伏して君に愛を冀(こいねが)う

鳩子

文字の大きさ
上 下
50 / 66

50. 毒を盛ったものは、誰か?

しおりを挟む

「……はぁ」


 「シローが呼んでいるわよ」と、綾小路さんからすぐに向かうように言われた個室に向かいながら、思わずため息がこぼれる。

 向き合うって言ったって、いつ向き合えばいいの?

 現状私はイツキに避けられてるし、視線も合わない。呼び出すことさえ困難なのだ。

 そんなことを考えていると、指定された部屋のドアの前まで来ていた。


「……失礼しまーす……前野さん、いらっしゃいますか?」


 ノックをしてから、そろりとなるべく物音を立てないように、部屋に入ると──。


「……──イ、イツキ」


 そこには、誰よりも顔を見たくて……そして、誰よりも顔を合わせたくない相手がいた。


「……ど、どうして、」


 久しぶりのイツキとの対面はすごく嬉しいけれど。まさかこんなにすぐに向き合うことになるとは思わなかったから。

 私は彼の名前を呼ぶだけで精一杯で、「どうしてここにいるの?」という問いは声にならなかった。

 だって、ここにいるのは、私を呼んでいたのは、前野さんのはずだ。イツキじゃない。

 そんな私の心情を知ってか知らずか、イツキは私の表情から何かを察したようで、「ああ」と軽く告げてから、続けて「綾小路さんにここで待っているように言われたんだよ」と淡々と告げた。


 ……──は、嵌められたっ!!


 気づいた時にはもう遅い。個室にふたりっきり。人に聞かれたくない話をするシチュエーションとしては完璧だ。ここまで、お膳立てをされて、今更逃げることも出来ずに立ち尽くす私に、彼は「座りなよ」と着席を促す。

 イツキに言われるまま、とりあえず座ったけれど、何を話せばいいか分からない。

 ……私、今までイツキと何話してた? 思い出せないけれど、多分くだらないことを、たくさん話してた。でも、今は──。

 とてもじゃないけれど、そんな話をする気にはなれない。

 先に沈黙を破ったのは、イツキだった。


「ここに来たってことは、……もう、ぼくと話してもいいんだ?」
「……え、」
「それともまだだんまりを続ける? まだしばらくは話したくないとでも言うの? でもそれって、一体いつまでなの? 明日? 明後日? それよりもっと遠く? ……まあ、もうそんなことどうでもいいや。ぼくはぼくでこのまま勝手に喋るから」
「……えっと、……何のこと?」


 彼の言葉の意味がわからず、思わず反射的に尋ねると彼は訝しげに眉間に皺を寄せた。


「少しひとりで考えたいから、きみがいいって言うまで、自分に話しかけないでくれって、……そうしたいと、きみが言ったじゃないか。違った?」
「……私、そんなこと言った?」


 返した言葉に、不意にイツキが黙り込む。


「……まさか、自分の言ったことを忘れたの?」
「ごめんなさい……」


 イツキはそう言うけれど、私にはまったく身に覚えがなかった。反射的に謝罪する私に、彼は呆れたようにため息をひとつつくと「きみは確かにぼくにそう言ったよ」と語気を強めに主張した。


「だからぼくは、きみがいいって言うのを待ってた。文句も言わず、ずっとね。きみがそう言うってことは、それだけの理由があったんだろうって思ったから。……まあ結局、我慢できずにこうして話しかけてしまったんだけどね」


 ……なるほど、ようやく納得できた。

 婚約を解消してから、イツキが全く私と話してくれないと思っていたけれど、……そういうことだったのか。

 単にもう婚約者でも何でもない女とは話したくもないのかと思っていた。だけどそれは違った。私がそう言ったから。だから彼は私に話かけてこなかったのだ。

 正直私自身そんなことを言った記憶は全くないけれど。解消直後はイツキと笑顔で話せる自信なかったから、もしかしたらその場の勢いでそのようなことを口走ったかもしれない。

 でも、だからって、そんなことをずっと律義に守ってるなんて。なんだかイツキらしいな。


「いつまで待てばいいんだろうってずっと思っていたけれど……なるほどね、そういうことか。そりゃそうだよね。言ったこと自体忘れてたのなら、きみがぼくに何も言ってこないのは納得だ」


『……今はひとりにさせて。お願いだから、私のことは放っておいて』
『……──わかった』


 ──思い出した。確かに言った。放っておいて、と。そのシーンだけ、今鮮明に思い出した。

 そう、それで、その時イツキは私に対して文句のひとつも言わなかった。私のことなんて興味もないのか、わかったとだけ言うと、後は本当に私の望み通り放っておいてくれた。

 だけど、そこからの記憶は、かなり曖昧だ。

 全部全部言い訳にしかならないけど、あの時私は混乱してたの。

 だって、自分の親の事業が失敗したって聞いた直後だったから。イツキとのことも、学校のことも、お家のことも。とにかく考えることがいっぱいで、ひとりになりたかったの。

 けれども、私が話しかけるまでなんて、期限を指定したつもりはなかったし、その辺の記憶はやはり全くなかった。

 でも、きっと言ったんだ。イツキがこんな風に断言するってことは、確実に。

 でも、それって。今思えばすごい自分勝手な行いだ……。綾小路さんのこと言えない。私だって自分のことしか考えていなかった。イツキから聞かされて、今改めて思ってしまった。そんなだから、私はよく他人を傷つける。

 こういう時、すべきことは1つだ。決まっている。


「……ごめん、なさい」


 まずは謝罪だ。自分勝手でごめんなさい。好きになってしまって、ごめんなさい。今でもまだ好きで──


「本当に、ごめんなさい」
「……そんなに何度も謝らないでよ。ぼくも少し言い過ぎたよ。ごめんね」
「ううん、イツキは悪くはないわ……全部、私が悪いの」


 私が悪い。イツキにふさわしい婚約者でいることが、辛くて苦しくて、頑張れなくて。だから逃げ出した。その後もイツキの気持ちなんて全く考えなかった。だからイツキは悪くない。全部全部私が悪いのだ。

 すると、はぁと大きなため息が正面から聞こえた。


「……きみはさ、絶対ぼくを頼らないよね。助けて欲しいとは言わない、こんなに近くにいても──……」
「……そ、そんなこと、」


 私が否定しきるより先に、「あるよ」とキッパリ言い切られてしまう。


「そうやって、いつも独りで抱え込んで、自分勝手に線を引いて、他人を寄せ付けようとはしない。何かあってもぼくには何も言ってくれない」
「そ、それは……」


 ──それは、言わない事がいつの間にか当たり前になっていたから。私がイツキに何かを言ったところで、この状況が変わるわけでも、ましてやイツキの気持ちが変わるわけでもないから。言ったって無駄だから。


「だって……」


 ……──だって、これは私の問題であって、それをイツキに背負ってもらうのは筋が違うと思ったから。私が勝手に頑張って、勝手に辛くなっただけ。自分の問題なのに、イツキにもその辛さの共有を強いるのはおかしいと思ったから。私の心が弱いのは私の問題で、例え相手が婚約者だろうと、関係ないことでしょう?

 反論の言葉はいくつも浮かぶのに、何一つ言葉にはならなかった。

 再度重たい沈黙が流れる。その沈黙を破ったのは、ピコンピコンという受信音だった。


「あ、私だ……」
「見ていいよ、緊急かもしれないし」
「うん」


 開いて見ると携帯電話の連絡ツールに複数のメッセージが届いていた。私を心配する文面とくぅーんと鳴く可愛らしい柴犬のスタンプに、緊張しきっていた身体が少しだけ弛緩する。

 ……なんだかこの柴犬が前野さんに見えてきた。思わずくすりと笑みがこぼれる。

 前野さんは誰にでも優しいし、綾小路さんのことがすごく好きだから、深い意味なんてないかもしれないけど。それでもこんな風に気にかけてくれる人がいるというのは私を嬉しくさせた。


「……相手は? 誰だったの?」
「……えっと、私達の学園の先輩の……」
「前野さん?」
「……え、誰に聞いたの?」


 前野さんと親しくさせて頂いていることはイツキには言っていない。あいりに聞いたのだろうか。

 いや、でも、あいりには前野さんにバレンタインチョコを渡したとか告白した(嘘だけど)とかは伝えたけど。連絡先を交換したことは伝えていないはずだ。

 なのにどうして、イツキは私に連絡してきた相手が前野さんだとわかったのだろうか。他にもたくさん選択肢があった中で、何をもってそれを確信したのだろうか。

 またしても表情に出てしまっていたらしく、私の顔を見るなりイツキは「見てればわかるよ」と言った。


 ……えっと、何を?


 イツキの位置からは私の携帯電話の通知画面は絶対に見えなかったはずだ。彼は一体何を見て分かったのだろうか。

 そう尋ねようとする前に、イツキからの質問攻めにあう。


「でも、珍しいね。きみが会ったばかりの人に連絡先を教えるなんて。前野さんは特別なんだ?」
「特別……というか、次に前野さんと会う時にその場で日時や場所を決めても、変更があった際連絡先を知っていた方が便利だからで……」
「へーーそうなんだ、この2ヶ月の間にもう何回か2人で会ってたんだ。2人がそんなに親密な関係になっていたなんて、そこまでは知らなかったな」


 会うと言っても、ダンスパーティーの時1曲踊ってくださったお礼のバレンタインのチョコレートを渡したり、また購入する前に味の好みをお聞きしたくらいだ。

 けれども、そんなことイツキは興味もないだろうと、私は言い訳はせずに口をつむぐ。


「ねぇ、なんでそんなに連絡が来るの?」
「いや、そんなに言うほど頻繁にきていないけど……ええと、どうしてだか私のことを気に入ってくださっていて……ほら、私のお父さんの会社がゴタゴタしてたから、そのことで心配してくれているのよ」
「……。ふーん……なるほどね、そういうこと」


 その瞬間、空気が変わる。イツキの瞳がどことなく鋭さを増した気がした。


「……イツキ? 今日何か変よ。どうかしたの?」


 今思えば初めから様子がおかしかった。私も久しぶりのイツキとの対面に動揺してしまって今まで気づかなかったけれど。

 普段の彼はこんな風に私を詰問したりしないし、先程のように責めるような言い方なんてまずしない。いつもは穏やかで大人しくて、はっきりと物を言えない人だ。

 それなのに、そんな彼が今日は様子がおかしい。……もっと早く気づくべきだった。彼はずっと体調が悪かったのだ。大方先輩である綾小路さんの頼みを断れず、無理してここに来てくれたのだろう。


「……今日はこのくらいにして、また今度話そう、イツキ」


 セッティングしてくださった綾小路さんには申し訳ないけれど。話し合いは別に今日じゃなくてもいいし。そんなことよりも今はイツキの体調が心配だ。

 今日のところは切り上げて、また後日彼に伝えたいことを整理してから話し合いの場を設ければいいだけの話だ。

 今はとりあえず席を立とうとした瞬間、右手首をガシリと強い力で引っ張られる。

 ──まさかのイツキが私の手を離さない。これでは立ち上がれもしない。


「……イツキ?」
「…………」


 彼からの返事はなかった。


「……イツキ」


 言外に離してと伝えれば、彼は逃げるのは許さないと言わんばかりに私を掴む手に力をこめてくる。


「……いたっ、……イツキ、お願い離して」
「そんなにぼくから離れたい?」
「ちがっ……私はただ」


 イツキの体調が心配なだけなのに。


「……本当に、もうぼくのこと好きじゃなくなっちゃった? 前野さんの方が良くなっちゃった?」
「……何を、言って……」


 思いもよらない言葉に目を見開く。言っている意味が分からない。どうしてそんなことを私に尋ねるのだろうか。もう婚約者でも何でもない私に。


「そんなの嫌だよ。ぼくはずっときみの望む距離にいたよ。だったら今度はきみがぼくの望む距離にいてよ。離れてなんていかないで、ここにいてよ。……ずっとそばにいてよ」

しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

妻とは死別する予定ですので、悪しからず。

砂山一座
恋愛
我儘な姫として軽んじられるクララベルと、いわくつきのバロッキー家のミスティ。 仲の悪い婚約者たちはお互いに利害だけで結ばれた婚約者を演じる。 ――と思っているのはクララベルだけで、ミスティは初恋のクララベルが可愛くて仕方がない。 偽装結婚は、ミスティを亡命させることを条件として結ばれた契約なのに、徐々に別れがたくなっていく二人。愛の名のもとにすれ違っていく二人が、互いの幸福のために最善を尽くす愛の物語。

どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします

文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。 夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。 エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。 「ゲルハルトさま、愛しています」 ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。 「エレーヌ、俺はあなたが憎い」 エレーヌは凍り付いた。

宮花物語

日下奈緒
恋愛
国の外れにある小さな村に暮らす黄杏は、お忍びで来ていた信寧王と恋に落ち、新しい側室に迎えられる。だが王宮は、一人の男を数人の女で争うと言う狂乱の巣となっていた。

甘すぎるドクターへ。どうか手加減して下さい。

海咲雪
恋愛
その日、新幹線の隣の席に疲れて寝ている男性がいた。 ただそれだけのはずだったのに……その日、私の世界に甘さが加わった。 「案外、本当に君以外いないかも」 「いいの? こんな可愛いことされたら、本当にもう逃してあげられないけど」 「もう奏葉の許可なしに近づいたりしない。だから……近づく前に奏葉に聞くから、ちゃんと許可を出してね」 そのドクターの甘さは手加減を知らない。 【登場人物】 末永 奏葉[すえなが かなは]・・・25歳。普通の会社員。気を遣い過ぎてしまう性格。   恩田 時哉[おんだ ときや]・・・27歳。医者。奏葉をからかう時もあるのに、甘すぎる? 田代 有我[たしろ ゆうが]・・・25歳。奏葉の同期。テキトーな性格だが、奏葉の変化には鋭い? 【作者に医療知識はありません。恋愛小説として楽しんで頂ければ幸いです!】

裏ありイケメン侯爵様と私(曰く付き伯爵令嬢)がお飾り結婚しました!

麻竹
恋愛
伯爵令嬢のカレンの元に、ある日侯爵から縁談が持ち掛けられた。 今回もすぐに破談になると思っていたカレンだったが、しかし侯爵から思わぬ提案をされて驚くことに。 「単刀直入に言います、私のお飾りの妻になって頂けないでしょうか?」 これは、曰く付きで行き遅れの伯爵令嬢と何やら裏がアリそうな侯爵との、ちょっと変わった結婚バナシです。 ※不定期更新、のんびり投稿になります。

【完結】目覚めたら男爵家令息の騎士に食べられていた件

三谷朱花
恋愛
レイーアが目覚めたら横にクーン男爵家の令息でもある騎士のマットが寝ていた。曰く、クーン男爵家では「初めて契った相手と結婚しなくてはいけない」らしい。 ※アルファポリスのみの公開です。

偽りの結婚生活 ~私と彼の6年間の軌跡

結城芙由奈@2/28コミカライズ発売
恋愛
偽りの結婚をした男性は決して好きになってはいけない私の初恋の人でした― 大手企業に中途採用された「私」。だけどその実態は仮の結婚相手になる為の口実・・。 これは、初恋の相手を好きになってはいけない「私」と「彼」・・そして2人を取り巻く複雑な人間関係が繰り広げられる6年間の結婚生活の軌跡の物語—。 <全3部作:3部作目で完結です:終章に入りました:本編完結、番外編完結しました> ※カクヨム・小説家になろうにも投稿しています

思い出さなければ良かったのに

田沢みん
恋愛
「お前の29歳の誕生日には絶対に帰って来るから」そう言い残して3年後、彼は私の誕生日に帰って来た。 大事なことを忘れたまま。 *本編完結済。不定期で番外編を更新中です。

処理中です...