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第一章 婚礼
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しおりを挟む神鳥―――と聞いて、俄にざわめきが大きくなった。
「恐れながら申し上げます、陛下」
凜と張り詰めたような女性の声が、貴曄殿に響き渡った。
「ん? 祁貴嬪か、申してみよ」
皇帝の言葉を受けた祁貴嬪の声が貴曄殿に響き渡る。
「はい……、恐れながら、神鳥は、陛下が即位された折りに天帝より賜った、国の宝でございます。いままで、陛下は、神鳥をこう言った宴の席にはお連れしたことはなかったはず……。大勢の人に驚いた神鳥が、暴れて怪我をしてはなりませぬ。どうぞ、お控えされるよう……」
酒でぼんやりしていた灑洛も、神鳥の存在は知って居た。
今、祁貴嬪が言ったように、皇帝の即位式の折り、天より舞い来たりて、皇帝の持つ錫杖の上に止まったのだという。そして、神鳥は、游帝国を言祝ぐ言葉を告げたというので、祁貴嬪の言うように、国の宝として、皇帝自ら飼育していた大切な鳥であったはずだ。
「そなたの言うことも、一理あるかも知れぬ」
皇帝は、一度鷹揚に頷いたが、「だが、朕は、一度の神鳥の姿を見たことのない我が姪に、神鳥を見せてやりたいのだ。そなたの言い分は解ったゆえ、下がるが良い、祁貴嬪」と素っ気なく突っぱねてしまった。
(大変なことになったわ……)
灑洛は、喉が渇いて喉の奥がひりついてくるのを感じていた。不安そうにして居る灑洛の気配を察したのか、皇太子が灑洛の手を握りしめて言う。
「父上は、多分、ああ見えて大分機嫌がよろしいんだろうね……それに、表向き、灑洛の為と言っているけれど……あれは、それだけではないよ」
「そう、なのですか?」
「ああ、おそらく、あなたにかこつけて、諸大臣や妃嬪の思うがままになど動かないという、ご意志の表明だろうから。どちらかと言えば、僕たちは、利用されているに過ぎない」
それならば、納得出来る、と灑洛は安堵した。これが、本当に、『格別な思し召し』だとしたら、怖ろしいと思っていたからだ。過度な寵愛は、他からの敵意を招く。それは、嫌と言うほど史書で見てきた。
皇帝の思し召し通り、程なく、神鳥が連れられた。神鳥は、そこが定位置であると言うように自然に皇帝の肩に留まる。
「神鳥に」と尹太監が告げると、皆、一度立ち上がってから拱手して膝を突いて拝礼する。皇帝が合図するまでのしばしの間、皆、床に臥したままになった。
礼を許されて、元通りの席に座った灑洛は、そっと、薄物の影から神鳥を見た。
形としては雉に近いが、その身体は純白で、尾は皇帝の肩に乗って床をするほど長く、冠のように大きな鶏冠がついている。澄んだまん丸の紫水晶の瞳は、世界のすべてを見透かすように煌めいていた。脚先には鋭い爪が付いていて、これが孔雀石のような深い緑色をしている。くちばしは、瑪瑙のような赤だった。
(本当に……、この世のものとは思えない鳥だわ……)
どんなに美しい声で囀るのかしら、と思った灑洛の前に、大きな翼を広げて神鳥が飛んできた。
「……神鳥。それは、皇太子妃になる娘だ。突いたりはしないだろうね」
皇帝が心配そうに声を掛けると、神鳥は、一度首を大きくもたげてから下に降ろす。頷いているような仕草だった。
『案ずるな、黎氷。我は、人を啄むことなどは好まぬ』
神鳥は、人の言葉を話すので、灑洛は驚いてとっさに、遊嗄の手を掴んでしまった。
「大丈夫だよ、灑洛」
優しい遊嗄の言葉に気分は落ち着いたが、目の前で、神鳥にじっと見つめられているのは、落ち着かない気分になる。
『この娘は、変わった運命を持っている』
神鳥は、皇帝に呼びかけた。
「変わった運命……とは?」
『うむ。この娘は、国母になる運命を持っている』
国母、と言われた灑洛は、どきりと胸が跳ねるのを感じた。確かに、皇太子妃となるのだから、いずれ皇帝の妃嬪になる。王子を産めば、その子が皇帝になる可能性も高い。灑洛の父親は、宰相であり、叔母は、現皇帝の妃嬪である。後ろ盾も申し分ない。
「王子を産んでくれるんだね」
嬉しげに遊嗄が言う。
「そればかりは解りませんわ……授かり物ですもの」
「いや、必ず、王子を産んでおくれ。私は、あなた以外の妃を迎えるつもりはないのだから」
遊嗄の眼差しは、真剣だった。なぜ、遊嗄が、そんなことを言うのか解らなかったが、今は、ただ嬉しかったので「はい」と答える。胸の奥が熱くなった。
「神鳥よ。……その娘は、皇太子の妃になった。国母になっても不思議はあるまい?」
皇帝の言葉は、もっともなことだった。神鳥は、灑洛の身の丈ほどもあろうかという大きな翼を羽ばたかせて、皇帝の肩に戻る。そして、貴曄殿を見回すように首をゆっくりと動かしてから、厳かに告げる。
『この娘は、我を退け、黒珠黒衣を身に纏う』
神鳥の言葉に、貴曄殿が揺れた。
黒珠黒衣を身に纏う。それは、この游帝国に於いて、皇位に就くという意味になる。
一同の視線が、灑洛に一斉に集中した。
「はは、神鳥。そなたも面白い冗談を言うものだ……。天地開闢以来、女が帝位に就いたことは一度もない。前王朝も、その前も、その前も……この游と並び立つ、他の諸国も、又、女が皇帝となった例はない」
『だが、我は、黒珠黒衣をこの娘が身に纏ったのを見た』
引き下がらない神鳥に、皇帝は、ふふ、と艶然と笑った。
「そなたは、どのようにして未来を見る?」
『未来の様子が、一枚の絵のように、ふ、と見えるのだ。……最初は、この娘が、『国母』として崇められているところを見た。次に見たのは、この娘が、黒珠黒衣を身に纏った姿だった』
「それだけだろう。なにか、手違いがあって、黒珠黒衣を身に纏うことがあったのだろう。……灑洛に限って、簒奪など企てることが出来るはずもない」
『しかし……』
なおも納得しない神鳥に、「神鳥。今日は、宴の席だ……この娘と皇太子の為に、言祝ぎの歌を歌っておくれ。朕は、琵琶を奏でよう」と持ちかける。
「では、父上、私が瑟でお供いたしましょう」
「東宮か。そなたの為の宴だが、朕も、久しぶりにそなたの瑟を聞いてみたい。それでは、供をするように。それと……」
皇帝の言葉を遮るように「琴は、濘家令嬢にお任せするのは如何でしょう」と女の声が飛んだ。妃嬪の一人だろう。灑洛は、指先が冷たくなっていくのを感じていた。琴は……苦手ではないが、あまり、合奏したことがない。
「濘家令嬢は、伶人にも劣らぬ琴の腕前だとか。琴瑟相和す所を、是非にも拝見いたしとうございます」
灑洛の琴が優れているなどと言うのは、全く事実無根なことだったが、どうやら、この妃嬪は、灑洛に恥をかかせてやろうという気持ちなのだろう。ならば、受けて立つしかないか、と灑洛が密やかに覚悟を決めた時に、皇帝が答える。
「いや、いまより奏でるのは『素娥』が良い。あれには琴は不要だが……鳳笙は必要だった。裴淑妃。あなたは、鳳笙の名手だったね。供をしなさい」
「わ、わたくしは……!」
慌てた声が聞こえるが、時は既に遅く、裴淑妃の前に、鳳笙が運ばれているようだった。それぞれの楽器が運ばれ、合奏が始まる。
帰雁遙かにして 復 花に背く
ああ 吾は征く 広寒宮の廊
平仄や韻律の整わない古い詩文のついたこの曲は、月に住まう官女を謡ったものだと伝えられている。
神鳥の歌は、甲高く、時に低く……人には出すことの出来ない不思議な旋律を付けて歌われ、悲しげな歌を、より、際立たせているようでもあった。
いや、それよりも……。
皇帝の琵琶は、見事であった。だが、びぃ……んと悲しげに尾を引く琵琶の響きは、胸を締め付けられるほどに、切なく物狂おしいものだった。
それに比べて、瑟を奏でる遊嗄の音は朗らかなもので、柔らかく澄んでいた。
(遊嗄さまは、皇帝陛下とよく似たお顔立ちだけれど……楽器の音色も、随分違う……)
包み込むような柔らかな瑟の音色に包まれていたいけれど、皇帝の琵琶の音を聞いて、現実に引き戻されるような、居心地の悪さを、灑洛は味わっていた。
そして、この頃になると、すっかり、神鳥の言葉は、人々の胸のなかから消え失せていたのだった。
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