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第一章 婚礼
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しおりを挟む掖庭宮の椒蘭殿に戻った灑洛は、とりあえず、宦官たちが探し回っていたりと混乱していないことに、安堵した。
「お嬢様が、あんまりのんびりなさるんですもの、私は、脂汗が止まりませんでしたわ」
「ごめんなさいね、鳴鈴。でも、今日、花園へ行って良かったわ。あの方がどなたか解らなかったけれど、花園へ立ち入ることを許して下さったのよ? 折角だから、まだ、桃が散らない内にでも、花園を一周してみたいわね」
うっとりと呟く主の言葉をきいた鳴鈴がも青ざめた顔で念を押してくる。
「お嬢様。おやめ下さいませ。聞いたところに依れば、あの花園は、中央に池があって、北の端には、祖霊を祀る廟堂まであるのだとか……。それほど広大な花園なのですから、女人の脚では、到底歩ききることは出来ません。本当に、おやめ下さいましね?」
「まあ、わたくしは、幼い頃から、あちこちを歩き回っていたのよ? あなたが心配するほど、か弱くないわ」
ころころと笑う灑洛は、一見すると、並の姫君同様、色が白く、折れそうなほどに細い華奢な身体をしている。確かに、花園一周する体力はなさそうに見える。
「大丈夫よ、鳴鈴。わたくしは、自分に出来ないことまで、出来るという愚か者ではないつもりよ。だから、どうしたって、刺繍はともかく、縫い物は苦手だわ。―――それは、普通の姫は、お母様から教えて頂くのでしょう? でも、わたくしには、教えて下さるお母様が居なかったから」
そして、母でなくとも、灑洛に縫い物を教えてくれる者は居なかった。
いまは、見よう見まねでやっているが、やはり、仕上がりは今ひとつ不格好になるし、美しい仕上がりなどとはほど遠い出来である。
「さあ、鳴鈴。……おしゃべりはこの辺にして、仕度を調えてしまいましょう。今から、宴だったわね?」
「はい。現在、太極殿にて、皇族の皆様達だけで、内々の宴を催しておりますが、その後、貴曄殿にて、お嬢様と皇太子殿下も出席する、宴が催されます。こちらは、百官の長や、後宮の妃嬪まで出席されるそうですから、とても、華やかなものなのでしょうね」
目を輝かせて、鳴鈴は言う。対する灑洛は、少々、緊張してきた。
百官の長、後宮の妃嬪……そして、勿論夫となる皇太子に、現皇帝まで参加するのは良いが、冗談にて宴を見物するはずの灑洛の一挙一動は、じっくりと『観察』されて、少しでもおかしなところがあれば、扇の影でクスクス笑いと共に語られる『噂話』の格好の素材になるのだろう。
それを思えば、人前に出るのはやはり怖ろしいが、そんなことを言っては居られない。
「宴の後は……?」
「宴は、『必ず』途中で退席する『きまり』になっているそうです。そして、そのまま、皇太子殿下と共に、東宮へ参りますので……この、椒蘭殿で湯浴みなさって下さいませ。さあ、内衣の仕度は出来ましたから、一緒に湯殿へ参りましょう」
湯殿へ行って、薄物で作った湯着に着替える。湯着のままに、湯に浸かるのが、游帝国の入浴方法だった。
純白の薄物なので、濡れれば肌を透かせてしまうのだが、濡らす前からでも、華奢な体つきの割に、胸の膨らみは、たっぷりと豊かなのがわかる。歩く度に、肉感的に、たぷん、と白い肉が動く。薄物から覗く白い肌も、練絹のようにねっとりとした輝きを放っていた。
髪は、簪を外して、背に流している。普段、高々と複雑な形に結っている髪は、くるぶし近くまで届くほど長く豊かだった。
椒蘭殿の湯殿は、七宝で作ったタイルをびっしりと並べた広々とした円形の浴槽が作られており、そこには季節外れの薔薇と、桃の花が湯面一杯を覆い尽くすほどに、たっぷりと浮かべられていた。
椒蘭殿が、国賓や皇族が宿泊する際に使うことを差し引いても、豪華な作りである。
「まあ……素敵な趣向ね……」
「お嬢様。良うございましたね、こうして、花を浮かべた湯は、身体の汚れを落とすだけでなく、お嬢様の美しい肌に、えもいわれぬ香りを付ける効果があるのです。……御寝所で、お嬢様の肌を探った皇太子殿下は、きっと、お嬢様から聞こえる花の香りを気に入って下さると思いますわ。
こんな素晴らしい花の香りに包まれた、美しいお嬢様に魅入られぬ殿御が居るとは思えませんもの!」
興奮気味に鳴鈴が聞くので、灑洛の顔に柔らかな笑みが浮かぶ。
湯は、たっぷりとしていて、まるで温泉のように、滾々と沸き上がってくる。それを不思議に思いながら、灑洛は、薔薇と桃の香りのする湯で身体を撫で付けた。
今晩には、皇太子と同衾する。
一応、そのみちの『指南書』というのは存在していて、貴族の娘ならば、妙齢になると(つまり、結婚を控えると)乳母や母親と共に、それを学び、そのみちについての見聞を深めるのが普通なのだが、実母が他界している灑洛の場合は、父親から、ぽん、と指南書を渡されたきりだった。それも、つい一昨日のことである。
中には、図も入っていたので、どういう状態になるのかは、想像出来たが、これを、自分と……長年恋い慕ってきた皇太子が行うと思うと、恥ずかしくて消えたくなるが、
(これも、すべての女が通ってきた道なのだわ)
と、気持ちを切り替えて、事に挑むことにした。
触れられる……と、どうなるのか、灑洛は解らないが、(きっと、素晴らしいことなのだわ)と楽観的に考えることにした。すくなくとも、これは女の務めなのだし、どんなに恥ずかしくても、死ぬことはないだろう。
何より素晴らしいのは、灑洛と皇太子・遊嗄は、共に、好き合って結ばれるのである。
家同士の力関係の為……政略結婚するのが現代に於いては普通のことだ。だが灑洛は違う。それだけでも、尊いことなのだ、と灑洛は我が身の幸運を噛みしめていた。
(鳴鈴は、『あまり、ご自分の幸運をひけらかすようなことを仰有ってはなりません』……なんて言っていたけれど……本当は、わたくし、世界中の方に言いふらしたいくらいよ。
わたくしは、世界で一番幸福な花嫁なのよ! って……)
今宵、我が身のすべてを委ねる遊嗄の為に肌を磨きながら、灑洛は、幸福に酔いしれていた。
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