神鳥を殺したのは誰か?

鳩子

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第一章 婚礼

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 甘酸っぱい桃の香りが漂う皇宮こうぐう花園かえんは、さながら桃源郷のように視界いっぱいを薄紅色の桃の花で埋め尽くしていた。

「素晴らしいわ……、皇宮の花園は、桃源郷とうげんきょうのようだとは聞いていたけれど、こんなにも美しいだなんて……。本当に、夢のよう。ねぇ、鳴鈴めいりん、桃の花がまるで紅色の雲のようね。わたくしたち、紅雲こううんの中を歩いているようね」

 ねい灑洛れいらくは、ゆっくりと歩きながら謡うようにうっとりと、侍女の鳴鈴に呼びかけた。

 しきりに桃の花を褒めそやす灑洛だが、彼女の艶姿も皇宮の花園に負けていない。

 ほっそりとした肢体に、白い肌。美しいかんぱせ黒瞳こくとうが涙を浮かべたように輝き、形の良い小さな口唇は、さながら良く熟した茱萸ぐみのようだった。柳の葉の形に整えられた眉も、陶器のように白く輝く肌も、どれをとっても、一目見たら二度と忘れることは出来ないほどに、美しい。

 連翹れんぎょう色の上衣は、裾を地面に引きずるほどに長く、散歩の現在は鳴鈴が抱え持たなければならないが、そこ一面に、色とりどりの絹糸と金糸銀糸を使って春の花が刺繍されている。梅、桃、杏、連翹、木蓮、辛夷こぶし躑躅つつじ馬酔木あせび………。

 まるで、春そのものを身に纏っているかのような豪華な上衣。それに、深衣しんいも、芽吹いたばかりの若葉のように鮮やかな黄緑色、そこにやはり花木や鳥の姿が描かれている。襦裙じゅくんも薄物を何枚も重ねた豪華な品で、歩く度に、ふんわりとすそが波打つ。それに天人の持つ羽衣のような被帛ひはくを掛けている。被帛は、うすもので出来た朱色の物で、銀糸で瑞鳥の刺繍。

 黒漆こくしつのように重く艶のある美しい黒髪高々と結われ、黄金の冠や玉で作られた豪華な造花、真珠や珊瑚の作り物やかんざし歩揺ほようなどで彩られているが、その豪華な装飾に見劣りしないほど、紅雲の中を行く天女さながらの美貌である。

 鳴鈴と呼ばれた年若い侍女は、のんびりとした主の様子に焦れながら、拱手こうしゅして言った。

「お嬢様。お願いいたします。もうそろそろ、控えの間までお戻り下さいませ! ……花嫁が、お庭をのんびりお散歩なさっているなんて、他の方に知られたら、どうなることか……!」

 涙目になって訴える鳴鈴に、灑洛は、くすり、と笑った。髪に飾った金で作った歩揺ほようが、しゃらり、と音を立てる。婚礼の為の装いのままなので、灑洛の姿は、桃の花に劣らず華麗であった。

 普通の貴族の娘ならば、夕方の頃合いに真紅の装束を身に纏い、真紅のうすものを被ったままで婚家に向かうのだが、相手は東宮であるので、通常とは異なった。

 実家、ねい家まで、勅使が立てられ、勅使と共に飾り立てた車で東宮へ向かう。この時は、まだ真紅の衣装を身につけない。それで、灑洛は今、この日の為、実家から控えの間まで行く為だけに作られた豪奢な衣装を身に纏っているのだ。

 東宮は、皇城こうじょう(皇帝がまつりごとを行う宮殿)の背後、皇帝陛下の日頃のお住まいである太極殿たいきょくでんの東に位置している。

 太極殿たいきょくでんの東が東宮。西には、掖庭宮えきていぐうと呼ばれる、皇后を始めとする妃嬪ひひん、官女の住まう場所である。

 灑洛は、『控えの間』として掖庭宮の椒蘭しょうらん殿に通されて、そこで夕刻まで、湯を使い、身支度を調えて待つようにとのことだったが、ふらりと椒蘭殿を抜け出して、花園を見物しているのだから、鳴鈴も困り果ててしまう。

「お嬢様ぁ」

 鳴べそ半分にいう鳴鈴に、灑洛はあっけらかんと答えた。

「大丈夫よ、鳴鈴。安心して頂戴。……今、太極殿では、皇帝陛下と皇太子殿下、それに皇族の皆様達だけで、酒宴を催しているはずなの。だから、滅多な方に見つかって叱られることはないわ」

「損なことを仰せになりましても……お許しも得ずに、花園に立ち入ったなどと、皇帝陛下のお耳に触れれば
どうなることか……。ここは、限られたものしか立ち入ることは出来ぬ場所です」

 鳴鈴が口角泡を飛ばす勢いで講義をしてくるのを聞いて、灑洛は「あら、おかしなことね」と小さく反論した。

「母様の日記を読んだの。母様は、私が物心着く前に身罷みまかってしまったけれど……。良くこの花園へ忍び込んでいたと書いてあったわよ」

「それは当たり前でしょう。お嬢様の母君は、皇帝陛下の姉君。元々は、公主こうしゅだったのですよ? ……この皇宮で生まれ育った方が、花園へ立ち入るのを咎める方は居ないでしょう。けれど、お嬢様は、この皇宮で生まれ育ったわけではないのですから」

 灑洛の母、娥婉がえんは先帝の公主で、現帝の姉である。つまり、現帝と灑洛は、叔父と姪という関係でもある。だからと言って、皇宮へ上がることなど今までなかったし、皇太子妃となったら、それこそ、自分勝手に庭院を歩き回るわけには行かない。皇宮の決まり事に背いて、皇太子の立場を危ういものにすることは出来ないのだ。

 そういうことも考えると、灑洛が自分勝手に庭院を歩き回ることが出来るのは、今日、この瞬間だけであった。

 皇宮の花園は、詩文の題材にされる程、麗しい場所だと聞いていたので、椒蘭殿まで案内してくれた宦官が、

『姫さま本日はおめでとうございます。皇太子殿下と姫さまを言祝ことほぐ為に、花園の桃は、すっかり満開に咲き誇っておりますよ』


 などというものだから、つい、今を盛りと咲き誇る桃の姿を見たいという欲望に負けてしまったのだった。勿論、鳴鈴に言われるまでもなく、非常識な行動であることは灑洛も解ってはいた。

「お嬢様ぁ、本当に、もうお戻りになりませんと!」

「解ったわ、もう、もどりましょう。わたくしも、十分、満開の桃を堪能したわ」

「はい、お嬢様!」

 鳴鈴が張り切っ答えると、丁度その時、突風が吹いた。

「きゃあっ!」

 たっぷりと軽い布地を使った衣装が風を孕んでふくれあがり、灑洛の華奢な身体を翻弄する。

 そして、風は被帛を攫って、去って行く。なんとか転倒を免れた灑洛が視たのは、木に引っ掛かった被帛であった。

「大変だわ。取らないと……」

 慌てて被帛に手を伸ばすが、どんなに背伸びしてみても、被帛に触れることが出来ない。あと少しなのに……。と灑洛が焦り始めた時、灑洛の背後から声がした。張りのある低い声音は男性の物だ。

「風に攫われてしまったのか? ……ならばとってやろう」

 黒珠黒衣を身に纏った、美しい男の姿を見て、灑洛は、思わず、叫んでいた。

「皇太子殿下!」

今、太極殿では、祝賀の主演が開かれているはずである。皇太子がここに居るはずは無いと思ったが、幼い頃に灑洛を助けてくれてから、文などで信仰を持つようになった優しい皇太子、遊嗄ゆうさの面影があった。

 今年十九になる遊嗄よりは年嵩と思しき男は、豪華な装束が霞んで見えるほどに美しい顔立ちをして居たのだった。

 灑洛も驚いたが、男も驚いたらしかった。切れながら瞳を大きく見開いて、何かを言いたげに、薄い口唇が動いたのを視たからだった。
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