、確かめてみたいね……。ぜひ、君と」
灑洛は遊嗄が指しだしてくれた手を取って、四阿を出た。池へと続く緩やかな坂道を下っていくと、月明かりに照らされて透明にも見えるほど薄い花弁が銀色に光り輝く美しい蓮が見頃を迎えていた。
「まあ……なんて美しいのでしょう……。月光を紡いで作ったようだわ」
「本当だ……さあ、もっと近くで見てみよう」
侍女の鳴鈴も下がらせているので、上衣は土を擦っている。母の形見の品の薄い上衣が、汚れてしまわないか心配だったが、蓮の花を見てみたい欲求に負けた。
池の端まで行くと蓮の清々しくも甘い香りに満ちていた。
「本当に美しいですね。殿下と、こうして蓮を見ることが出来て、本当に嬉しいです」
「灑洛。これからは、父上に相談する前に、私にちゃんと、ねだっておくれ? ―――あの父が、随分、あなたのことを気に入っているのが、私には不安でたまらない」
「不安?」
灑洛には遊嗄が何を案じているのか、全く想像が付かなかった。遊嗄は、切なげに眉を顰めて、灑洛の手を取る。
「そんなことをなされば、暴君の名を恣にするだろうから、なさらないだろうが……あの方は、あなたを召し出すことさえ、やろうと思えば出来る。だから、私は怖ろしい……。
嫉妬深いと笑うなら、それでも良いが、私は、これ以上、あなたと、父上が親しくしているところを見たくない。それに、おそらく、後宮の方でも、私の母である祁貴嬪などは、既に、あなたと父上の仲を疑っているだろう。だから、夢月殿へは入れないでおくれ。頼むから」
遊嗄の必死な懇願を、灑洛は笑う気にはならなかった。
「解りましたわ。では、もし陛下がおいでになった時には、感冒で、咳や熱を移すわけには参りませんからと言って、殿舎へは入らないようにお願いするようにいたします」
「うん……済まないね。私は、狭量な男なのだ。まさか、実の父に嫉妬するとは思わなかった」
「本当ですわ」
灑洛は、少し顔を膨らませてみせる。「わたくしは、ずっと遊嗄さまだけをお慕いして参りましたのに。その遊嗄さまが、こんな酷いことを仰せになるなんて。もっと、わたくしを信じて下さいませ」
「そうだね。あなたを信じよう……さあ、これを」
遊嗄は、そっと夜咲睡蓮を手折って灑洛に手渡した。
「なんて、素晴らしい薫りかしら……。なんだか、眩暈がしそう……」
遠くから聞いている分には、夜咲睡蓮の薫りは甘いが清々しいものだったのに、近くで感じると、濃密な甘さを感じる。
遊嗄も一つ手に取って、灑洛の細腰を抱き寄せると、夜咲睡蓮で口元を覆った。
「んっ……っ? 遊嗄さまっ?」
薫りが強すぎて、息苦しい。そのせいか、くらりと眩暈がして頭がぐらんと揺れた。
「遊嗄さま、悪ふざけが過ぎますわ」
抗議の声を上げながら、灑洛は遊嗄を見上げた。なぜか、遊嗄に近い所から、炙られるように肌が熱くなっていくのに灑洛は戸惑う。
「あの父上が、こうして、あなたに夜咲睡蓮を使うのではないかと……私は勝手に邪推して」
「夜咲睡蓮を、使う?」
「そうですよ。……これは、ねぇ。真夜中にしか咲かず、たった三日の命を燃やし尽くす美しい花だけど、この薫りは媚薬になる……だから、あなたの肌も火照ってくるはず」
遊嗄の眼差しは、どこか狂気じみていた。遊嗄の妄想では、皇帝がこの花を、よこしまな気持ちで灑洛に使うのではないかと思っていたと言うことだ。
上手く、反論も出来なくなっていた灑洛は、背中に地面の感触を感じた。夜露が降りはじめたのか、下草が濡れている。遊嗄の肩越しに、月が見えた。
「こんなところで……」
「ああ、解っている……けれど、嫉妬に駆られて、もう、押さえられない」
剥ぎ取るような強引な所作で、遊嗄が灑洛の衣に手を掛けた。その、乱雑な衣擦れに、甘い声が漏れるほど、夜咲睡蓮は強い効果を灑洛にもたらしていた。
「灑洛……、あなたは、私だけのものだ」
誰にも渡さない―――誓いを刻むように、胸元に真紅の花弁が散った。
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