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第一章 婚礼
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湯を使い、真紅の豪華な婚礼衣装に身を包んだ灑洛は、緊張しながら、宴の使いが来るのを待っていた。
「遅いですわね。予定の刻限は、とうに過ぎておりますのに」
鳴鈴が頬を頬を膨らませて、ぷりぷりと怒っている。こちらも、緊張が限界なのだ。握りしめた手は、真っ白に青ざめていた。
「今は、皇室の方だけで宴を開いているのですから、そちらが、中々終わらないのでしょう……皇太子殿下は、宴続きで大変ね」
「そうですね。……ああ、先ほど、小耳に挟んで話ですと、皇帝陛下の到着が、予定よりも大分遅れたとのことですよ。まあ、そうでしょうけれど」
訳知り顔で言う鳴鈴を尻目に、灑洛は「まあ」と声を上げて、心配そうにして居た。
「なにか、国の大事でもあったのかしら……皇帝陛下ともなれば、常に、お付きの方々がご予定を把握なさって、それぞれの時間に遅れないように調整なさっているはずだけれど」
「よく、そんなことをご存じですね」
鳴鈴が感心して聞く。
「本に書いてあったのよ。……今の陛下の二代前の皇帝陛下にお仕えした方の、手記というのを、お父様の書斎からお借りして読んだの」
灑洛の生家、濘家は、国でも一二を争うほどの名家である。
灑洛の父は、現宰相であり、皇帝陛下の信も厚いということだった。灑洛の母親は、現皇帝の姉、娥婉公主である。公主が降嫁するほどの名家なのだ。貴重な本も、沢山ある。
「けれど、お嬢様は、もう少し、一般的なことを勉強なさった方がよろしゅう御座いますから……」
「解ったわ。あなたの言う通りにします」
灑洛と鳴鈴が顔を見合わせて笑った時だった。
どおん、という鈍い銅鑼の音が響いて、
「皇帝陛下より、勅使である!」
と甲高い声で、太監(最高位の宦官)が告げる声が響く。
ややあって、灑洛達が滞在している掖庭宮の椒蘭殿の扉が開き、太監が入ってきた。
紫色の丸首の胡服に、やはり紫色の冠を付けた、初老を過ぎた頃合いの太監であった。お付きの宦官を五人も引き連れ、さらには、大きなつづらのようなものまで持ち込んでいる。
「皇帝陛下のご名代に拝謁いたします」
灑洛と鳴鈴は太監に拝謁した。床に膝をついて、拱手する最上礼である。本来、皇太子妃(この時点で正三品に叙される)になる灑洛は、太監に対しても拝礼の必要はないが、皇帝陛下の名代ともなれば話は別である。
「濘家令嬢、灑洛に命ず。
貴曄殿にて婚礼の宴を催す為、これに出席するように!」
朗々とした声で勅書が読み上げられる。
いよいよ、宴になるのだ……と灑洛は緊張しながら「濘灑洛、謹んで、拝命いたします。皇帝陛下、万歳、万歳、万々歳」と、震える声で受けた。
勅書は、両端に竜の彫刻の施された棒が付けられた黒地の絹布で書かれる。金泥で書かれた場合は、右筆(代筆をするもの)が書いたものであり、銀泥で書かれたものは、皇帝の宸筆である。
灑洛は、勅書を受けとりながら、それが銀泥で書かれていることに気がついて、
「まあ……畏れ多くも、皇帝陛下の宸筆……」
と掠れた声で呟いていた。銀泥の筆は、皇帝の手跡に相応しく、勇壮なもので、短い勅命ではあったが、その偉容を存分に感じることができる文字だった。
「皇帝陛下は、今まで、あなたさまと疎遠だった事を悔いておいでで、これからは、実の娘になるのだから、今までの分も良くしてやらねばなるまいと、そう仰せでしたよ」
「疎遠だったなんて……皇帝陛下は、わたくしの母の事を思い出すのがお辛かったと聞いております。母は、皇帝陛下が、一番親しくしていた姉だと伺っておりますが」
「ええ、そうでしょうね。……亡き姉上のことを思い出すのが辛いと、そのように仰せでした。私も後宮勤めは長いものですから、娥婉公主のことも存じておりますが、本当に、あなたさまは娥婉公主にそっくりで、わたくしは、最初あなた様を見た時に驚きましたよ。
ああ、こちらは、皇帝陛下からの、贈り物です。……急に贈り物なさることを思いついたとのことですから、目録がなくて申し訳ありませんが、東宮の、お部屋のほうへ運んでおきますので、ご心配なく。
娥婉公主が桃がお好きだったのを思い出されたのか、桃の紋様のものが多いですよ」
太監が見せたのは、色とりどりの宝飾品や装束だった。その中に、真紅の地に、桃の花を刺繍した豪華な被帛があるのに気がついた灑洛は、思いついて、太監に問うた。
「太監殿……、こちらの被帛は、婚礼の宴に身につけていては、おかしいかしら。わたくし、出来るならば、今、皇帝陛下から賜った物を、何か一つでも身につけて、宴に挑みたいのです」
太監は、少々、考える素振りをした。
皇太子妃―――ともなれば、婚礼の装束は、紋様に至るまで細かく規定されていて、灑洛は、その通りの物を身につけている。吉祥と、魔除けを兼ねたものなので、当然なのだが……。
「そうですね。あなたさまの、その心ばせ、皇帝陛下も、きっとお喜びになると思います。今、下賜した品々を、そのまま身につけている方が良いでしょう」
うんうんと納得させるように頷いていた太監は、灑洛に桃の被帛を捧げた。
「どうぞ、程なく、皇太子妃殿下になる御方様。……私は、尹太監ともうしまして、皇帝陛下のお側近くにお仕えしております、今後、お世話になることも多いでしょうから、よしなにお願いいたします」
尹太監は、わざとらしいくらい、優雅に一礼をした。
灑洛は、尹太監が一礼した時、初めて、実感した。
(ああ……私は、後宮に……高いところに、やってきてしまったのだわ……)
「遅いですわね。予定の刻限は、とうに過ぎておりますのに」
鳴鈴が頬を頬を膨らませて、ぷりぷりと怒っている。こちらも、緊張が限界なのだ。握りしめた手は、真っ白に青ざめていた。
「今は、皇室の方だけで宴を開いているのですから、そちらが、中々終わらないのでしょう……皇太子殿下は、宴続きで大変ね」
「そうですね。……ああ、先ほど、小耳に挟んで話ですと、皇帝陛下の到着が、予定よりも大分遅れたとのことですよ。まあ、そうでしょうけれど」
訳知り顔で言う鳴鈴を尻目に、灑洛は「まあ」と声を上げて、心配そうにして居た。
「なにか、国の大事でもあったのかしら……皇帝陛下ともなれば、常に、お付きの方々がご予定を把握なさって、それぞれの時間に遅れないように調整なさっているはずだけれど」
「よく、そんなことをご存じですね」
鳴鈴が感心して聞く。
「本に書いてあったのよ。……今の陛下の二代前の皇帝陛下にお仕えした方の、手記というのを、お父様の書斎からお借りして読んだの」
灑洛の生家、濘家は、国でも一二を争うほどの名家である。
灑洛の父は、現宰相であり、皇帝陛下の信も厚いということだった。灑洛の母親は、現皇帝の姉、娥婉公主である。公主が降嫁するほどの名家なのだ。貴重な本も、沢山ある。
「けれど、お嬢様は、もう少し、一般的なことを勉強なさった方がよろしゅう御座いますから……」
「解ったわ。あなたの言う通りにします」
灑洛と鳴鈴が顔を見合わせて笑った時だった。
どおん、という鈍い銅鑼の音が響いて、
「皇帝陛下より、勅使である!」
と甲高い声で、太監(最高位の宦官)が告げる声が響く。
ややあって、灑洛達が滞在している掖庭宮の椒蘭殿の扉が開き、太監が入ってきた。
紫色の丸首の胡服に、やはり紫色の冠を付けた、初老を過ぎた頃合いの太監であった。お付きの宦官を五人も引き連れ、さらには、大きなつづらのようなものまで持ち込んでいる。
「皇帝陛下のご名代に拝謁いたします」
灑洛と鳴鈴は太監に拝謁した。床に膝をついて、拱手する最上礼である。本来、皇太子妃(この時点で正三品に叙される)になる灑洛は、太監に対しても拝礼の必要はないが、皇帝陛下の名代ともなれば話は別である。
「濘家令嬢、灑洛に命ず。
貴曄殿にて婚礼の宴を催す為、これに出席するように!」
朗々とした声で勅書が読み上げられる。
いよいよ、宴になるのだ……と灑洛は緊張しながら「濘灑洛、謹んで、拝命いたします。皇帝陛下、万歳、万歳、万々歳」と、震える声で受けた。
勅書は、両端に竜の彫刻の施された棒が付けられた黒地の絹布で書かれる。金泥で書かれた場合は、右筆(代筆をするもの)が書いたものであり、銀泥で書かれたものは、皇帝の宸筆である。
灑洛は、勅書を受けとりながら、それが銀泥で書かれていることに気がついて、
「まあ……畏れ多くも、皇帝陛下の宸筆……」
と掠れた声で呟いていた。銀泥の筆は、皇帝の手跡に相応しく、勇壮なもので、短い勅命ではあったが、その偉容を存分に感じることができる文字だった。
「皇帝陛下は、今まで、あなたさまと疎遠だった事を悔いておいでで、これからは、実の娘になるのだから、今までの分も良くしてやらねばなるまいと、そう仰せでしたよ」
「疎遠だったなんて……皇帝陛下は、わたくしの母の事を思い出すのがお辛かったと聞いております。母は、皇帝陛下が、一番親しくしていた姉だと伺っておりますが」
「ええ、そうでしょうね。……亡き姉上のことを思い出すのが辛いと、そのように仰せでした。私も後宮勤めは長いものですから、娥婉公主のことも存じておりますが、本当に、あなたさまは娥婉公主にそっくりで、わたくしは、最初あなた様を見た時に驚きましたよ。
ああ、こちらは、皇帝陛下からの、贈り物です。……急に贈り物なさることを思いついたとのことですから、目録がなくて申し訳ありませんが、東宮の、お部屋のほうへ運んでおきますので、ご心配なく。
娥婉公主が桃がお好きだったのを思い出されたのか、桃の紋様のものが多いですよ」
太監が見せたのは、色とりどりの宝飾品や装束だった。その中に、真紅の地に、桃の花を刺繍した豪華な被帛があるのに気がついた灑洛は、思いついて、太監に問うた。
「太監殿……、こちらの被帛は、婚礼の宴に身につけていては、おかしいかしら。わたくし、出来るならば、今、皇帝陛下から賜った物を、何か一つでも身につけて、宴に挑みたいのです」
太監は、少々、考える素振りをした。
皇太子妃―――ともなれば、婚礼の装束は、紋様に至るまで細かく規定されていて、灑洛は、その通りの物を身につけている。吉祥と、魔除けを兼ねたものなので、当然なのだが……。
「そうですね。あなたさまの、その心ばせ、皇帝陛下も、きっとお喜びになると思います。今、下賜した品々を、そのまま身につけている方が良いでしょう」
うんうんと納得させるように頷いていた太監は、灑洛に桃の被帛を捧げた。
「どうぞ、程なく、皇太子妃殿下になる御方様。……私は、尹太監ともうしまして、皇帝陛下のお側近くにお仕えしております、今後、お世話になることも多いでしょうから、よしなにお願いいたします」
尹太監は、わざとらしいくらい、優雅に一礼をした。
灑洛は、尹太監が一礼した時、初めて、実感した。
(ああ……私は、後宮に……高いところに、やってきてしまったのだわ……)
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