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35. 夫婦げんか
しおりを挟む(愁月は、よく、皇帝陛下とご一緒に温泉に入って平気だったわね……)
『翡翠池』の浴槽に入りながら、琇華は、そう思う。
浴槽―――は、だだっ広い。泳法の訓練を集団で行っても、有り余るほどの広さだった。ここが、皇帝専用の浴室であると言うのだから、驚くばかりだ。
黒曜石で作った柱に、水晶の簾、金枝銀枝の飾りには、瑪瑙や珊瑚で作った梅や桃の花が付いていた。名工の手によるものらしく、花片の柔らかさは、本物の花に見まごうばかりである。
浴室に、直接掘られた大きな浴槽は、『翡翠池』の名にふさわしく、翡翠で作った玉板で大きく掘った浴槽全体を覆った、贅沢なものだ。
琇華は、皇帝と一緒に入浴するのは初めてだったが、こんなに恥ずかしいとは思わなかった。第一、この国では、湯着と呼ばれる入浴用の、簡素な白い衣装を身に纏う。つまり、素肌で接するわけではないから、恥ずかしくはないだろうと思っていたというのに、実際は。
(素肌のほうが、多分、ましよ!)
と、琇華が、内心、絶叫しているところだった。
たしかに、琇華も、皇帝も、湯着を着ている。だが、簡素な白い布は、温泉に触れて、肌の色を透かしていた。ぴったりと肌に貼り付いた湯着は、その下に包み隠していた皇帝の肉体を透かしていたし、琇華のほうも、白い胸は透けて、乳首の形がありありと解るほどだった。これでは、着衣だというのに、裸のようだった。
その上、皇帝は、琇華を後ろから抱きしめて、存分に、首筋やら耳朶やらに、甘く口づけを落としている。
「へ、陛下……っその、くすぐったいですっ」
「そうか? ……そんなに気にするほどのことでもあるまい。……それより、温泉は、どうだ?」
(妾は気にするわよ……)
そう思った琇華だが、後ろから抱きかかえられているので、全く、抵抗も出来ない。
温泉自体は、やや、ぬるい温度だったので、その分、長く入ることが出来そうだった。湯は、幽かな匂いがあって、なんの匂いかは琇華には解らなかったが、独特の渋みを感じる。湯の色は、やや、白い。湯の中に入れた手は、紗ごしに見ているようだ。
そして一番の特徴は、お湯が、ぬめるような感触がすることだ。
お湯の中で手や腕を撫で付けると、肌がするすると滑る。磨かれた玉のような滑らかさだ。
「なんだか、不思議な薫りと……不思議な感触ですわね。肌など滑らかになったようです」
「どれ」
皇帝が、するり、と琇華の湯着の袂に手を忍び込ませた。
「あっ……陛下っ!」
皇帝の指先が、琇華の白くまろい乳房を撫でる。思わず、背筋が跳ねた。
「本当に、大分滑らかになったね。……いつまでも撫でていたいところだが……」
琇華の後ろから、皇帝は顔を覗き込んできた。
「あなたが、のぼせると仕方がないから、このくらいにしておくよ」
からかうつもりなのだろう。悪意なく笑う皇帝に、胸の奥がツキンと痛むのを感じる。
「陛下は……。悪ふざけがすぎますわ」
琇華は、皇帝の手をどけてから、泳ぐように、す、と離れた。
「皇后?」
「陛下のお膝の上に乗っていたら……陛下が寛ぐことは出来ませんわ。折角の温泉ですもの。どうぞ、妾のことには構わずに、ごゆるりとお過ごし下さいませ」
離れたところから、琇華は言う。それが、面白くなかったのか、皇帝は立ち上がった。
「陛下、急に立ち上がりますと、めまいを起こしますから……」
皇帝の身を案じた琇華も、中腰になった。皇帝は、そのまま湯殿を出て行くのかと思いきや、そうではなかった。ずかずかと、湯の中を歩いて琇華に近づいて来る。思わず、後ずさった琇華は、やがて、背中に浴槽の壁を感じた。
皇帝は、近づいて来る。
水のせいで、ぺったりと肌に貼り付いた白い湯着は、肌を透かせて、逞しい身体が見える。それが、あまりにも、艶めかしい。
「陛下……?」
心細くなって問い掛けると、皇帝は琇華の腕をぐい、と引く。そのまま、琇華は皇帝の胸に顔を埋めることになった。
「如何なさいましたの? 陛下……?」
皇帝は、何か言いたげに口元を動かしていたが、言葉を探しあぐねているような様子だった。
「なんでもない」
「何でもないと言うことはないと思いますけれど……なにか、妾は、陛下のご機嫌を損ないまして? 妾は……まだ、陛下のことが、よく、解りませんから、愁月のようにはお仕え出来ませんけれど……」
愁月、の名前を呟いた時、琇華は胸が締め付けられるような気分になった。
皇帝は、愁月とは……ここで仲睦まじく過ごしたのだろうと思ったからだ。
「愁月と、あなたは違う」
ぴしゃりと言われて、初めての温泉と……今日は少しだけ近づけたような気分になっていた琇華の心が、しゅっ、としぼんだ。
(解ってる)
「……解ってますわ」
言うつもりはなかったのに、言葉が出ていた。
「解っている? ……なにを? いや、あなたは、なにも解っていない!」
声を荒げる皇帝の怒声が、耳許に聞こえて、琇華は身を竦ませた。感情が高ぶって出た失言だったのは、皇帝もすぐに気がついて、「いや、いまのは……」と取り繕おうとしたが、琇華は許さなかった。
「皇帝陛下ともあろう方が、一度口にしたことを撤回なさらないで!」
この言葉には、皇帝のほうが驚いたようだった。
「皇后……?」
「あなたの言葉は、黄金よりも重いのです。そのあなたが、軽々しく言葉を翻すようなことがあっては国が傾きます。あなたは、あなた自身である以前に、皇帝陛下なのですから、そこをお間違えなさいませぬよう」
(そうよ……あなたは、撤回すれば良いでしょうけれど。一度、受けた言葉は、言われた方は一生残るのよ)
泣かないように、目に涙が溜まっていくのは解ったが、それでも、そのまま、毅然と皇帝を見据えた。
「妾は、金子じゃないわ」
はじめて、琇華は皇帝に告げた。皇帝の法が、驚いて言葉にもならないようだった。
「……皇后……」
「妾は金子じゃない。あなたは、妾を金子としてしか見ていないのでしょうけれど」
「皇后、そうじゃない……私が言いたかったのは……」
皇帝は口ごもった。その先、言葉にするのを、躊躇っているようだった。
「苦情ならば何でも仰有って。その方が、妾はマシな気分になるわ。あなたは、金子相手には、こびを売るのでしょうから! あなたに……戯れに肌を探られるのは不愉快だわ!」
琇華は、おそらく、のぼせていたのだ。この『翡翠池』は、血の巡りに効果のある温泉である。血行をよくする。それで、いつもならば、考えても居ないような言葉が、まるで琇華の本心であるかのように、するっと出てしまったのだった。
皇帝は、琇華の言葉を、静かに聞いていた。だが、金子相手にこびを売るとまで言われたときに、流石に頭に血が上った。
気がついたときには、琇華の頬を、皇帝の手が平手で打ち据えていた。
――――パチンっ!
乾いた、頬を張る音が、浴室に響き渡った。
平手打ちにされて、琇華は、自身の失言に気がついた。
(この方は……それを、屈辱だと思って居たのに……)
なぜ、それを――――金子の為に、跪いたことを、琇華が軽口にしてしまったのだろう。
『ごめんなさい』と言いかけて、琇華の口唇が震える。言葉にならなかった。さきほどの言葉が、呪いのように我が身に突き刺さる。
『一度、受けた言葉は、言われた方は一生残るのよ』
「あ……っ」
琇華が、言葉を失っているのを見て、皇帝は、怒りも、なにもかも、自身の胸の内に上手に隠したようだった。
「私もあなたも、のぼせたようだね」
こくん、と琇華は頷いた。その瞬間、押さえることが出来なくなった涙が、ぼろぼろと流れ出て止まらなくなった。
顔を上げられずにいる琇華の頭を、ぽん、と皇帝の手が軽く叩く。平手ではない。優しい感触だった。
「私はね……」
皇帝は、どこか途方に暮れたような声で呟く。
「あなたに、内緒話を教えて欲しかったのだよ。だから、ここに来た。……あなたは、いつになったら、私に、隠しているものを見せてくれるのだろうね」
謎めいた言葉だった。
「妾は……、あなたに隠し事など……」
在りませんわ、と言おうとしてのを、皇帝に遮られる。
「あるよ」
「陛下が、そう仰せになるのでしたら……そうなのかもしれませんけれど……」
戸惑う琇華に艶然と微笑した皇帝は、「さて、もう一度湯に浸かってから、出ることにしよう」と琇華を誘った。
すっかり常の様子だった。
心の中で、(陛下、ごめんなさい)と謝りながら、「ええ」と琇華もいつもの通りに、彼の言葉に従った。
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