伏して君に愛を冀(こいねが)う

鳩子

文字の大きさ
上 下
35 / 66

35. 夫婦げんか

しおりを挟む


愁月しゅうげつは、よく、皇帝陛下とご一緒に温泉に入って平気だったわね……)

翡翠池ひすいち』の浴槽に入りながら、琇華しゅうかは、そう思う。

 浴槽―――は、だだっ広い。泳法えいほうの訓練を集団で行っても、有り余るほどの広さだった。ここが、皇帝専用の浴室であると言うのだから、驚くばかりだ。

 黒曜石で作った柱に、水晶の簾、金枝銀枝の飾りには、瑪瑙や珊瑚で作った梅や桃の花が付いていた。名工の手によるものらしく、花片の柔らかさは、本物の花に見まごうばかりである。

 浴室に、直接掘られた大きな浴槽は、『翡翠池ひすいち』の名にふさわしく、翡翠で作った玉板タイルで大きく掘った浴槽全体を覆った、贅沢なものだ。

 琇華は、皇帝と一緒に入浴するのは初めてだったが、こんなに恥ずかしいとは思わなかった。第一、この国では、湯着と呼ばれる入浴用の、簡素な白い衣装を身に纏う。つまり、素肌で接するわけではないから、恥ずかしくはないだろうと思っていたというのに、実際は。

(素肌のほうが、多分、ましよ!)

 と、琇華が、内心、絶叫しているところだった。

 たしかに、琇華も、皇帝も、湯着を着ている。だが、簡素な白い布は、温泉に触れて、肌の色を透かしていた。ぴったりと肌に貼り付いた湯着は、その下に包み隠していた皇帝の肉体を透かしていたし、琇華のほうも、白い胸は透けて、乳首の形がありありと解るほどだった。これでは、着衣だというのに、裸のようだった。

 その上、皇帝は、琇華を後ろから抱きしめて、存分に、首筋やら耳朶やらに、甘く口づけを落としている。

「へ、陛下……っその、くすぐったいですっ」

「そうか? ……そんなに気にするほどのことでもあるまい。……それより、温泉は、どうだ?」

(妾は気にするわよ……)

 そう思った琇華だが、後ろから抱きかかえられているので、全く、抵抗も出来ない。

 温泉自体は、やや、ぬるい温度だったので、その分、長く入ることが出来そうだった。湯は、幽かな匂いがあって、なんの匂いかは琇華には解らなかったが、独特の渋みを感じる。湯の色は、やや、白い。湯の中に入れた手は、うすぎぬごしに見ているようだ。

 そして一番の特徴は、お湯が、ぬめるような感触がすることだ。

 お湯の中で手や腕を撫で付けると、肌がするすると滑る。磨かれた玉のような滑らかさだ。

「なんだか、不思議な薫りと……不思議な感触ですわね。肌などすべらかになったようです」

「どれ」

 皇帝が、するり、と琇華の湯着の袂に手を忍び込ませた。

「あっ……陛下っ!」

 皇帝の指先が、琇華の白くまろい乳房を撫でる。思わず、背筋が跳ねた。

「本当に、大分滑らかになったね。……いつまでも撫でていたいところだが……」

 琇華の後ろから、皇帝は顔を覗き込んできた。

「あなたが、のぼせると仕方がないから、このくらいにしておくよ」

 からかうつもりなのだろう。悪意なく笑う皇帝に、胸の奥がツキンと痛むのを感じる。

「陛下は……。悪ふざけがすぎますわ」

 琇華は、皇帝の手をどけてから、泳ぐように、す、と離れた。

「皇后?」

「陛下のお膝の上に乗っていたら……陛下が寛ぐことは出来ませんわ。折角の温泉ですもの。どうぞ、妾のことには構わずに、ごゆるりとお過ごし下さいませ」

 離れたところから、琇華は言う。それが、面白くなかったのか、皇帝は立ち上がった。

「陛下、急に立ち上がりますと、めまいを起こしますから……」

 皇帝の身を案じた琇華も、中腰になった。皇帝は、そのまま湯殿を出て行くのかと思いきや、そうではなかった。ずかずかと、湯の中を歩いて琇華に近づいて来る。思わず、後ずさった琇華は、やがて、背中に浴槽の壁を感じた。

 皇帝は、近づいて来る。

 水のせいで、ぺったりと肌に貼り付いた白い湯着は、肌を透かせて、逞しい身体が見える。それが、あまりにも、艶めかしい。

「陛下……?」

 心細くなって問い掛けると、皇帝は琇華の腕をぐい、と引く。そのまま、琇華は皇帝の胸に顔を埋めることになった。

「如何なさいましたの? 陛下……?」

 皇帝は、何か言いたげに口元を動かしていたが、言葉を探しあぐねているような様子だった。

「なんでもない」

「何でもないと言うことはないと思いますけれど……なにか、妾は、陛下のご機嫌を損ないまして? 妾は……まだ、陛下のことが、よく、解りませんから、愁月のようにはお仕え出来ませんけれど……」

 愁月、の名前を呟いた時、琇華は胸が締め付けられるような気分になった。

 皇帝は、愁月とは……ここで仲睦まじく過ごしたのだろうと思ったからだ。

「愁月と、あなたは違う」

 ぴしゃりと言われて、初めての温泉と……今日は少しだけ近づけたような気分になっていた琇華の心が、しゅっ、としぼんだ。

(解ってる)

「……解ってますわ」

 言うつもりはなかったのに、言葉が出ていた。

「解っている? ……なにを? いや、あなたは、なにも解っていない!」

 声を荒げる皇帝の怒声が、耳許に聞こえて、琇華は身を竦ませた。感情が高ぶって出た失言だったのは、皇帝もすぐに気がついて、「いや、いまのは……」と取り繕おうとしたが、琇華は許さなかった。

「皇帝陛下ともあろう方が、一度口にしたことを撤回なさらないで!」

 この言葉には、皇帝のほうが驚いたようだった。

「皇后……?」

「あなたの言葉は、黄金よりも重いのです。そのあなたが、軽々しく言葉を翻すようなことがあっては国が傾きます。あなたは、あなた自身である以前に、皇帝陛下なのですから、そこをお間違えなさいませぬよう」

(そうよ……あなたは、撤回すれば良いでしょうけれど。一度、受けた言葉は、言われた方は一生残るのよ)

 泣かないように、目に涙が溜まっていくのは解ったが、それでも、そのまま、毅然と皇帝を見据えた。

「妾は、金子きんすじゃないわ」

 はじめて、琇華は皇帝に告げた。皇帝の法が、驚いて言葉にもならないようだった。

「……皇后……」

「妾は金子じゃない。あなたは、妾を金子としてしか見ていないのでしょうけれど」

「皇后、そうじゃない……私が言いたかったのは……」

 皇帝は口ごもった。その先、言葉にするのを、躊躇っているようだった。

「苦情ならば何でも仰有って。その方が、妾はマシな気分になるわ。あなたは、金子相手には、こびを売るのでしょうから! あなたに……戯れに肌を探られるのは不愉快だわ!」

 琇華は、おそらく、のぼせていたのだ。この『翡翠池』は、血の巡りに効果のある温泉である。血行をよくする。それで、いつもならば、考えても居ないような言葉が、まるで琇華の本心であるかのように、するっと出てしまったのだった。

 皇帝は、琇華の言葉を、静かに聞いていた。だが、金子相手にこびを売るとまで言われたときに、流石に頭に血が上った。

 気がついたときには、琇華の頬を、皇帝の手が平手で打ち据えていた。



 ――――パチンっ!



 乾いた、頬を張る音が、浴室に響き渡った。

 平手打ちにされて、琇華は、自身の失言に気がついた。

(この方は……それを、屈辱だと思って居たのに……)

 なぜ、それを――――金子の為に、跪いたことを、琇華が軽口にしてしまったのだろう。

『ごめんなさい』と言いかけて、琇華の口唇が震える。言葉にならなかった。さきほどの言葉が、呪いのように我が身に突き刺さる。



『一度、受けた言葉は、言われた方は一生残るのよ』



「あ……っ」

 琇華が、言葉を失っているのを見て、皇帝は、怒りも、なにもかも、自身の胸の内に上手に隠したようだった。

「私もあなたも、のぼせたようだね」

 こくん、と琇華は頷いた。その瞬間、押さえることが出来なくなった涙が、ぼろぼろと流れ出て止まらなくなった。

 顔を上げられずにいる琇華の頭を、ぽん、と皇帝の手が軽く叩く。平手ではない。優しい感触だった。

「私はね……」

 皇帝は、どこか途方に暮れたような声で呟く。

「あなたに、内緒話を教えて欲しかったのだよ。だから、ここに来た。……あなたは、いつになったら、私に、隠しているものを見せてくれるのだろうね」

 謎めいた言葉だった。

「妾は……、あなたに隠し事など……」

 在りませんわ、と言おうとしてのを、皇帝に遮られる。

「あるよ」

「陛下が、そう仰せになるのでしたら……そうなのかもしれませんけれど……」

 戸惑う琇華に艶然と微笑した皇帝は、「さて、もう一度湯に浸かってから、出ることにしよう」と琇華を誘った。

 すっかり常の様子だった。

 心の中で、(陛下、ごめんなさい)と謝りながら、「ええ」と琇華もいつもの通りに、彼の言葉に従った。



しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

妻とは死別する予定ですので、悪しからず。

砂山一座
恋愛
我儘な姫として軽んじられるクララベルと、いわくつきのバロッキー家のミスティ。 仲の悪い婚約者たちはお互いに利害だけで結ばれた婚約者を演じる。 ――と思っているのはクララベルだけで、ミスティは初恋のクララベルが可愛くて仕方がない。 偽装結婚は、ミスティを亡命させることを条件として結ばれた契約なのに、徐々に別れがたくなっていく二人。愛の名のもとにすれ違っていく二人が、互いの幸福のために最善を尽くす愛の物語。

極悪家庭教師の溺愛レッスン~悪魔な彼はお隣さん~

恵喜 どうこ
恋愛
「高校合格のお礼をくれない?」 そう言っておねだりしてきたのはお隣の家庭教師のお兄ちゃん。 私よりも10歳上のお兄ちゃんはずっと憧れの人だったんだけど、好きだという告白もないままに男女の関係に発展してしまった私は苦しくて、どうしようもなくて、彼の一挙手一投足にただ振り回されてしまっていた。 葵は私のことを本当はどう思ってるの? 私は葵のことをどう思ってるの? 意地悪なカテキョに翻弄されっぱなし。 こうなったら確かめなくちゃ! 葵の気持ちも、自分の気持ちも! だけど甘い誘惑が多すぎて―― ちょっぴりスパイスをきかせた大人の男と女子高生のラブストーリーです。

宮花物語

日下奈緒
恋愛
国の外れにある小さな村に暮らす黄杏は、お忍びで来ていた信寧王と恋に落ち、新しい側室に迎えられる。だが王宮は、一人の男を数人の女で争うと言う狂乱の巣となっていた。

大書楼の司書姫と謎めく甜食

鳩子
恋愛
『結婚か、昇進か。どちらか選びなさい』 『心に決めた相手が居る』と縁談を断り続けていたアラサー公主・娃琳に 兄王から突きつけられたのは、究極の選択だった……。 来月に控えた大茶会には、隣国の皇太子が来るという。 その、饗応の為に、『珍奇で美味なる菓子を用意すること』。 それが出来れば、昇進。出来なければ結婚となる! 公主とはいえ、嫁き遅れの為、大書楼で司書として働いている娃琳は、 知識には自信が有ったが、一つ問題があった。 それは、彼女が、全く味覚を感じないと言うこと。 困っていた彼女が、街で出逢ったのは、西域から来たという謎の男、鴻。 彼は、故郷を助ける為に、『真実を告げる菓子』を探していると言う……? 大茶会と娃琳の将来の行方。 謎の男、鴻が守るべき故郷の秘密・・・。 後宮大書楼を舞台に、数多の書物と、 とびきりの甜食(スイーツ)と、陰謀が描く、中華後宮ラブミステリ。

実在しないのかもしれない

真朱
恋愛
実家の小さい商会を仕切っているロゼリエに、お見合いの話が舞い込んだ。相手は大きな商会を営む伯爵家のご嫡男。が、お見合いの席に相手はいなかった。「極度の人見知りのため、直接顔を見せることが難しい」なんて無茶な理由でいつまでも逃げ回る伯爵家。お見合い相手とやら、もしかして実在しない・・・? ※異世界か不明ですが、中世ヨーロッパ風の架空の国のお話です。 ※細かく設定しておりませんので、何でもあり・ご都合主義をご容赦ください。 ※内輪でドタバタしてるだけの、高い山も深い谷もない平和なお話です。何かすみません。

思い出さなければ良かったのに

田沢みん
恋愛
「お前の29歳の誕生日には絶対に帰って来るから」そう言い残して3年後、彼は私の誕生日に帰って来た。 大事なことを忘れたまま。 *本編完結済。不定期で番外編を更新中です。

どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします

文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。 夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。 エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。 「ゲルハルトさま、愛しています」 ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。 「エレーヌ、俺はあなたが憎い」 エレーヌは凍り付いた。

裏ありイケメン侯爵様と私(曰く付き伯爵令嬢)がお飾り結婚しました!

麻竹
恋愛
伯爵令嬢のカレンの元に、ある日侯爵から縁談が持ち掛けられた。 今回もすぐに破談になると思っていたカレンだったが、しかし侯爵から思わぬ提案をされて驚くことに。 「単刀直入に言います、私のお飾りの妻になって頂けないでしょうか?」 これは、曰く付きで行き遅れの伯爵令嬢と何やら裏がアリそうな侯爵との、ちょっと変わった結婚バナシです。 ※不定期更新、のんびり投稿になります。

処理中です...