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第二章 遠雷
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しおりを挟む遠くで、雷の音が聞こえてきて、灑洛は、思わず耳を手で塞いで蹲ってしまった。
灑洛は、雷が大の苦手だ。六つになったというのに、まだ、雷が怖くてたまらない。
游帝国の首都、瀋都。
皇城の程近くにある濘家の邸宅―――『濘府』では、皇帝の妃となっている濘夫人が、祁貴嬪と裴淑妃を伴って宿下がりをして居た。
皇帝が、西方へ戦に出ているということもあって、華やかな宴などを持つことは出来なかったが、濘府には、濘家自慢の梔子があって、満開の梔子の香りを楽しみに来たのだった。
灑洛は、本当ならば、濘家の令嬢として、後宮の妃嬪達の集いに参加するのだろうが、家の中では、疎まれている。
灑洛の母親、娥婉が灑洛を産んでから体調を崩して、彼女が幼い頃に亡くなったからだった。娥婉によく似た面差しの灑洛を見るのが、灑洛の父である東哲は辛くなって、疎遠になって居た。
意向、灑洛は、濘家令嬢と雖も、格の下がる部屋に侍女も付かずに暮らしていたし、こうした催し物に呼ばれることもなかった。
今、濘家令嬢として、次期皇太子の妃になると言われているのは、灑洛の異母妹で一つ年下の五歳になる汀淑である。祁貴嬪や、裴淑妃とも舌っ足らずながらに朗らかに話し、楽器の才にも恵まれていた。
いくら、母親が公主とはいえども、皇帝の後ろ盾があるわけではない灑洛は、いつも、ひとりぼっちでいた。
けれど、ひとりぼっちが嫌いだったわけではない。
一人で本を読んでいるのは好きだったし、刺繍や縫い物、書の練習の時間は十分にあったので、灑洛は、それで満足だった。
将来を嘱望された妹とは、あまり話すこともなかったのが、淋しかったけれど……。
ただ、大嫌いな雷が近づいている時ばかりは、困り果てる。怖くてたまらないのに、誰も灑洛を守ってくれる人は居なかったからだ。
一人で、部屋の中にいるのも怖くて、灑洛は、濘府に建てられたお堂に来ていた。
ここには、母の姿絵が飾られて、祀ってある。灑洛が知る母は、この絵姿だけだ。
「おかあさま」
半べそをかきながら、灑洛はお堂に入る。その時、視界全体が一瞬真っ白になって、雷音が轟いた。
「きゃぁっ!」
涙を流しながら、灑洛はお堂に駆け込む。
「おかあさま、たすけて。たすけて………雷が、近くに落ちたの。怖いわ!」
姿絵に縋り付こうとした灑洛は、そこに、先客がいるのを知った。
緑の衣を纏った男子だった。まだ、十には満たないだろう。邸の中では見たことのない顔だったし、緑の衣は、金糸でつくられた麒麟の飾りがあった。
「あなた、どなた?」
涙も拭かずに、灑洛は問い掛ける。
男子は、振り返り、「私は、遊嗄」と答えた。
「今日は、お城から、お妃様が遊びにいらしているのよ。あなたも、一緒に来たの?」
「うん。私も、母にされられて来た。私の母は、祁貴嬪というのだ」
今の後宮の主と言って良い、高貴な女性である。つまり、目の前にいるこの男は、次の皇太子になる男子だ。灑洛は、めをぱちくりと瞬かせた。
「なぜ、そんな高貴な方が、一人でおいでなの? 高貴な方は、お供の方を沢山連れて歩くのでしょう?」
「私が高貴ならば、あなただって、父上の姪。私にとっては、従姉妹の姫にあたる。そういう高貴な方のはずなのに、今日は、母上達の茶会にも参加していなかったし、汀淑という妹よりも、劣る格好をしているのはなぜだ?」
それは、と上手く答えられなかった。俯いてしまった灑洛の事などお構いなしに、遊嗄は姿絵を見る。
「これは、我が伯母上様の姿絵……私は、この姿絵が見たくて、濘家への外出に同行させてもらったのだ」
母上は、汀淑と引き合わせたかったようだが……私は、ああいう娘より、控えめで、雷の中、怖くて泣いて居るような姫が良い。
遊嗄は、イタズラっぽく笑う。からかわれているとは解っていたが、汀淑よりも、灑洛の方が良いと言ってくれているようで、灑洛は嬉しくなった。
「この姿絵は、実は、一対になっていて……もう一幅は、父上のお部屋に飾ってあるのだ」
「父上……皇帝陛下のところに?」
灑洛は、信じられない気持ちだった。今まで、皇帝は、灑洛の事を気に掛けるようなことを、仰せになったことはないと言うし、灑洛の母・娥婉が死んだ時も、下賜品のひとつも無かったと聞く。
後宮に居た頃は、皇帝は姉である娥婉公主を慕っていたという話をきいたことはあるが、今まで、信じたことはなかった。
「父上は、この姿絵を、『仙女』と呼んで大切にしておいでだよ」
「そうだったのですか……?」
とても、信じられなかった。
灑洛は、ずっと、母は誰にも顧みられることなくいた方なのだと思い込んでいたのだ。だから、このお堂も、立派なものではあるが、下女も寄りつかない為、灑洛が毎日掃除をして居たのだから。
「父上は、あの仙女に、恋焦がれるような眼差しをしておいでだったから……きっと、とても、姉君を慕っておいでだったのでしょうね」
「母上は、本当に、皇帝陛下に嫌われていたのではないの?」
灑洛の声が、涙で歪んだ。
「ええ、きっと、大好きだったんだと思います。そうでなかったら、姿絵を見て、懐かしんだり、なにかお話ししたりすることはないでしょうから……だから、私も、あの仙女に会いたくて溜まらなかったのです」
お堂の外が、ピカッと真っ白く光った。遠くの方で、雷の音が聞こえる。やがて、パラパラと雨音が聞こえて、外は、瞬く間に瀧のような雨になった。
「きゃあっ! 怖いわ……っ!」
耳を塞いで蹲る灑洛を、遊嗄が、ふわりと抱きしめて、優しく背を撫でていた。。
「大丈夫だよ。私が付いているからね。安心しなさい。………私は、ずっと、あなたを守ってあげるから」
遠雷が聞こえる中。
遊嗄は灑洛に約束した。
『かならず、あなたを迎えにくるからね。……あなたは、未来の皇太子妃になるんだよ』
遊嗄は、かならず、皇太子になる。その暁には、灑洛に側に居て欲しいと。
幼いながら、二人は約束を交わして、それはすぐに公表された。
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