伏して君に愛を冀(こいねが)う

鳩子

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蛇足 仰いで天に希(こいねが)う

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 槿花きんか三年―――。

 ゆう帝国首都、瀋都しんとから西へ行ったところにある離宮に、美貌の隠遁者が居た。

 今上帝の淑媛しゅくえんであったが、自ら妃嬪ひひんを辞して、尼になるというのを、皇后の必死の説得で髪を削ぐのを止めたものである。現在の彼女の立場は、離宮の女主人ということだったが日中は近くの堂宇どううで祈りの日々を過ごすことも多く、静かな日々を過ごしているが―――。

淑媛しゅくえん殿ー!」

 土埃を立てながら、月に三度、この離宮を訪れるものがある。

 皇帝の側近にまで出世した、元衛士のほう機鏡ききょうである。

 湃《はい》清延せいえんの事件の折の功績に加えて、何より皇帝その人が機鏡を気に入ったのは、狸寝入りを指摘したところだった。皇帝は、自身がなにをやっても、今ひとつ、ぱっとしないということを、良く知っていたので、臆せずにものを言う人物を好ましく思っているようだった。

 美貌の隠遁者、愁月しゅうげつは、機鏡の到着に顔を輝かせた。

 月に三度。必ず、琇華から書簡が来る。なぜか、皇帝の側近である機鏡が届けに来るのだが、愁月は、(きっと、お暇なのね)と思って居る。

 ともあれ、琇華の書簡から滲みでる幸せそうな様子を見ていると、妃嬪を辞したことは間違っていなかったのだと、愁月は心から思う。

 愁月の産んだ皇子――靖寧せいねい皇子は、琇華の扶育の元、すくすくと育っているという。靖寧が、皇位に立つことはないだろうが、それでも、琇華が育てているのならば、逞しく、そして賢い子供になるだろうと、愁月は思って居る。

(わたくしの、黄金姫さま……)

 真実を知らなかったときは、皇帝の寵を受ける女として、憎んでも憎みきれなかっただろうが、彼女は、辛い気持ちを押し殺して、愁月を手元に置いて、守ってくれた。

 皇帝に対する情は……、ないと言えば嘘になるかも知れないが、愛や恋とは違う感情だとも知って居る。

 本当は、あの二人の側で、ずっと琇華が幸せそうに微笑んでいるところを見ていたかったけれど……。

淑媛しゅくえん。こちら、今回の書簡と……皇后陛下、皇帝陛下から、贈り物でございます」

 大きな包みを手渡されて、愁月は当惑する。

「もう、わたくしは妃ではないというのに……、それに、一体、なんなかしら? この大荷物は……」

「理由は、書簡を見れば解ります。お祝いの品ですよ!」

 お祝い? と愁月は訝りながら、機鏡を離宮の中へと誘う。客間に通して、茶の仕度をする。茶は、琇華から貰った、薫り高い薔薇の紅茶。そして、お菓子は蓮花酥れんかす。これは、琇華と周おばさんから作り方を教わって、機鏡が来る日に合わせて、作っている。毎回、蓮花酥だ。これしか作れない。

「では、頂きます」

 遠慮なく機鏡が茶を飲むのは、愁月がゆっくり書簡を見るのを気にしない為だ。

 思わず頬刷りしたくなるほどのなめらかで薄い紙に、琇華の直筆が踊っていた。

「懐かしい。皇后さまのお手跡だわ……」

 思わず涙がにじむ。


『愁月。元気にしていますか? 暑い日々が続いているようだけれど、そちらは変わりなくて?
 こちらもいつも通り、陛下は、夏ばて気味ですけれど、精力剤はこりごりだと仰有って、太医の作った薬湯も召し上がって下さらないものですから、少し困っています。』

(相変わらず、皇后陛下を、困らせておいでなのね……)

 呆れてしまうが、じつは、これがあの皇帝の甘えだというのも、『寵妃』をやっていた愁月には解る。


『今回は、衣装や、書物、紙や墨、筆、お茶などを一緒に贈りました。
 実はね、妾は、母親になったの。
 それで、妾からの祝いの品を贈らせて貰いました。どうぞ、受け取って。
 詳しいことは、機鏡から聞いて下さいね』


(母親になった……!)

 愁月の眦から、滂沱ぼうだたる涙が溢れて止まらなくなった。

「機鏡殿! 機鏡殿!」

「ん? なんです? ……って、そんなに、涙を流して……」

 機鏡は、愁月の頬に手を伸ばしかけて、すっと引っ込めたが、愁月は、気にしていない。

「皇后陛下は、お子様をお上げになったの?」

「ええ。本当に美しい、女のお子様です。……先日お生まれになって、本当は、早馬でお知らせしようと思ったのですが、皇后陛下が直々に書簡を書きたいと仰せになりまして、少々、ご連絡が遅くなりました」

 機鏡は、拱手して一礼する。

「そんなことは、良いわ……。皇后さまのお身体は? 産後のご様子はお変わりないのですか?」

 心配して聞く愁月に、「はい」と機鏡は、大きく頷いた。出産経験のある愁月は、お産が、どれほど大変なものか、身を以て知っている。機鏡の力強い答えに、安堵して、愁月は顔を手で覆った。

「姫君のお名前は、娥婉がえんさまと仰せになるそうで……。皇后陛下は、あと、二三人は産みたいと仰せでしたよ。皇子様だったら、『黎氷れいひょう』と名付けると、張り切っておいででした」

 娥婉に黎氷……。

「良い名前だわ」

 そう呟きながら、愁月は、(やっぱり、わたくしは、妃嬪を辞して良かったのだわ)と心の底から思った。

 本当に、嬉しい。

 大好きな人たちが幸せになってくれるのは、本当に、それだけで胸が一杯になる。

「……淑媛も、ご自身の幸せを、見つけて下さいね」

 機鏡の言葉に、愁月は、心から言った。

「わたくし、本当に幸せよ……!」


 喜びの涙と、歓喜の声に沸き立つ游帝国は、皇帝とそれを支える皇后を得て、これから、ますます栄えていくだろう。
 愁月は、この国と愛する皇后に薔薇色の未来が訪れるようにと、仰いで天にこいねがった。


 了
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