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26. 古愁月の過去
しおりを挟む皇帝は、琇華を抱き上げて運ぶことが多い。
(皇太后様の御殿に参上する特に、歩くのが遅かったせいかしら……)
荷物のようにひょぃっと抱え上げられるのは困りものだったが、抱えられているときだけはぎゅっと皇帝にしがみつく言い訳が出来るので、嫌いではない。
(落ちそうだもの、怖いから、良いわよね?)
何度も夜を過ごして慣れたはずの皇帝の身体だが、こうして運んでいる間は―――対外的に、仲睦まじい夫婦を演じているらしく、蕩けるような眼差しを向けてくれる。
(あなたは、妾の胸が、締め付けられるように切ないのを、知らない……)
ましてや、琇華が皇帝に恋していることなど、知らないだろう。どんなに抱きしめても、思いは届かない。
(いっそ、古愁月が、嫌な女だったらよかったのに)
古愁月は、控えめで美しい女だった。妃嬪に上がるという野心など、露ほどもないのだろう。見事な裸身には嫉妬と眩暈を覚えたが、彼女を嫌うことも出来なかった。
「……少し、遠回りしようか」
皇帝が何か思いついて、瓊玖殿ではなく、別の場所へと向かった。向かった先は、東宮で、現在は主が居ないはずの宮だ。
「東宮? なぜ……?」
「去年までは、私はここで暮らしていたからね。……ここには池があって、畔には四阿もある。私は、そこが気に入っていたんだ」
池ならば、太極殿にも、掖庭宮にもあるだろうに、わざわざ東宮に来た理由がわからず、琇華は戸惑ったが、長い間抱きついていられたのだけは嬉しかったから、なにも言わなかった。
じわじわと汗ばむような陽気である。抱きついていたところも、汗で湿っていたが、構わなかった。
四阿に連れられても、皇帝の膝上に座らされる。理由を目で問うと、皇帝は「内緒話だからね」と、微苦笑した。
それでも池を渡る風は心地よい。蓮の花が咲くのだろう。池の畔には、大きくて丸い葉を広げた蓮が、浮かんでいた。
「あなたに、愁月のことを黙っていたのは、済まなかった」
出し抜けに、皇帝は言う。解っていた話題だったので、琇華も驚きはしなかった。
(本当に胸が潰れるほど悲しかったのよ)
本心は笑顔で上手に隠して、琇華は言う。
「もっと、早くに打ち明けて頂きとうございました」
「いや……それは、あなたは、堋国とは大分、事情が違うから……」
しどろもどろになっていう皇帝陛下の顔が近い。姿絵通り―――姿絵よりも、数倍美しい顔が、目の前で、困り顔をしている。
「あなたが……妾の子を殺すなら、妾は、愁月を妃嬪に迎えて、その子を、手元で育てたい。愁月の子なら……あなたは、殺さないのでしょう?」
言いながら、目頭が熱くなって目の前が滲む。
「いや、待ってくれ……愁月の子は……、皇太子にはしない。親王として遇することは、構わないが……、私は、庶人として生きた方が、あの子の為だと思っている」
「お幾つですの?」
「う……その……二歳になる」
言葉に詰まりながら、皇帝は言った。
「二歳……可愛い盛りではありませんか」
「いや……あの子が生まれたことは、私が悪い。だが……だからこそ、あの子は……皇太子にはしないんだ」
「まあ……何故ですの?」
「あの子が……愁月の息子だからだよ。愁月は、元々、『沽』という姓だったのだが……あれの兄が、大罪を犯した為に、沽家は一族族滅、唯一、皇太后殿下の侍女として働いていた愁月だけが……生き残った」
「族滅……」
一族郎党に至るまで、惨殺するという刑罰だ。あまりのおぞましさに、琇華は身震いして腕を抱く。その、琇華をまるで慈しむように、皇帝が優しく抱きしめた。
「この国は、水の守護を得ている。だから、姓は『さんずい』が付く家のほうが高貴とされる。……愁月は一人生き延びる事を許された代わりに、『沽』ではなく『さんずい』を奪われた『古』姓に落とされたんだ」
姓にそんな区別があるとは、知らなかった。
堋国は、『土』の守護を得た国だが、土の付く姓を尊ぶなどは聞いたことはない。現に、琇華の姓も、『燕』である。
「では、愁月は……家族も兄妹もなく、一人でここに居たのですね」
「兄の処刑と一族の族滅が、蓮花三十一年の頃だから三年前だ。……そして、私が、愁月を求めたのが、翌年の頭。その年の内に、男児が生まれたよ」
頼る人もなく、一人で子供を産み育てたのだとしたら、どれだけ心細かっただろう。
「……その間、陛下は、愁月に心を配っておられたのですか?」
「そのころは、いずれ、妃嬪にするつもりだったから……東宮の端にね、あまり上等でない殿舎があって、そこに、住まわせていた」
懐かしむように、皇帝が、東宮の一角を見遣る。
もしかしたら、親子三人で、幸せに笑い合っていたささやかな日々があったのかも知れない。そう思ったら、切なくなって涙が出て来た。それは、琇華が切望するものだったし……望んでも得られないものだったからだ。
琇華の存在が、皇帝から、その甘い日々を奪ったのだとしたら、やりきれない。
「父が……なにか、口出しをしたのですね」
「まあ……あけすけに言えばそうなるかな」
「それは……詫びても取り返しのつかぬ事を……」
伏して謝ろうとした琇華を、皇帝が止めた。
「いや、どのみち……愁月は、妃嬪には出来なかった。あれの兄の件があるのに、私が愁月を妃嬪にするわけには行かないだろう。すくなくとも、大臣達は許さない。だが、皇后であるあなたが許せば、大臣たちも黙らざるを得ない」
皇帝は、琇華を榻に座らせて、跪いた。
「陛下っ?」
「あなたの、叡慮に、心から感謝する。……おもえば、私は、ここに来てから、あなたに辛いことばかり強いていたのに、あなたは、なに一つ、不満も、言わなかった。愁月のことも本当は、不満があるのだとは思う……だが、それを飲んでくれたあなたの心の内を聞くのはやめる。その代わり、……私に、なにか、命じてくれ。あなたへの感謝の代わりに、どんな願いも一つ聞こう」
黒水晶の瞳が煌めく。切れ長の、美しい眼差しが、愛を乞うように熱っぽく見上げてくる。
(違うのよ、勘違いしてはいけないわ。この方は……そう、役者のように、芝居がお上手なだけ)
そう言い聞かせて、琇華は皇帝に答える。
「妾は、なにも、望みなど……」
いいかけて、ふと、気がついた。今月。六月二十五日は、琇華の誕生日だったのを思い出した。
「……六月二十五日は、もし、ご公務などなければ、一緒に過ごして頂きたいわ」
言いながら、琇華は、胸の高鳴りを押さえられなかった。堋国の実家で過ごしていたような、優しくて甘い時間になるとは限らなかったけれど……出来れば、そんなかけがえのない幸せなひとときを過ごしたい。
誕生日の記念に、それくらい許されても良いだろう……と、琇華は、切に願う。
「こんなことで良いのかい?」
「ええ。堋国式のお茶会をしたいの。仕度は、妾が致しますから、陛下は、どうぞいつも通りに、妾の殿舎へおいで下さいませ」
「お茶会が良いなんて……あなたは、欲がないのだね。私は、てっきり……」
と皇帝は何か言いかけて、無理に微笑みを作ると、会話を打ち切った。
「そろそろ、冷えてきたから……瓊玖殿へ行こうか。今日は、私の酒席に付き合ってくれるのだろう?」
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