公主の嫁入り

マチバリ

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2巻 娶られた雪は愛し子を慈しむ

2-2

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 人であれば息がかかるほどに顔を近づけてきた水鏡に、雪花はヒッと息を呑んだ。

「そう遠くない未来、おぬしは大きな選択をする日が来る」
「せん、たく……?」
「ああ。どちらを選んでもそなたはなにかを失うだろう。よく考えることだ」

 なんのことかと雪花が身を乗り出すと、今度は水鏡が後ろにすっと下がる。

「これはおもしろいものを見た。無理をして出てきた甲斐があったわ」
「あの、どういう意味ですか?」
「さぁ? わらわは見えたものを告げるだけじゃ。おぬしの選択を楽しみにしておるぞ」

 再びからからと笑い声を上げた水鏡は満足げに身体を揺らすと、現れたときと同じように階段をあっという間に上っていってしまった。
 残された雪花は、呆然と立ち尽くす。

「あやつめ……好き勝手言いよって」

 腹立たしげにうなった琥珀が、その場で地団駄じだんだを踏む。

「雪花よ。あれは性根のねじ曲がった道具だ。本体が水であるがゆえに、封印ではどうにも封じきれずあのように時々半端な姿を現す」
「……前にも小鈴から話を聞いたことがあります。そのときも、よくないことが起こると……」

 そのときのことを思い出し、雪花は身震いする。

「あれは優秀な道具だったが、呪いに使い続けられたことで性根が曲がってしまった。きことは口にせず、苦難ばかりを見せるようになってな……数代前の当主が引き取ったのだ」

 具体的に人に害をなすわけではないため壊すまでには至らぬが、たちの悪さを考えて本体は封じているのだという。
 元は良い道具だったのに、という憐憫れんびんの混ざった声に、雪花は胸を押さえた。
 人の行いによってゆがんでしまった道具。その道具が告げた未来。
 不安からじわじわと身体の熱が奪われていく。

「……どんな選択を迫られるのでしょうか」
「あの状態でる未来は正確なものではない。だが、我らは嘘はつけぬ。あやつは雪花に降りかかるなんらかの苦難をたのだろう」

 精霊は嘘をつけない。嘘とは人だけが使うものだと琥珀は以前にも教えてくれた。
 ならば水鏡の言葉はいずれくる事実なのだろう。

「幸いなのは、あやつの予言は試練の知らせということだ。あやつはもともと、乗り越えることが可能な試練を告げる鏡だった」
「乗り越えられる、試練……」
「ああ。その証拠に、お前たちは救われたであろう」

 あの騒動で雪花たちは強く結びつき、心を通わせることができた。

「なんにせよ、覚悟はしておくことだ。蓮にも相談しておけ」
「……はい」

 ぬぐいきれぬ不安を抱えたまま、雪花はしっかりとうなずいた。
 そして夕方。
 約束通り夕食前に帰ってきた蓮に、雪花はすぐに水鏡のことを相談した。
 上階から勝手に姿を現した水鏡の予言に、蓮の顔がわかりやすく強張こわばる。

「そうか……」

 暗い表情でなにごとかを考えこむ蓮に、雪花は身体を寄せる。

「怖いです。また、もしあのようなことがあれば」

 雪花を苦しめたレイ貴妃きひ親王しんのうはもういない。だが、あの虐げられた日々は雪花の心と身体にいまだに深い傷を残している。もし同じようなことがあればという嫌な想像ばかりが思い浮かんでしまう。

「安心してください。雪花は俺が守ります」

 優しい声と腕が雪花を包みこんだ。

「それに、今は陛下も強い味方です。あなたのためならどんな障害とて振り払ってくれるでしょう」

 陛下、という言葉に知らずほおがゆるむ。
 雪花に降嫁こうかを命じた普剣帝は、雪花にとっては兄であり、父だ。
 親子の名乗りを上げることは叶わないが、心はいつもそばにあると約束してもらったことは、雪花の誇りだ。

「陛下は過保護ですからね。いつもあなたを案じている」

 正体を明かしたことでたがが外れたのか、これまでは控えめだった手紙や贈り物の頻度は一気に増えたし、お忍びで会いに来てくれることもある。大切に思ってくれているのだろう。
 いつか蓮の妻としてきちんと挨拶に行きたい。元気でやっているからと安心させてあげたい。
 そう願ってはいるが、雪花はまだあの後宮に足を向ける勇気が持てないでいた。
 もしかしたら選択とは、そのことに関わるのだろうか。
 漠然とした疑問や不安に黙りこんでいると、蓮の大きな手が背中をさすってくれる。

「大丈夫。きっと雪花ならば間違えません」

 優しい言葉に、不安でいっぱいだった心が軽くなる。
 蓮が信じてくれている。
 そばにいてくれる。
 その事実が、雪花はなにより嬉しかった。


   ***


 翌日も雪花は朝から清彩節の準備でずっと動きまわっていた。
 足りなかった道具は、龍厘堂の上階で無事に見つかり、あとは供え物の飾りや食材の準備だけだ。
 注文は済ませているので、午後には届くだろう。

(蓮にお茶でも届けようかしら)

 持ち帰った仕事があると、蓮は朝からずっと仕事場にしているお堂にこもりきりだ。気分転換にお茶とお菓子を作ってあげようなどと考えていると、門の精霊が呼び鈴を震わせたのが耳に届く。

(もう?)

 約束の刻限よりずいぶん早い。しかし来たのなら受け取らなければと雪花が門へ急ぐと、小鈴が現れ一緒になってついてくる。

「雪花ひとりじゃ運べないでしょう。手伝うよ」
「ありがとう」

 可愛い小鈴に微笑み返しながら正門に向かうと、すでに門は大きく開かれていた。

(あれ……?)

 てっきり商人が来たものと思っていたが、そこに立っていたのは女性と小さな子どもという組み合わせだった。
 女性のほうは雪花より二回りほど年上に見えた。着物が浮くほどにせているのに、顔だけは不気味なほどつややかでふっくらとしている。
 顔立ちはとても整っており美人と呼べるたぐいなのだろうが、こちらを見る瞳には妙な圧があり、雪花はぞわりと肌が粟立あわだつのを感じた。
 そして女性の真横に立つ子どもは、女性以上に奇妙な出で立ちだった。
 姿格好から男児のようだが、身長は小鈴とさほど変わらない。
 だが、その身体は女性以上にせており、わずかな身じろぎでも服が脱げてしまいそうだ。
 結われていない髪は長さがまばらで、ろくにくしすら通していないのが見てわかる。前髪で顔を覆い隠しているせいで顔立ちは一切わからない。

「あの、どちらさまでしょうか」

 おそるおそる問いかけると、女性が口の両端をにいと吊り上げた。

「ごきげんよう公主さま。私は朱柿シュシと申します」

 上品な仕草で礼をする女性は、どうやら雪花が誰か知っているようだった。
 子どもはぼんやりと立ち尽くしたままで動く気配はない。

「公主はおやめください。私はすでに嫁いだ身ですから」
嗚呼ああ、なんとお優しい。あなたのような嫁を迎えたのなら、焔家は安泰あんたいですね」

 まるで誰かに聞かせようとしているのかのように、女性は声を上げて大げさに感動してみせる。
 その仕草に、雪花は思わず身体を硬くした。

(この人……)

 女性の動き方や喋り方は、かつて雪花が過ごしていた後宮の女官たちを思わせた。
 雪花のことなど一切敬っていないのに、上辺だけは丁寧な言葉を使うときの態度によく似ているのだ。
 胃のがじりじりと焼け付くような不快感がこみ上げてくる。

「それで、御用向きは?」
「……今のご当主さまにお伝えしたいことがあって参りました」

 ぺっとりとした笑みを浮かべた女性が一歩前に出てくる。
 もしかして仕事の依頼だろうかと考えたが、もしそうならば事前に手紙なりなんなりでこちらの都合を聞いてくるのが礼儀だ。
 蓮からは来客があるなど聞かされていない。つまり彼女たちは、突然押しかけてきた招かれざる客なのだ。
 嫌な予感に汗がにじむ。

「当主は今、仕事中です。伝言であればお伝えしますが……」
「いいえ、直接お話がしたいのです。私の名前を告げてくれればわかるはずです。どうかお取り次ぎを」

 なおも食い下がってくる朱柿に、雪花は思わずあとずさる。
 子どもはやはり黙ったまま動かない。

「あんたたち、一体なんなの!」

 隣にいた小鈴が怒りをにじませた声を上げながら、雪花と朱柿の間に滑りこんだ。
 両手を広げ、まるで雪花を守るように立ちはだかっている。

「……お前っ」

 小鈴の姿を見た瞬間、朱柿はそれまでにこやかだった表情を一変させ、瞳にらんらんとした怒りをたたえたのがわかった。
 その変貌に雪花は違和感を抱く。
 使用人に無礼を働かれたからといきどおる者は確かにいる。だが、朱柿の表情は小鈴そのものを憎んでいるかのように見えた。

「まだいたのね、忌々しい」
(やっぱり)

 朱柿の言葉から、小鈴を知っているのが伝わってくる。

「あれ……?」

 小鈴も朱柿の態度からなにかを感じたのか、広げていた両手を下げてしげしげとその顔を覗きこんだ。

「この方をご存じなの?」

 ひとりだけ置いてけぼりにされたような気持ちになりながら問いかけると、朱柿がどこか勝ち誇ったように鼻を鳴らした。

「ふふ。まさか私を覚えているなんて、道具のわりに賢いこと」
「っ……!」

 小鈴を道具と言い放った朱柿に、雪花は弾かれたように顔を上げる。

「お前たちに使う愛想はないわ。早く当主を呼んできなさい。まさかこの家は、かつての嫁をもてなさないつもり?」


   ***


 正門前でそのまま話し続けるわけにもいかず、雪花は朱柿と子どもを庭にある亭に案内した。
 朱柿は勝手知ったるという態度で上座に座り、子どもはその横にぽつんと立ったままだ。その所在なげな様子が気にかかり、雪花は子どもに優しく声をかけた。

「こちらにお座りなさい」

 空いている席を指し示すと、これまでずっと静かだった子どもが弾かれたように顔を上げた。
 長い前髪の隙間からすすで汚れた顔がわずかに覗く。

(まあ)

 子どもの瞳の色は、蓮の色によく似ていた。よく見るとそこにはわずかにみどりが混ざっており、なんとも不思議な色合いだ。

「……」

 喋れないのか、子どもは困ったように身体を揺らし、しきりに朱柿へ視線を向けている。
 だが朱柿は子どもに一切興味を示さない。まるで、存在そのものを無視しているような態度だ。

「大丈夫よ。こちらにおいで」

 いても立ってもいられず、雪花は子どもの小さな手を取った。
 その手は信じられないほどに細く、小さな手はかさついていて、おおよそ子どものものとは思えない。
 こんな小さな子が、と胸がぎゅっと苦しくなった。
 なんとなく朱柿から引き離しておきたくて、雪花は子どもを自分の横に座らせた。

「お菓子を食べる? それともなにか甘い飲み物を用意しましょうか」
「……」

 子どもから戸惑ったような気配が伝わってくる。
 問われていることがわからないのか、それとも喋れないのか。

「甲斐甲斐しいこと。さすがは焔家の嫁だわ。どんな相手にも優しくできなきゃ、こんなところで暮らせないわよね」

 ひどい言い様だった。
 隣に座っている子どもがぎゅっと身体を硬くしたのが伝わってきて、雪花はその背中を優しくでてやる。

(なんて細い)

 服の上からでもわかる骨張った背中に、ますます胸が痛んだ。
 どうして、と朱柿に問いかけようと雪花が口を開きかけたそのとき、静かな足音が近づいてくるのが聞こえた。

「蓮」

 琥珀を伴った蓮が近づいてくる。
 雪花の姿を認めた蓮の表情は険しく、それから朱柿にいぶかしげな視線を向けた。
 朱柿は少し驚いたように目を見張り、赤い紅の塗られた口の端をついと吊り上げる。
 蓮は足早に亭の中までやってくると、雪花の隣にそっと寄り添う。

「遅くなりました。……ご無沙汰しております、伯母上」

 ぎこちない口調ではあったが、蓮が伯母と口にしたことにより、雪花は先ほど朱柿が口にした「かつての嫁」という言葉が真実だったのだと理解する。

「そのように呼んでいただかなくて結構よ。私はすでに焔家とは縁が切れた身だもの。朱柿と呼んでちょうだい。しかし、ずいぶんと大きくなったわねぇ蓮。私が最後に見たときは幼子だったのに」

 ひどく馴れ馴れしい口調だった。
 蓮をじっとりと見つめる視線には妙な熱がこもっており、雪花はなんとも言えない不快感を抱く。

「あなたがこの家を出て二十年ですから。当時の俺はまだ八つ。むしろよく俺だとわかりましたね」
「だって、あなたのお父上そっくりだもの。とてもいい男に育ったわね。それに、焔家を蓮が継いだという話は有名よ。稀代きたいの道士だと、都中の若い娘がはしゃいでいるわ」

 くすくすと微笑みながら語る朱柿は、蓮だけを真っ直ぐに見つめていた。
 隣にいる雪花や子どもの存在など、まるで見えていない。

「そんなことを言いにわざわざ我が家へ?」

 蓮の口調は穏やかだが、明らかに苛立っているのがわかった。

「ああごめんなさい。話が逸れたわ」

 謝りながらも朱柿に悪びれる様子はない。

「今日来たのはほかでもない、それを引き取っていただきたいの」

 それ、と朱柿が指さしたのは雪花の横に座る小さな子どもだ。

「引き取る……とは」
「その子はこの焔家の血を引く男児よ」

 雪花と蓮は同時に息を呑む。そんなまさかと子どもに視線を向けると、子どもは小さな身体を震わせてうつむいた。

「私ね、この家を出たとき、あなたの伯父の子を身籠みごもっていたの」
「まさかこの子がそうだと? だとしたら年齢がおかしい」
「当たり前でしょう。人の話は最後まで聞きなさい。腹に子がいることに気がついたのは、新しい嫁入り先が決まったあとのことだった。幸いにも嫁ぎ先の主人は優しい人でね。子どもごと私を受け入れてくれたわ」

 そのときのことを思い出したのか、朱柿は夢を見ているかのようにうっとりと目を細めた。

「私は女の子を産んだの。可愛い子だった。とても……でも」

 朱柿の瞳がようやく子どもに向けられる。冷たい、なんの感情も宿っていない視線に雪花まで心が冷えるようだった。

「あの子は死んだわ。それを残してね。私の大切な子は死んだのに、どうしてそれが生きているの? そんな道理がなぜ許されるの?」

 語るうちに興奮してきたのか、朱柿の言葉は荒く声も大きくなっていく。

「それだけじゃないわ、それが生まれてからというもの、婚家には災いが降りかかり、私の夫は死んでしまった。夫だけじゃない。たくさんの人間が死んだわ。だからそれは呪われているに違いないの。焔家の血よ。すべて焔家の血が悪いのよ」

 目を血走らせ、唾を飛ばしながらわめく姿は正気とは思えない。
 その瞳に宿る明確な憎悪に、雪花は思わず子どもを抱きしめその耳をふさいだ。
 幼子に聞かせていい言葉ではない。

「そんな不吉な子を育てるなんて私には無理よ! 焔家に関わったのがすべての間違いだったのよ」

 ぜいぜいと肩で息をしながら朱柿は蓮をにらみつける。

「……ならばなぜ、子を産んだときに知らせてくれなかったのですか。あなたが焔家の血を憎むのならば、子を手放してくれればよかった。きっと父は、お嬢さんを受け入れたはずだ」
「過去のことはなんとでも言えるわ。私を焔家から追い出したのは、あなたの父よ。そんな男に我が子を渡せると?」
(焔家を追い出された?)

 かつて蓮に聞かされた昔話では、伯父たちの妻は寡婦かふとして焔家で生きるよりはと生家に返されたと聞いていた。
 しかし朱柿の口ぶりは、まるで蓮の父が強引に追い出したかのようだ。

「そんなはずはありません。あなたをはじめとした伯母たちは皆納得のうえで生家に戻ったはずだ」
「……あのときは、従うしかなかった。焔家にいても養えないとあなたの父は私に言ったのよ。それに……」

 憎々しげに蓮をにらみつけていた朱柿は不意に言葉を途切れさせると、それまでの苛烈さが嘘のようにすっと表情を消す。

「とにかく。私はそれを育てられません。婚家は途絶えましたし、生家はもう私を受け入れてくれないでしょう。二度も夫を亡くした不吉な娘ですからね。これからはひとりで生きていかなくてはいけません」
「そんな……あなたの孫ではないですか」

 雪花はたまらず声を上げた。
 腕の中の子どもは、身じろぎひとつしない。今まさに捨てられようとしているのに、ただ大人しく雪花の腕に抱かれている。

「はっ……それが孫? 馬鹿言わないで」

 朱柿は顔をゆがめて笑うと、馬鹿らしいと一蹴する。

「私の子は死んだわ。それのせいでね。だからそれは私にとって不要なものなのよ」
「ひどい……」

 小さな身体を雪花はきつく抱きしめた。


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