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たった一つの懐中時計
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無事に制服に着替えた僕は、庭に止めてあるスピードに特化したクロスバイクに跨り、ペダルに足をかけグッと力をかけて漕ぎ始める。
軽快に回り始める車輪。家を出た先には急な下り坂があり、そこを一気に駆け降りていくのがとても気持ちがいいのだ。
今日も当然のように、坂をブレーキかけることなく降っていく。スピードのあまり、制服の裾がパタパタと風に揺られ潮の香りが僕の全身を包んでいく。
せっかくきれいに整えたはずの髪の毛が、坂を下っている風の影響と潮風のパリッとした空気のせいで、変な形にセットされてしまっている。
ま、綺麗に整えたと言っても時間がなかったから、髪を水で濡らして手櫛しただけなのだが...
坂を下っている最中にも僕の左手側には、太陽の光を反射しながら煌めく真っ青な海が広がっている。全国の高校生が憧れるであろう自転車で海を眺めながら走るという青春。
こころなしか、海から吹いてくる風がほんのりとしょっぱい気がする。
僕にとっては日常茶飯事でも、この景色と自分の肌で自然を体感できるこの瞬間だけは何度体験しても飽きやしない。むしろ、この先何年もこの青春を満喫していたいものだ。
生きている限り、歳をとっていくので叶わぬ夢なのだが。
あっという間に坂を下り終えると今度は、緑豊かな木々が僕の視界を満たしていく。海と対立しているかのように反対側には山々が連なっている。
自然が多く、長閑な場所で若者たちからすると遊ぶところが少なく、退屈な街かもしれないが僕からすると、ここは理想の街なんだ。
こんなに落ち着いていて、尚且つ自然にも恵まれている場所は日本中探してもそうそうあるわけではないのだから。
ちょうど信号が赤になり、ブレーキをゆっくり押していくと車輪が少しずつ回転数を減らしてピタリと止まる。
ポケットから携帯を取り出し、時間を確認すると時刻は8時15分。あと20分で学校に到着しないといけないと考えると、余裕ではないがそれなりに時間はある。
現在地からなら学校まではざっと10分程度なので、まぁ焦らなくても大丈夫だろう。
焦りすぎると、人の視界は急激に狭まるので、時には落ち着くことも大事だと中学生の時におじいちゃんに教えてもらったことがある。
「翔ちゃん!おはよう」
突如僕の隣から元気な声が耳に入ってくる。毎朝聞いている慣れ親しんだこの声。
「おはよう、凪沙。今日も時間ぴったりだな」
「当たり前じゃん!翔ちゃんと登校したいし・・・嫌?」
「そ、そんなわけ・・・僕も凪沙と登校したいし」
「あ、ありがと・・・」
自分から聞いておいて照れるのはやめてほしい。僕まで釣られて急に羞恥心が湧いてくるではないか。
この僕の隣で並んで信号を待っている女の子は海野凪沙。転校した中学先で出会った僕の彼女。
何も高校まで同じにする必要はないと言ったのに猛勉強の末、僕と同じ高校に無事合格したのだ。それももう数年前の話になるが、僕らは中学生の時に付き合ったのでかれこれもう数年は付き合っていることになる。
今度は大学受験が迫ってきてはいるが、凪沙も大学に進学するつもりなのだろうか。
毎朝こうして顔を合わせて入るけれど、そういった込み入った話をすることは基本的にないので、僕は彼女がどうしたいのかはわからない。
「あ、あのさ・・・凪沙は大学に進学するの?」
気になったら聞かないと落ち着かない性分なので、つい口からこぼれ落ちてしまった。
「翔ちゃんはどうしてほしい?」
疑問に疑問で返されるとは思わず、口がぽっかりと開いたままになってしまう。彼女は僕がこうしてほしいと言ったら、その通りの進路を選ぶのだろうか。
僕たちの関係性はただのカップルに過ぎない。結婚するかだってまだわからない。一時の関係かもしれないのに、彼女はそんな僕に人生の選択肢を委ねてもいいのか...
いや、それだけは絶対にダメだ。
「僕は、凪沙のしたい道を選んでほしい」
「だよね。翔ちゃんならそう言うと思ってた!」
「なら、聞かないでよ」
「聞きたかったんだもん。翔ちゃんはさ、この街から通える大学に進学するつもりなんでしょ?」
誰にも話したことがなかったことをズバリと当てられ、自転車から転げ落ちそうになってしまう。ばあちゃんにすらまだ話したことがない内容なのに。
「なんで知ってるの・・・」
「なんでだろうね?あんまり私を見くびらないでね。何年君の彼女をしているのかわかってる?翔ちゃんの考えていることくらい朝飯前だよ」
「え、そうなの? 僕の考えていることって分かりやすい?」
「うん。分かりやすいよ」
ちょうど良く信号が青に変わり、二人して再び自転車のペダルを漕ぎ始める。彼女がいるので、先ほどよりも遅いスピードで前へ前へと進んでいく。
「それで、凪沙の進路は決まってるの?」
「決まってるよ・・・私は東京の大学に進学しようかと思ってる」
「そっか・・・」
「そんなに分かりやすく落ち込まないでよ!そんなに私と離れるのが寂しいのね」
「そんなことはないけど・・・」
「はいはい、翔ちゃんは可愛いな~!」
内心は物凄くショックだった。同じ大学に進学することはないだろうとは思っていたけれど、東京の大学と聞いて離れてしまうことを強く実感させられた気がする。
ここから東京までは電車で一時間程度。それなのに、この胸の内側から押し寄せてくる不安はなんなのだろうか。
自転車で風を切る音が雑音になり、より一層他のことを考えることができないまま僕らは無言で学校へと向かった。
高校にはチャイムがなる五分前に無事到着し、凪沙とは今年からクラスが違うので別れを告げて教室に入っていく。
僕を見るなり挨拶をしてくるクラスメイトたちに挨拶を交わしながら、窓際に置かれた自分の席へと向かう。窓の外に見える景色は、この街に住んでいる限りは同じなのかもしれないな。
学校は高い場所にあるからか、家で眺める海よりもずっと奥行きが感じられる。遠くの方がゆらめいて見える気もする。
青い海と青い空に挟まれて空を飛んでいるカモメを見ると、つい羨ましく思ってしまう。あんなに自由に海の上を飛ぶことができたら、どれほど気持ちがいいのだろうかと。
生身で飛ぶことができない人間には、一生味わうことができない感覚かもしれない。
窓の外を眺めているだけで、時間がどんどん経過していく。時折、退屈な授業に耳を傾けながらも、目線の先に映り続けているのはいつだって青い海。
そうしている間にいつも気がつけば、学校が終わっている。これが、僕の学校での一日なんだ。休み時間も友達とは普通に話すけれど、心のどこかがぽっかりと穴空いた感覚が抜けない。
何があればその穴を満たしてくれるのか、本人である自分ですら把握できていないのが現状。
放課後はばあちゃんの手伝いをしているので、部活には所属していない。それに勉強は割と得意な方だが、運動に関してはどちらかというと好きではない。
できないわけではないけれど、あまり気が乗らないのだ。これは小さい頃からずっとだったらしい。
凪沙はというと、小さい頃から勉強よりも外遊びに熱中していたらしく、運動神経だけは優れている。
それもあり、彼女は部活に入ることはもちろんのこと。二つの部活を掛け持ちしている。
今の時期はまだ春先なので少し冷える。きっと今頃はグラウンドでソフトボールでもしているはず。夏になれば、彼女が最も好きな水泳の季節がやってくるのだが。
生憎うちの学校のプールは外に建設されているため、練習できるのは夏限定。だから、彼女はその分他の部活を掛け持ちしているのだろう。
夏にしか運動できないのは嫌だという理由らしい。僕と彼女はまるで正反対の価値観をしているのだ。だからこそ、うまくバランスが取れている可能性が高い。
机の中に入っている今日の授業で使った教科書類を机の脇にかけているリュックに押し込み、そそくさと教室を出ていく。
その間にも友達から放課後の遊びに誘われたが、正直興味が無いことばかりだったので相手に不快感を与えないように上手く断りを入れた。
僕だってたまには友達と遊んだりもするが、なぜだか今日は一人で帰らないといけないような気がした。
校舎を出ると、途端に全身を覆い尽くす太陽の眩い光に視界が遮られてしまう。あと数時間すると沈んでしまう太陽。寂しい気もするが、僕は断然日中よりも夜派の人間なので、少し矛盾しているかもしれない。
駐輪所に止めている自分の自転車のロックを外して、グラウンドの横を手で押しながら歩いていく。グラウンドには着替えたばかりであろう凪沙の姿が見てとれる。
どうやら僕には気付いていないらしく、部員と仲睦まじそうに何かを話している様子。
凪沙を一目見ることができたので、押していた自転車に跨る。
「おーい!翔ちゃん。私のこと見にきたの!」
「は、違うから!たまたま通りかかっただけ」
距離にして大体三十メートルくらい離れている僕ら。きっとこれだけ離れていても凪沙には僕の嘘がバレているに違いない。
僕が帰る方向とグラウンドは全くの逆方向なのだから。たまたまでグラウンドに来るはずがないのだ。
「ふーん。たまたまね。あ、そうだ!今日の夜電話しよっ」
「いいけど、なんか話したいことでもあるの?」
「特には・・・でも寝る前に翔ちゃんの声聞くと落ち着くから。だめかな?」
「い、いいよ。じゃまた夜な・・・」
視線を感じ、周りを見ると僕らの会話を聞いている同級生や後輩たちがニヤニヤとこちらを見ているのが分かる。
それもそのはず、この距離で会話をしていたら『誰か聞いてください!』と言っているようなもの。
あと少しだけ凪沙の部活姿を見ていたかったけれど、これ以上は流石に恥ずかしすぎたので逃げるように自転車を漕ぎ始める。
凪沙の方も後輩らしき人集りに追いかけ回されているので、きっと今の惚気の詳細を聞こうとしてくる後輩から逃げているのだろう。
逃げているのにどことなく嬉しそうな凪沙の顔を見ているだけで、僕の心も自然と羞恥心は消え安心と喜びが優っていった。
色々な感情が入り乱れて、自転車スピードは普段よりも数倍速く感じられた。
学校は比較的高い森の中にあるので、今僕が走っている車道は車通りも少なく、静かで尚且つ新鮮な空気で満ち溢れている。
どこを見渡しても緑に囲まれている風景が、たまらなく僕の心を落ち着かせてくれる。気のせいかもしれないが、吸う息が美味しいと思えるくらい空気が澄んでいる。
これも二酸化炭素を吸収して、酸素として空気中に放出してくれていう木々たちのおかげ。
都会に近づけば近づくほど、この木々たちが減っていくと考えると、都会の空気はどれだけ汚れているのだろうか。
気になってはいるが、すぐにこの空気が恋しくなることは間違いない。
もう少し走ると、緑の視界から一瞬にして青い視界へとチェンジし始めるだろう。森から瞬時に視界が海に切り替わること以上の自然の絶景を僕は今まで体験したことがない。
「うわぁぁぁぁぁ!」
何度見ても僕の内側から湧き上がってくる高揚感に、口を閉じることができずに声が漏れ出してしまう。
青い海の地平線が広がっている上空には、海に溶けるかのように沈み掛かっているオレンジに輝く太陽が水面に反射している。
遠くからだが、海辺の砂浜には数人の人影がちらほら見える。多分、学校帰りの中学生か高校生が浜辺で遊んでいるのだろう。自分も今まで幾度となく、あの砂浜で放課後を過ごしたことがあるから分かる。
あの場所ほど強く青春を実感できる場所はなかなかないのだと。制服姿で砂浜を歩くだけでもエモさが残るのだ。友達と海水を掛け合ったりしていたらそれはもう...青春以外の何物でもない。
家まであと坂を登ればすぐというところで、道端に人が倒れているのを発見する。後ろ姿だけだが、パッと見た感じご年配の方のようだ。
自転車から降りて、スタンドを足で動かし道路の邪魔にならない端に自転車を寄せて止める。
「あ、あの。大丈夫ですか?」
返事が返ってこない。嫌な予感が僕の頭を駆け巡る。
「大丈夫ですか!!!」
「あー、なんだいうるさいね。あら、お主はあたしのことが見えるのかね?」
なんだこの人は。幻覚でも見ているのか?いや、確かにそこら辺にいそうなおばあさんが道端に座っているようにしか見えない。
横顔しか見えていないが、僕のばあちゃんよりは年上に見える風貌をしている。
「み、見えますけど・・・」
「ほうそれは面白いね・・・実に興味深い」
不敵に笑うおばあさんが気味悪くて仕方がない。それに何が面白いのか僕にはさっぱり理解できない。普段は決してイライラしない僕なのに、なぜか今は無性にイライラしてしまう。
不快感を顔に出していると、座っていたはずのおばあさんが立ち上がり僕の正面に向かい合うように立つ。
「あ、あのおばあさん」
「あたしのどこがおばあさんなんだい?」
「え、いやおばあ・・・」
目を疑った。さっきまで僕の目の前にいたおばあさんが、二十代後半くらいのお姉さんに見えるではないか。
僕が見間違えただけだろうか...それはない。確実に僕が見た彼女の横顔には深い皺が刻まれていた。
それなのにどうして今、僕の目の前にいる人はこんな別人になってしまっているのだ。
「どうしたんだい少年」
当然のように声までも嗄れた声ではなく、はっきりと聞こえるハリのある声に変化している。
「さ、さっきまでおばあさんだった気がするんですけど・・・」
「はて、なんのことかね?」
「口調はさっきのおばあさんのままですよ」
「あら、そこを指摘されるのは予想外だったわね」
「じゃあ、やっぱりあなたは・・・」
「ま、私の正体はどうだっていいのよ。それよりあなたが私の姿を視えてしまうことの方がちょっと問題なのよね」
一体視えることの何が問題なのだろうか。僕からしたら、ただおかしな人が視えているだけのことに過ぎないのだが...
「何が問題なんですか?きっと僕以外にもあなたのことが視える人はいますと思いますよ。僕は特別な人間なわけでもないですし」
「そりゃ、あんた・・・いや君って言った方がいいのか」
どうやら、僕に口調を指摘されたことを気にしているようだ。
「君以外にも視える人は存在するよ。だがね、その者たちにはある共通点があるんだよ」
「共通点ですか?僕もそれに該当しているってことになる・・・」
「そうさ、私の姿が視える者にもそれぞれ種類があるんだけどね。どうやら君は、過去に強い後悔を抱いているね。それが原因で私が視えるのかもしれないね」
過去に強い後悔...僕に思いつくものと言ったら、家族の死とおじいちゃんの死くらいしか思いつかない。
「一応ありますけど・・・」
「ふんふん・・・なるほど。君は過去に家族と祖父を亡くしているのかい。それを自分の責任だと自分自身を責めてしまっているわけか。『あの時、こうしていたら助けられた』『まだ感謝の気持ちを伝えていない』ってところかい」
「な、なんで分かるんですか!あなたは何者なんですか」
僕の思っていることを飄々と述べてしまうお姉さん。
「この際だから話しておくよ。私は、魔女さ。もうかれこれ千年近くは生きているんじゃないかな?百年過ぎたあたりからめんどくさくなって数えるのはやめたけどね」
「ま、魔女!」
まさか、魔女が本当に存在していたとは...小説や漫画の世界だけの登場人物だと思っていたのに、こうも簡単に僕の目の前に現れてしまった。
その辺を歩いている人が『魔女だ!』と自分のことを言ったら、頭がおかしいのかと疑ってしまうが、この人はきっと本物だ。
そうでなければ、さっきからのおかしな出来事をどうやって説明すればいいのかわからない。
「そんな驚かないでよ。君にしか私の姿は見えていないのだから、周りから見たら君は一人で会話している危ない奴だからね」
「そ、それを早く言ってくださいよ!」
僕が大声を出した途端に、犬の散歩をしていた三十代くらいの女性が汚いものを見るかのような視線を僕にぶつけてきた。おまけに犬にも散々吠えられる始末。
「あっはははは!だから言ったじゃん。面白いな君。ところで話が変わるが、君が後悔している過去とやらはなんだい?」
この人...絶対に僕のことを遊んでいる。先ほども僕の考えを読むことができたのに、今さらできないはずがない。きっと僕の口から聞き出したいのだと思う。
嘘をついてもどうせバレるだけだし、隠すのも手遅れに近いので話すことに決める。相変わらず魔女の表情は人間のように見えて、読むことができない不気味な笑顔を貼り付けているみたい。
「僕の家族とおじいちゃんが亡くなったことです。僕にはきっとその場にいてもどうすることもできなかったけれど、いつも『僕にも何かできたんじゃないか』って思うんです」
「そうかい。随分辛い過去を持っているのだね。もしよかったら、私が会わせてあげようか?」
「誰にですか?」
「君の亡くなった家族や祖父に」
自分の耳を疑った。みんなにもう一度会うことができるなんて、想像もしていなかった。嬉しさのあまりその場でジャンプしてしまう。
「本当ですか!」
「あぁ、魔女は嘘をついたりはしないさ・・・」
そういうと彼女は、ポケットから一つの銀色に光る懐中時計を取り出した。この懐中時計でみんなに会うことができるのだろうか。
一見すると、時計の専門店になら売っていそうな見た目の時計。そこまで細かい装飾は施されてはいない模様。
実際間近にして見てみると、どこか胡散臭い気もするが僕は信じてみることにした。みんなに会うことができるなら、僕はなんだってするのだから。
「これはね、Memorial clock。通称、『思い出の時計』さ。これを使うと、一時的にあの世にいる特定の人物と会うことができる。ただし、一時間だけ。回数はもちろん、心の中で会いたいと願っている人物に一度だけと決まっている」
「じゃあ、僕は四人に会えるってことですか!」
「いや、それはこの時計を君が手にしてみないと分からない。手にした瞬間に長針の針が止まった数字が回数になる。制限時間の一時間を過ぎると、相手は消えてしまうから話したいことは時間内にね。それと、どこで使っても構わない。君がいる場所に現れるようになっている。ただし、人混みはやめておきなさい。さっきみたいになるからね」
夢にまでみた僕が望んでいたことができる。みんなに会って僕の胸に秘めて抱えていた想いをやっと告げることが...
魔女から手渡される銀色の懐中時計。手に乗った瞬間に、懐中時計にしては明らかに重量オーバーの重みが伝わってくる。
それに持っているだけで足元がふらっと揺らめいてしまう。まるで、自分の寿命を吸い取られているかのような今まで味わったことのない感覚。
気のせいだとは思うが使うのは一日一回にしておいた方が良さそう。それ以上は自分の体がもたないかもしれない。
怖くなり懐中時計をポケットの中へとしまい込む。手にしていただけで背筋が凍りつくような感覚が、なかなか体から消え去らない。
春先で気候は暖かく、海風が満遍なく体に当たり続けているのに、先ほどから汗が止まらない。そこまで汗をかくような状況と体質ではないはずなのに...
このポケットにしまっている時計を手にしてから、明らかに僕の身の回りの環境が変わった。
もしかしたら、この時計は相当なリスクを背負う代物なのかもしれない。でも。リスクを負わずに亡くなった人と単純に考えて会えるはずがないのである。
となったら、僕の答えは一つ。どんなリスクも顧みない。こんなチャンスはこの先二度とないかもしれない。
僕はどうしてもみんなに会いたいんだ...手にグッと力を入れ、魔女から目を逸らさずに頭を下げる。
「ありがとうございます!この御恩は一生忘れません。またいつかお会いした時はお礼をさせてくださいね!」
体調が限界だったこともあり、今すぐこの場から立ち去って帰宅したかった。いつも以上に慎重に自転車に跨り、残りの力を振り絞ってペダルを漕ぐ。
僕の自転車は二十一段変速のギアが搭載されている。左が三速まで、右が七速。かけると二十一段変速。基本的には右のギアしか普段はギアチェンジをしないのだが...あまりにも辛いのでどちらも一にギアを変速する。
ハンドルについている左右のギアを共に一にして最小限の軽さにしているはずが、今の僕にはMAX並みの重さに感じられた。
そのくらい僕の体は危険信号を発していたのだ。
「あぁ、行っちゃったね。まだ私はあの懐中時計を君にあげるための代償を話していないのだけどねぇ~。ま、いいさ君は代償を聞いたところで決断が揺らぐような男ではないのだろう?その代わり、君からは大事なものを頂くよ。魔女だから等価交換しないといけない性分でね。せいぜい頑張りなよ、若き少年・・・」
海から突発的な海風が周囲の木々を激しく揺らす。しかし、その風が収まる頃には魔女の姿は消え去ってしまっていた。
風に飛ばされたのか、それとも自発的に何処かへと姿を眩ましたのか。彼女の行方は本人にしかわからぬまま、真相は闇に葬られた。
ただ...彼女が先程までいた場所の足元の草花たちは、緑が生い茂っているとは裏腹に茶色く腐り果てていた。
不吉な空気が新鮮な空気を汚染していくような、良くないことが起きる前兆がじわじわと迫っていることに、僕は全く気付けないでいたんだ。
軽快に回り始める車輪。家を出た先には急な下り坂があり、そこを一気に駆け降りていくのがとても気持ちがいいのだ。
今日も当然のように、坂をブレーキかけることなく降っていく。スピードのあまり、制服の裾がパタパタと風に揺られ潮の香りが僕の全身を包んでいく。
せっかくきれいに整えたはずの髪の毛が、坂を下っている風の影響と潮風のパリッとした空気のせいで、変な形にセットされてしまっている。
ま、綺麗に整えたと言っても時間がなかったから、髪を水で濡らして手櫛しただけなのだが...
坂を下っている最中にも僕の左手側には、太陽の光を反射しながら煌めく真っ青な海が広がっている。全国の高校生が憧れるであろう自転車で海を眺めながら走るという青春。
こころなしか、海から吹いてくる風がほんのりとしょっぱい気がする。
僕にとっては日常茶飯事でも、この景色と自分の肌で自然を体感できるこの瞬間だけは何度体験しても飽きやしない。むしろ、この先何年もこの青春を満喫していたいものだ。
生きている限り、歳をとっていくので叶わぬ夢なのだが。
あっという間に坂を下り終えると今度は、緑豊かな木々が僕の視界を満たしていく。海と対立しているかのように反対側には山々が連なっている。
自然が多く、長閑な場所で若者たちからすると遊ぶところが少なく、退屈な街かもしれないが僕からすると、ここは理想の街なんだ。
こんなに落ち着いていて、尚且つ自然にも恵まれている場所は日本中探してもそうそうあるわけではないのだから。
ちょうど信号が赤になり、ブレーキをゆっくり押していくと車輪が少しずつ回転数を減らしてピタリと止まる。
ポケットから携帯を取り出し、時間を確認すると時刻は8時15分。あと20分で学校に到着しないといけないと考えると、余裕ではないがそれなりに時間はある。
現在地からなら学校まではざっと10分程度なので、まぁ焦らなくても大丈夫だろう。
焦りすぎると、人の視界は急激に狭まるので、時には落ち着くことも大事だと中学生の時におじいちゃんに教えてもらったことがある。
「翔ちゃん!おはよう」
突如僕の隣から元気な声が耳に入ってくる。毎朝聞いている慣れ親しんだこの声。
「おはよう、凪沙。今日も時間ぴったりだな」
「当たり前じゃん!翔ちゃんと登校したいし・・・嫌?」
「そ、そんなわけ・・・僕も凪沙と登校したいし」
「あ、ありがと・・・」
自分から聞いておいて照れるのはやめてほしい。僕まで釣られて急に羞恥心が湧いてくるではないか。
この僕の隣で並んで信号を待っている女の子は海野凪沙。転校した中学先で出会った僕の彼女。
何も高校まで同じにする必要はないと言ったのに猛勉強の末、僕と同じ高校に無事合格したのだ。それももう数年前の話になるが、僕らは中学生の時に付き合ったのでかれこれもう数年は付き合っていることになる。
今度は大学受験が迫ってきてはいるが、凪沙も大学に進学するつもりなのだろうか。
毎朝こうして顔を合わせて入るけれど、そういった込み入った話をすることは基本的にないので、僕は彼女がどうしたいのかはわからない。
「あ、あのさ・・・凪沙は大学に進学するの?」
気になったら聞かないと落ち着かない性分なので、つい口からこぼれ落ちてしまった。
「翔ちゃんはどうしてほしい?」
疑問に疑問で返されるとは思わず、口がぽっかりと開いたままになってしまう。彼女は僕がこうしてほしいと言ったら、その通りの進路を選ぶのだろうか。
僕たちの関係性はただのカップルに過ぎない。結婚するかだってまだわからない。一時の関係かもしれないのに、彼女はそんな僕に人生の選択肢を委ねてもいいのか...
いや、それだけは絶対にダメだ。
「僕は、凪沙のしたい道を選んでほしい」
「だよね。翔ちゃんならそう言うと思ってた!」
「なら、聞かないでよ」
「聞きたかったんだもん。翔ちゃんはさ、この街から通える大学に進学するつもりなんでしょ?」
誰にも話したことがなかったことをズバリと当てられ、自転車から転げ落ちそうになってしまう。ばあちゃんにすらまだ話したことがない内容なのに。
「なんで知ってるの・・・」
「なんでだろうね?あんまり私を見くびらないでね。何年君の彼女をしているのかわかってる?翔ちゃんの考えていることくらい朝飯前だよ」
「え、そうなの? 僕の考えていることって分かりやすい?」
「うん。分かりやすいよ」
ちょうど良く信号が青に変わり、二人して再び自転車のペダルを漕ぎ始める。彼女がいるので、先ほどよりも遅いスピードで前へ前へと進んでいく。
「それで、凪沙の進路は決まってるの?」
「決まってるよ・・・私は東京の大学に進学しようかと思ってる」
「そっか・・・」
「そんなに分かりやすく落ち込まないでよ!そんなに私と離れるのが寂しいのね」
「そんなことはないけど・・・」
「はいはい、翔ちゃんは可愛いな~!」
内心は物凄くショックだった。同じ大学に進学することはないだろうとは思っていたけれど、東京の大学と聞いて離れてしまうことを強く実感させられた気がする。
ここから東京までは電車で一時間程度。それなのに、この胸の内側から押し寄せてくる不安はなんなのだろうか。
自転車で風を切る音が雑音になり、より一層他のことを考えることができないまま僕らは無言で学校へと向かった。
高校にはチャイムがなる五分前に無事到着し、凪沙とは今年からクラスが違うので別れを告げて教室に入っていく。
僕を見るなり挨拶をしてくるクラスメイトたちに挨拶を交わしながら、窓際に置かれた自分の席へと向かう。窓の外に見える景色は、この街に住んでいる限りは同じなのかもしれないな。
学校は高い場所にあるからか、家で眺める海よりもずっと奥行きが感じられる。遠くの方がゆらめいて見える気もする。
青い海と青い空に挟まれて空を飛んでいるカモメを見ると、つい羨ましく思ってしまう。あんなに自由に海の上を飛ぶことができたら、どれほど気持ちがいいのだろうかと。
生身で飛ぶことができない人間には、一生味わうことができない感覚かもしれない。
窓の外を眺めているだけで、時間がどんどん経過していく。時折、退屈な授業に耳を傾けながらも、目線の先に映り続けているのはいつだって青い海。
そうしている間にいつも気がつけば、学校が終わっている。これが、僕の学校での一日なんだ。休み時間も友達とは普通に話すけれど、心のどこかがぽっかりと穴空いた感覚が抜けない。
何があればその穴を満たしてくれるのか、本人である自分ですら把握できていないのが現状。
放課後はばあちゃんの手伝いをしているので、部活には所属していない。それに勉強は割と得意な方だが、運動に関してはどちらかというと好きではない。
できないわけではないけれど、あまり気が乗らないのだ。これは小さい頃からずっとだったらしい。
凪沙はというと、小さい頃から勉強よりも外遊びに熱中していたらしく、運動神経だけは優れている。
それもあり、彼女は部活に入ることはもちろんのこと。二つの部活を掛け持ちしている。
今の時期はまだ春先なので少し冷える。きっと今頃はグラウンドでソフトボールでもしているはず。夏になれば、彼女が最も好きな水泳の季節がやってくるのだが。
生憎うちの学校のプールは外に建設されているため、練習できるのは夏限定。だから、彼女はその分他の部活を掛け持ちしているのだろう。
夏にしか運動できないのは嫌だという理由らしい。僕と彼女はまるで正反対の価値観をしているのだ。だからこそ、うまくバランスが取れている可能性が高い。
机の中に入っている今日の授業で使った教科書類を机の脇にかけているリュックに押し込み、そそくさと教室を出ていく。
その間にも友達から放課後の遊びに誘われたが、正直興味が無いことばかりだったので相手に不快感を与えないように上手く断りを入れた。
僕だってたまには友達と遊んだりもするが、なぜだか今日は一人で帰らないといけないような気がした。
校舎を出ると、途端に全身を覆い尽くす太陽の眩い光に視界が遮られてしまう。あと数時間すると沈んでしまう太陽。寂しい気もするが、僕は断然日中よりも夜派の人間なので、少し矛盾しているかもしれない。
駐輪所に止めている自分の自転車のロックを外して、グラウンドの横を手で押しながら歩いていく。グラウンドには着替えたばかりであろう凪沙の姿が見てとれる。
どうやら僕には気付いていないらしく、部員と仲睦まじそうに何かを話している様子。
凪沙を一目見ることができたので、押していた自転車に跨る。
「おーい!翔ちゃん。私のこと見にきたの!」
「は、違うから!たまたま通りかかっただけ」
距離にして大体三十メートルくらい離れている僕ら。きっとこれだけ離れていても凪沙には僕の嘘がバレているに違いない。
僕が帰る方向とグラウンドは全くの逆方向なのだから。たまたまでグラウンドに来るはずがないのだ。
「ふーん。たまたまね。あ、そうだ!今日の夜電話しよっ」
「いいけど、なんか話したいことでもあるの?」
「特には・・・でも寝る前に翔ちゃんの声聞くと落ち着くから。だめかな?」
「い、いいよ。じゃまた夜な・・・」
視線を感じ、周りを見ると僕らの会話を聞いている同級生や後輩たちがニヤニヤとこちらを見ているのが分かる。
それもそのはず、この距離で会話をしていたら『誰か聞いてください!』と言っているようなもの。
あと少しだけ凪沙の部活姿を見ていたかったけれど、これ以上は流石に恥ずかしすぎたので逃げるように自転車を漕ぎ始める。
凪沙の方も後輩らしき人集りに追いかけ回されているので、きっと今の惚気の詳細を聞こうとしてくる後輩から逃げているのだろう。
逃げているのにどことなく嬉しそうな凪沙の顔を見ているだけで、僕の心も自然と羞恥心は消え安心と喜びが優っていった。
色々な感情が入り乱れて、自転車スピードは普段よりも数倍速く感じられた。
学校は比較的高い森の中にあるので、今僕が走っている車道は車通りも少なく、静かで尚且つ新鮮な空気で満ち溢れている。
どこを見渡しても緑に囲まれている風景が、たまらなく僕の心を落ち着かせてくれる。気のせいかもしれないが、吸う息が美味しいと思えるくらい空気が澄んでいる。
これも二酸化炭素を吸収して、酸素として空気中に放出してくれていう木々たちのおかげ。
都会に近づけば近づくほど、この木々たちが減っていくと考えると、都会の空気はどれだけ汚れているのだろうか。
気になってはいるが、すぐにこの空気が恋しくなることは間違いない。
もう少し走ると、緑の視界から一瞬にして青い視界へとチェンジし始めるだろう。森から瞬時に視界が海に切り替わること以上の自然の絶景を僕は今まで体験したことがない。
「うわぁぁぁぁぁ!」
何度見ても僕の内側から湧き上がってくる高揚感に、口を閉じることができずに声が漏れ出してしまう。
青い海の地平線が広がっている上空には、海に溶けるかのように沈み掛かっているオレンジに輝く太陽が水面に反射している。
遠くからだが、海辺の砂浜には数人の人影がちらほら見える。多分、学校帰りの中学生か高校生が浜辺で遊んでいるのだろう。自分も今まで幾度となく、あの砂浜で放課後を過ごしたことがあるから分かる。
あの場所ほど強く青春を実感できる場所はなかなかないのだと。制服姿で砂浜を歩くだけでもエモさが残るのだ。友達と海水を掛け合ったりしていたらそれはもう...青春以外の何物でもない。
家まであと坂を登ればすぐというところで、道端に人が倒れているのを発見する。後ろ姿だけだが、パッと見た感じご年配の方のようだ。
自転車から降りて、スタンドを足で動かし道路の邪魔にならない端に自転車を寄せて止める。
「あ、あの。大丈夫ですか?」
返事が返ってこない。嫌な予感が僕の頭を駆け巡る。
「大丈夫ですか!!!」
「あー、なんだいうるさいね。あら、お主はあたしのことが見えるのかね?」
なんだこの人は。幻覚でも見ているのか?いや、確かにそこら辺にいそうなおばあさんが道端に座っているようにしか見えない。
横顔しか見えていないが、僕のばあちゃんよりは年上に見える風貌をしている。
「み、見えますけど・・・」
「ほうそれは面白いね・・・実に興味深い」
不敵に笑うおばあさんが気味悪くて仕方がない。それに何が面白いのか僕にはさっぱり理解できない。普段は決してイライラしない僕なのに、なぜか今は無性にイライラしてしまう。
不快感を顔に出していると、座っていたはずのおばあさんが立ち上がり僕の正面に向かい合うように立つ。
「あ、あのおばあさん」
「あたしのどこがおばあさんなんだい?」
「え、いやおばあ・・・」
目を疑った。さっきまで僕の目の前にいたおばあさんが、二十代後半くらいのお姉さんに見えるではないか。
僕が見間違えただけだろうか...それはない。確実に僕が見た彼女の横顔には深い皺が刻まれていた。
それなのにどうして今、僕の目の前にいる人はこんな別人になってしまっているのだ。
「どうしたんだい少年」
当然のように声までも嗄れた声ではなく、はっきりと聞こえるハリのある声に変化している。
「さ、さっきまでおばあさんだった気がするんですけど・・・」
「はて、なんのことかね?」
「口調はさっきのおばあさんのままですよ」
「あら、そこを指摘されるのは予想外だったわね」
「じゃあ、やっぱりあなたは・・・」
「ま、私の正体はどうだっていいのよ。それよりあなたが私の姿を視えてしまうことの方がちょっと問題なのよね」
一体視えることの何が問題なのだろうか。僕からしたら、ただおかしな人が視えているだけのことに過ぎないのだが...
「何が問題なんですか?きっと僕以外にもあなたのことが視える人はいますと思いますよ。僕は特別な人間なわけでもないですし」
「そりゃ、あんた・・・いや君って言った方がいいのか」
どうやら、僕に口調を指摘されたことを気にしているようだ。
「君以外にも視える人は存在するよ。だがね、その者たちにはある共通点があるんだよ」
「共通点ですか?僕もそれに該当しているってことになる・・・」
「そうさ、私の姿が視える者にもそれぞれ種類があるんだけどね。どうやら君は、過去に強い後悔を抱いているね。それが原因で私が視えるのかもしれないね」
過去に強い後悔...僕に思いつくものと言ったら、家族の死とおじいちゃんの死くらいしか思いつかない。
「一応ありますけど・・・」
「ふんふん・・・なるほど。君は過去に家族と祖父を亡くしているのかい。それを自分の責任だと自分自身を責めてしまっているわけか。『あの時、こうしていたら助けられた』『まだ感謝の気持ちを伝えていない』ってところかい」
「な、なんで分かるんですか!あなたは何者なんですか」
僕の思っていることを飄々と述べてしまうお姉さん。
「この際だから話しておくよ。私は、魔女さ。もうかれこれ千年近くは生きているんじゃないかな?百年過ぎたあたりからめんどくさくなって数えるのはやめたけどね」
「ま、魔女!」
まさか、魔女が本当に存在していたとは...小説や漫画の世界だけの登場人物だと思っていたのに、こうも簡単に僕の目の前に現れてしまった。
その辺を歩いている人が『魔女だ!』と自分のことを言ったら、頭がおかしいのかと疑ってしまうが、この人はきっと本物だ。
そうでなければ、さっきからのおかしな出来事をどうやって説明すればいいのかわからない。
「そんな驚かないでよ。君にしか私の姿は見えていないのだから、周りから見たら君は一人で会話している危ない奴だからね」
「そ、それを早く言ってくださいよ!」
僕が大声を出した途端に、犬の散歩をしていた三十代くらいの女性が汚いものを見るかのような視線を僕にぶつけてきた。おまけに犬にも散々吠えられる始末。
「あっはははは!だから言ったじゃん。面白いな君。ところで話が変わるが、君が後悔している過去とやらはなんだい?」
この人...絶対に僕のことを遊んでいる。先ほども僕の考えを読むことができたのに、今さらできないはずがない。きっと僕の口から聞き出したいのだと思う。
嘘をついてもどうせバレるだけだし、隠すのも手遅れに近いので話すことに決める。相変わらず魔女の表情は人間のように見えて、読むことができない不気味な笑顔を貼り付けているみたい。
「僕の家族とおじいちゃんが亡くなったことです。僕にはきっとその場にいてもどうすることもできなかったけれど、いつも『僕にも何かできたんじゃないか』って思うんです」
「そうかい。随分辛い過去を持っているのだね。もしよかったら、私が会わせてあげようか?」
「誰にですか?」
「君の亡くなった家族や祖父に」
自分の耳を疑った。みんなにもう一度会うことができるなんて、想像もしていなかった。嬉しさのあまりその場でジャンプしてしまう。
「本当ですか!」
「あぁ、魔女は嘘をついたりはしないさ・・・」
そういうと彼女は、ポケットから一つの銀色に光る懐中時計を取り出した。この懐中時計でみんなに会うことができるのだろうか。
一見すると、時計の専門店になら売っていそうな見た目の時計。そこまで細かい装飾は施されてはいない模様。
実際間近にして見てみると、どこか胡散臭い気もするが僕は信じてみることにした。みんなに会うことができるなら、僕はなんだってするのだから。
「これはね、Memorial clock。通称、『思い出の時計』さ。これを使うと、一時的にあの世にいる特定の人物と会うことができる。ただし、一時間だけ。回数はもちろん、心の中で会いたいと願っている人物に一度だけと決まっている」
「じゃあ、僕は四人に会えるってことですか!」
「いや、それはこの時計を君が手にしてみないと分からない。手にした瞬間に長針の針が止まった数字が回数になる。制限時間の一時間を過ぎると、相手は消えてしまうから話したいことは時間内にね。それと、どこで使っても構わない。君がいる場所に現れるようになっている。ただし、人混みはやめておきなさい。さっきみたいになるからね」
夢にまでみた僕が望んでいたことができる。みんなに会って僕の胸に秘めて抱えていた想いをやっと告げることが...
魔女から手渡される銀色の懐中時計。手に乗った瞬間に、懐中時計にしては明らかに重量オーバーの重みが伝わってくる。
それに持っているだけで足元がふらっと揺らめいてしまう。まるで、自分の寿命を吸い取られているかのような今まで味わったことのない感覚。
気のせいだとは思うが使うのは一日一回にしておいた方が良さそう。それ以上は自分の体がもたないかもしれない。
怖くなり懐中時計をポケットの中へとしまい込む。手にしていただけで背筋が凍りつくような感覚が、なかなか体から消え去らない。
春先で気候は暖かく、海風が満遍なく体に当たり続けているのに、先ほどから汗が止まらない。そこまで汗をかくような状況と体質ではないはずなのに...
このポケットにしまっている時計を手にしてから、明らかに僕の身の回りの環境が変わった。
もしかしたら、この時計は相当なリスクを背負う代物なのかもしれない。でも。リスクを負わずに亡くなった人と単純に考えて会えるはずがないのである。
となったら、僕の答えは一つ。どんなリスクも顧みない。こんなチャンスはこの先二度とないかもしれない。
僕はどうしてもみんなに会いたいんだ...手にグッと力を入れ、魔女から目を逸らさずに頭を下げる。
「ありがとうございます!この御恩は一生忘れません。またいつかお会いした時はお礼をさせてくださいね!」
体調が限界だったこともあり、今すぐこの場から立ち去って帰宅したかった。いつも以上に慎重に自転車に跨り、残りの力を振り絞ってペダルを漕ぐ。
僕の自転車は二十一段変速のギアが搭載されている。左が三速まで、右が七速。かけると二十一段変速。基本的には右のギアしか普段はギアチェンジをしないのだが...あまりにも辛いのでどちらも一にギアを変速する。
ハンドルについている左右のギアを共に一にして最小限の軽さにしているはずが、今の僕にはMAX並みの重さに感じられた。
そのくらい僕の体は危険信号を発していたのだ。
「あぁ、行っちゃったね。まだ私はあの懐中時計を君にあげるための代償を話していないのだけどねぇ~。ま、いいさ君は代償を聞いたところで決断が揺らぐような男ではないのだろう?その代わり、君からは大事なものを頂くよ。魔女だから等価交換しないといけない性分でね。せいぜい頑張りなよ、若き少年・・・」
海から突発的な海風が周囲の木々を激しく揺らす。しかし、その風が収まる頃には魔女の姿は消え去ってしまっていた。
風に飛ばされたのか、それとも自発的に何処かへと姿を眩ましたのか。彼女の行方は本人にしかわからぬまま、真相は闇に葬られた。
ただ...彼女が先程までいた場所の足元の草花たちは、緑が生い茂っているとは裏腹に茶色く腐り果てていた。
不吉な空気が新鮮な空気を汚染していくような、良くないことが起きる前兆がじわじわと迫っていることに、僕は全く気付けないでいたんだ。
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