伏して君に愛を冀(こいねが)う

鳩子

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34. あなたという嵐

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『あなたは、存外、変な方なんだね』

 耳許で囁かれた言葉が、甘く留まっているようで、琇華しゅうかは、ぼんやりしながら湯着に着替えていた。

 皇帝の煎れたお茶が一番美味しい。それはお世辞でも何でもない、琇華の本心である。

(また、妾のことを騙しているのかしら……)

 それで、甘い言葉を耳許に囁いて、琇華をぼうっとさせているのではなかろうか。愁月のことが心配だから、苛められないように皇后の機嫌を取っておこうという腹なのかも知れない。琇華は、そう思うことにして、熱を持って熱くなっている頬を掌で包み込んだ。

 温泉に入る前から、湯あたりを起こしたように熱い。

「さあ、皇后さま、仕度が出来ましたよ。それでは、参りましょう。皇帝陛下は、既に『翡翠池』においでのようですから」

 瑛漣に手を引かれて、湯着のまま、浴室へと向かう。

 あちこちから楽しげな声が聞こえてくるのは、琇華が申し出て、ここに随行したものたちへの入浴が許可されたので、きっと、そのせいだろう。随行してきた者たちも、入浴を楽しんでいるに違いない。

「みんな、温泉に入っているのかしら」

 琇華が問い掛けると、瑛漣は「ええ。殿方はお入りのようですわ」と答える。

「あなたは、入らないの?」

「わたくしは……化粧の道具も持ってきておりませんし」

 だが、言葉の端に、残念そうな響きがあったので、琇華は「では、せめて、足だけでも温めてきたらどうかしら」と提案した。

「足だけ……、でございますか?」

「ええ。足だけでも、ゆっくりお湯につかると、全身が温まるそうよ? だから、もし良ければ、あなたも、湯を使っていらっしゃい。妾は、自分のことは自分で出来るし、皇帝陛下のお着替えも、お世話できるわ」

 男ものの服を着せてやることが出来なければ、相手の男が、裸で人前に出なければならなくなる。なので、どんな深窓の姫君でも、男の着替えを手伝うくらいは、実家にて指導されている。

「まあ……そうでしょうけれど」

 瑛漣は不満そうだった。その瑛漣の手を取って琇華は訴える。「お願いだから、あなたも、ちゃんと身体を癒やして頂戴。いつも、あなたには、いろいろと苦労を掛けているのだから……」

「わかりました、そこまでおおせでしたら」

 渋々承諾した瑛漣を伴って、琇華は浴室へ向かう。皇帝や皇族が使うのが、『翡翠池』と呼ばれる浴室である。靡山びざんの温泉地の中でも、黒檀の柱、漆黒の瓦で彩られ、西域から渡来した瑠璃などがふんだんにあしらわれた豪華な浴室である。

「素晴らしい浴室だわ……」

 簡単の息を漏らした琇華の耳に、思いがけない音が飛び込んで来た。


 ―――べべん、へべん。


「陛下は……琵琶を弾いておいでなのね。相変わらず……」

 物の怪でも憑いたような音だと言おうとして琇華は止めた。どんなものでも、最初から上手く出来る者はいない。皇帝も、時間を見つけて懸命に練習しているのだとしたら、それを笑ってはいけないはずだ。

「まあ、これは、琵琶でしたの……なんとも、特徴的な音ですわね。次からは、すぐに陛下の演奏だと解りますわ」

 驚く瑛漣に「では、ここからは、妾一人で行くわ。あなたも、寛いで頂戴」と言い残して、『翡翠池』へと入って行く。

 黒檀に、竜が彫刻された重たそうな扉の前で、「皇帝陛下。妾が参りましたわ!」と呼びかける。

 ほどなくして、琵琶の音が止まった。内側から、扉が開かれる。皇帝が、自ら扉を開けたようだった。肌が透けるほどに薄い湯着を着ているので、なんとなく目のやり場に困る。いつもならば、重苦しい衣装に包み隠されている逞しい胸板が見えて、琇華は胸が跳ねるのを感じていた。

「あら? 従者や女官はおりませんの?」

「ん? みな、温泉にやったよ。着替えを持ってきていないと言うから、足だけでも温まるから入りなさいと言ったんだ」

「まあ……妾も、同じことを瑛漣に言いましたのよ?」

「おや、そうだったのか……なかなか、気が合うね。我が皇后殿……さ、おいで。あなたがあまりに遅いから、たっぷりと琵琶の練習が出来たよ」

「聞こえてましたわ……あとで、妾と合奏して下さいませ」

「いや……流石に、あなたと合奏は無理だろう。私も、身は弁えているよ。あなたの腕前は、天帝の楽師も裸足で逃げ出すほどだ。私のは、せいぜい、子供がふざけて弾いているくらいだよ」

 たしかに、酷い音だが……不思議と、耳障りではなかったはずだ。面白い、のであって、不愉快ではない。それは、皇帝が、誰かに見せつけるように演奏していないからだろう。過剰な自意識は見苦しいものだ。

「そんなに仰せにならずとも、よろしゅうございましょう。妾は、嫌いではありませんもの」

「あなたは、変わり者だな。……薄いお茶が良いと言ったり、私の琵琶が好きだと言ったり」

 はは、と皇帝は笑う。

(あなたの、だから、妾は好きなのよ)

 心に秘めた思いは、伝えない。今日、こうして、穏やかで幸せな時間を過ごしていても、明日どうなるか解らない。

(あなたは、きまぐれなのか、なんなのか……妾は、ずっとあなたという嵐に乱されてばかりだわ)

 皇帝の表情を探りたくても、表情を読ませないと言うことに掛けては、この皇帝は、誰よりも優れていた。


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