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第二章 遠雷
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しおりを挟む皇帝の仰せの通り、花園にて幻灯を飛ばすことになった。
皇帝が皇太子夫妻を招いたという形で、花園の四阿には、酒と料理まで用意されており、急な思いつきの為に侍官たちが苦労したのかと思うと、灑洛は申し訳ない気持ちになった。
遊嗄と並んで、四阿に設えられた席に着き、皇帝の到着を待ちながら、不安な気持ちでいた。
「やっぱり、我が儘なことを言うのは良くなかったかしら」
灑洛は心配して、鳴鈴に言う。
今宵は、唐突な席だったので、夕方に着替えたが、大分思案した。思案した結果、皇帝から賜った、亡き母、娥婉のものだったという、羅の上衣に、深衣も襦裙も被帛も上衣の軽やかさを殺さないように、と軽やかな装いにした。その分、肌が外の空気と近い様な気がして、少し、灑洛は落ち着かない。
「尹太監、今宵の仕度は、大変だったのではないかしら……」
側に控えていた尹太監に問い掛けると、彼はにんまりと笑って拱手した。
「いいえ、妃殿下」
もちろん、迷惑だったと言わないのは解っている。それも顔に出ていたので、尹太監は満面の笑みを浮かべながら、灑洛に言った。
「短い時間で、皇太子殿下や妃殿下に喜んで頂けるように趣向を凝らすのは、確かに大変なことではありますが……そもそも、皇帝陛下は、思いつきで、小さな宴を催すことを度々なさる方でございますので、彼らは、慣れております。それよりも、妃殿下が、いま、彼らのことを気遣って下さったことのほうが珍しく、彼らにとっては嬉しいことでしょう。
高貴な方々は、下々の者に気を掛けてくださることなどありません。我々は、いわば『使い捨て』のような存在なのです」
使い捨て、という言葉が胸に刺さった。
「誰だって、そうだわ……役目が終われば、用はないのよ」
それは灑洛にも言えることだ。今は、遊嗄の愛情を一身に受けているが、これが離れれば、灑洛は飾りの妃になるだろう。もし、遊嗄が別の女を愛して、その女が、灑洛を追い出そうと画策したら……殺されることもあるのだ。そして、愛情の離れた遊嗄が、守ってくれるとは限らない。
「悲しいことを言わないでおくれ、灑洛。……私は、絶対に、あなたを裏切ることはないからね」
遊嗄に手を取られて、灑洛は微苦笑した。夢のようなことだと、知って居るからだ。口づけを受けながら、そのお伽噺のような夢に溺れたくなるほど、今が幸せで怖くなる。
口づけが深くなったころ、尹太監が、こほん、と咳払いをした。
「……高貴な方が、おいでです」
慌てて居住まいを正し、皇帝の到着を待つ。ふと見遣れば、遊嗄の口唇は、灑洛の唇から移った紅の色が淡く載っている。何をしていたのか、一目瞭然で解るのが恥ずかしい。
「皇帝陛下のお成りです」
太監に告げられて、遊嗄と灑洛は立ち上がり、「皇帝陛下に拝謁いたします」と伏して拝謁した。
「よい、楽に……」
と告げた皇帝の美貌に、驚きの色が載る。「父の退散も待てぬのか。口唇を乱しては、灑洛も恥ずかしがるだろうに」
口づけのことを言われているのだと思うと恥ずかしくて顔も上げられなくなるが、遊嗄はお構いなしに、ぬけぬけと答える。
「これも、皇太子の務めの一つでございます」
「灑洛が恥ずかしがっている。顔も青ざめて気の毒なほどだ……少し控えなさい」
「私も、常に、こんな四阿で灑洛に触れることはありません」
「ならばよいが……酒色に溺れたなどと言う噂でも立てば、如何に皇太子のそなたと雖も、無事ではいられぬ。そうなれば、妃一人守るのも難しくなろう。それは、肝に銘じておくように」
皇帝はそれだけを言って、席に着いた。
傍らの女官が、皇帝の杯に酒を注ぐ。この酒は、既に毒味済みのもののようだった。
「夫婦仲の良いことは喜ばしいが……灑洛は、そなたにねだりごとの一つも出来ぬらしいぞ」
「え?」
遊嗄が灑洛を見る。その美貌には、ありありと『戸惑い』のいろが浮かんでいた。
「なにか、欲しいものでもあったのかい? ……釵かな、それとも、指輪か……衣装だろうか。あなたのほしいものならば、何でも取り寄せるよ。遠慮などしないで、何でも言っておくれ?」
遊嗄は灑洛の腰を引き寄せて言った。灑洛は、慌てて、「違います」と否定する。
「違うのです……あの、蓮の花を、二人で見物したかったのです……でも、お忙しいと思いましたし」
「蓮の花? それだけ?」
拍子抜けしたように、遊嗄が聞く。灑洛は、ゆっくりと頷いた。髪に付けた金歩揺が、サラリ、と揺れる。
「……蓮は、三日しか咲きませんし、朝早い内しか見ることは出来ません。……ですから、見られる時期も限られていますし」
「そんなささやかな願い事ならば、いくらでも言ってくれれば良かったのに」
遊嗄は灑洛を抱きしめかねない勢いだったので、灑洛は、慌てて、「でも、今から見ることが出来れば、私は嬉しいですわ」と遊嗄に告げる。
「本当に?」
「ええ……」
そとこに、尹太監が、咳払いをして、遊嗄に皇帝の御前であると合図をする。
「太監。そろそろ、幻灯を飛ばしてくれ」
「畏まりました、陛下」
命じられた宦官たちが一斉に拱手して、四阿から離れる。花園の池の畔にたち、なにやら両手で抱えなければならないほどの大くて白いものを持っているようだった。
「あれは、紙を貼って作った幻灯だよ。……急あつらえだが、ひととき、目を楽しませてくれる。中に蝋燭が入っていてね。中の空気が暖められて、ふんわりと空を彩る」
皇帝の言葉通り、宦官たちの手によって幻灯に火が入れられる。ぼうっとした暖かみのある色合いの明かりに内側から照らされた幻灯は、様々な趣向が凝らしてあるようだった。
影絵になっているもの、透かしが入っているもの、押し花が貼り付けたものなどがあって、ふんわりと空に向かって昇っていくさまは、たとえようもなく美しかった。
(なんて美しいのかしら……)
幻灯はどこへ流れていくものか、皇城の空をゆうらりと漂いながら、風に身を任せてどこかへ向かっている。運命に身を委ねるしかない幻灯の美しさは、どこか、残酷なようでもある。
「天界のような光景ですね」
遊嗄が、皇帝に呼びかける。皇帝の秀麗な横顔は、天へ昇っていく幻灯を見つめながら、憂いに翳るようだった。
「朕には、魂が空へ帰っていくようにも見える」
低い美声で呟かれた言葉に、灑洛は、胸騒ぎのようなものを覚えた。
「父上は、あの中に、どなたかの魂をさがしているのですか?」
遊嗄の問い掛けに皇帝は一度顔を巡らせたが、「どうだろうな」とはぐらかすように答えて、それきり黙ってしまった。
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