人体模型が見る夢

阿房宗児

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固まった体、動かない体、一寸の隙間もない内側。固定された感情。平坦で直線的な感情。この水没した部屋での日常、毎日列をなして入ってくる透明な死者。お決まりのルーチン。衣領樹、生首、紙切れ、沈んでいく死者。たまに開け放たれている扉の向こうで、こちらの風景が見えていないのか、何事もなく通りすぎていく生身の人間。彼は階段を昇っているのか?下っているのか?
波長。音とは別の方法によって伝播されるもの。空間内にて電波のように飛び交うそれ。
触手と自我。
自分という存在のルーチンワーク。睡眠。以前は神聖な眠りの構造が変化している。眠っているのか、起きているのかが分からない。これが石的な睡眠なのかもしれない。自分は漂っている。夢と夢と夢の間で。それぞれの夢は管理人とフロイトに関連する夢ともう一つは分からない。これらを自分は巡っている。本来自分にとって比重の重い現実、それがどこで、どうやって定めるべきなのかも不明。この湿度100%の部屋で石となっているのが本当に現実なのか?しかし苛立ちはない。希薄。それはこの部屋の上部で浮いている、紙切れのような精神状態。細い線のよう。紙切れの間を縫って光が射す。揺らめいている。静かに。なにもかもがゆっくりと。青という水の中で。それは見ていて穏やかな気持ちになる。この部屋の上部で浮いている紙切れは一定の高さで漂い続け、時間が経つともっと上へ目指して上昇を始める。

フロイトは灰色の通路を渡り研究室でボイスレコーダーを再生し、内なる神への地図作成に没頭している。ここは袋小路。ボイスレコーダーが空中から吊り下げられている通路と研究室のみ。研究室、床以外の壁に大小様々なレントゲン写真が至るところに貼り付けられている。写真の中で透けて青白く映っているのは様々な骨。人体模型のように全身が映っているのもあれば、ポーズを取っているのもあるし、拡大した一部だけを映しているものもある。そのなかの一つは。三角座りをして、自らの両膝に顔を乗せてカメラを見つめる骸骨。

管理者はテレビを前にして、子供のように三角座りをして待ち続けている。彼の影は相変わらず伸びている。人間という屋根、戦争という屋根。テレビ画面の明かりが管理人の顔を照らす。

目を開けるというのは心理的な表現。石となった自分は目を閉じることができない。しかし確かに夢を見ていた。ここではない場所にいた。夢というものが睡眠に関わらず生じるものならば、その夢の開始と終わりの境界線が分からない。今、この水没した部屋は確固たる存在感でここにあり、自分を包容している。またもや、この部屋における一日のルーチンワークが始まった。
波長、音とは別の方法によって伝播されるもの。空間内にて電波のように飛び交うそれを自我という触手を通じて感じる。自我。それはまだかろうじて自分の形を保っている。それはまだかろうじて人間のときの名残を残している。自衛本能。他者の存在を感知すると警戒する機能。不透明で輪郭だけの死者へ、自分の目に見えない触手、意志、自我が伸びていく。取り込んだのか?取り込まれたのか?ただ彼等を覗いただけか?

体はオートマチック。動きは怠慢。彼等は沢山いるが、その中身はほぼ同じ。ゆらゆらと揺れながら歩く死者。死者が一歩を踏み出すたびに、体の中の二つのものが揺れ、傾き、滑り、やがて小さく二つは衝突する。順番がきて死者が衣領樹の代わりをしているコートハンガーに上着を掛ける。コートハンガーから透明な手が伸びてきて死者のなかをまさぐり、死者のなかにあった、二つのうちの一つを掴みとる。死者が見ていた風景が変わる。管理人が閻魔大王へと変化する。その前に立っていると、ずぶずぶと地中に沈みこんでしまう。それはやがて落下という感覚へと変わる。落下の最中に死者は石の地蔵になり、そして地獄に落ちる。地獄ではお馴染みの光景が繰り返される。賽の河原。石の代わりに小さな地蔵を積み上げる子供達。子供達の歌が辺りに響く。ここにはこれ以外の地獄はない。子供達が小さな地蔵を積み上げると鬼が金棒でそれを崩していく。そして子供達を滅多打ちにして殺してしまう。血が流れている。赤い血が流れている。辺り一面に。自分の視点は漂う。赤い血に、子供の亡骸に、地面に、鬼に。鬼が金棒を地面に叩きながらカツカツと唱える。すると子供は生き返る。自分は巡る。子供の中に、地蔵の中に、鬼の中に、これらの中を巡る。次第にそれらを巡るスピードはストロボの点滅のような速さになる。積み上げる。歌う。金棒を振り上げる。滅多打ちにする。赤い血。赤い血。赤い血。流れる。生き返る。各々の肉体動作と息遣いを感じる。しかしここには苦痛は見当たらない。それを感じない。それぞれの体の底にあるなにかが、自分を引っ張り下ろそうとしている。その強い力に引き寄せられ捕まる。鬼の体の中で、地蔵の固い石の中で、子供達の体の中で。それは膨大な数の人間の思考に変化する。縦一列に整列する思考。思考とは人間の顔面そのもの。
赤い血のなかで煙のような顔の輪郭が浮かび上がる。
地蔵のなかで煙のような顔の輪郭が浮かび上がる。
子供達の小さな体のなかにもそれはいる。鬼達の屈強だが醜い体のなかにもいるそれはいる。それは肉体の中心より、やや下方に位置したところに積み上げられた塔の形を成している。人間の不透明な顔で積み上げられている塔。その顔には短い手のようなものが伸びている。
顔が自分を掴みながら語りかける。
「私は幸せだったの。」でも困ったようにしばらく黙る。
「どうして幸せだったかは思い出せないけど、楽しかったの。」
その下の別の顔が自分を掴む。どの顔も同じ。輪郭だけの煙のような顔。話す言語も同じ。自分は顔の塔を下っていく。地獄にいる存在の奥深くに潜る。彼等は罪人なんかじゃなくて、生きてて幸せだったから次も幸せになろうと、この地獄の底で勤めを果たしている。ここに悲しみはない。ここには苦しみもない。肉体の状況は彼等にとっては無関係で、作用していない。
ここはどこ?と顔の一つに尋ねる。「ここは下腹部」と顔は答えてくれる。
彼等の短い手に幼子のように抱き抱えられ、現世での、実のない中身がない幸せの感慨を語られる。次から次へと。その語り口には懐かしみと愛情の念が伝わってくる。でもどうしてか自分にはそれが重たい。非常に重たくて苦痛的でさえある。この地獄の底にて、もうここにはいられない。ここの一員にはなれない。ここは自分の場所ではない。ここも自分の場所ではない。

呼吸困難になったかのように、息を吸い込む振りをする。目を急いで開ける振りをする。自分はここにいた。ここから移動なんかできない。石だから。しかし同時に自分は死者と共に地獄にいた。その矛盾が一つの体で混ざり合う。溶けていく。流れていく。石のなかで自分という存在が。それは苦痛?それは快楽?手放したくないもの?もしそんな風に感じられたら、自分はここにいただろうか?砂のように乾いて、流れていくののは自己という錯覚で、水溶物のようにどろどろと溶けていくのも自己という錯覚で。やがて石のなかに空洞が出来上がる。溶けて、または流れていった自己は目には見えない。しかしそれは確かに存在している。やがてそれは石の体から外に出ていく。当然視界はそれに付随している。やがて部屋の上部に浮いている紙切れに付着した。紙達は共同体のように一塊になって上昇していく。すると下方から爆発音が響く。紙達が立ち止まった。部屋の下方で、さっきまで自分そのものであり、自分の体である石像が爆発していた。石像の体は五体各部が綺麗に切り取られたようにバラバラになっている。すると紙達が縦に並んで、その身をよじり、細い紐状となって下降し、バラバラになった自分の体を引っ張りあげてくれた。紙の紐に引き上げられる石製の手足、紙の紐に引き上げられる胴体、紙の紐に引き上げられる顔面。紙達はその身を器用によじらせながら、バタフライのように上昇していく。その途中ふと見下ろす。水の中で揺れ動く部屋の様相が変化していく。生首がいなくなり、また管理人が一人テレビの前で座っている図に変わる。どんどん遠ざかっていくなかで、部屋のなかで一人きりだったはずの管理者の背後に一人、また一人、どこからかやってきては、管理者と共に腰を下ろして古ぼけたテレビを眺めている。それらの人達が何者なのかは分からない。増え続ける無言の人影。この光景をいつか過去において実際に見たような気がする。それほどまでに印象的だった。一つの風景がいくつもの様相をはらんで見えるということ、これは自分が死んでいるからかもしれない。死者はこういう風に見えるのかもしれない。そう思うと少しは安心できる。

やがて紙は水面に到達する。半円形のチャコールグレーの天井。天井には無数のパイプ、配管。配管の色合い。一見地味で実用的な色の寄せ集めに見えるが、いつもそこには元は綺麗だった朱色の配管が見える。他の配管と同じように年月とともに錆びていて、元の色彩と錆色とのツートンカラーになっている。左右には狭いコンクリートの歩道。人が二人歩ける程の幅。どこかの排泄溝らしい。紙の集団は各々の緊張を解いて、水面にその身を広々と浸して水の流れに任せている。彼等の上機嫌さがどうしてか伝わってくる。ここには紙をゴミだと思う人間もいなければ、水に浮いている漂流物を塞き止めるための意地悪な仕切りもない。
しばらくそんなふうにリラックスした雰囲気が続くが、突然彼等の動物のような機敏さが表れる。各々水面に広げていた、その身をこわばらせ、紙は陣形を組むように集まる。前方に目が眩むほどの閃光と爆発音のような音。光と音の暴力。やれやれ。そして墜落。意識を失う。意識?誰の意識?なにの意識?
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