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 私は夢でも見ているのだろうか。
 シュルト様は私の腕を絡め取り、私の手を優しく握りしめている。
 誰に話しかけ挨拶をされたのかなどもう覚えてはいない。皆が当然のようにシュルト様の横に収まる私に興味津々な表情を浮かべるが、シュルト様は質問を許さないとでも言いたげに視線で相手を制し、最低限の話をする事しか許さない。

「アルリナ、疲れたのか。顔色が悪い」
「いえ、ちがい、ま」

 す、と言いかけた唇にシュルト様の指が触れた。

「この色は悪くはないが、お前にはもう少し優しい色が似合うな。次は別の色を用意させよう」

 親指が私の下唇を撫で、勝手に塗られた口紅を拭うように無抵抗な肉を左右に弄んだ。目の前のシュルト様は真っ直ぐに私を見つめている。
 周囲から短い悲鳴や嘆息が聞こえた。唇に触れ、口紅を贈る関係。それはつまり、と囁きが波のように広がっていく。

「シュルト、少し見ぬ間に随分と婚約者殿と打ち解けた様子だな」
「父上」

 波を打ち消したのは低く静かな声。
 2人、打ち合わせたように同時に視線を向ければシュルト様のお父様がいた。

「ご、ごきげんよう、おじさま。ご無沙汰しております」

 慌ててシュルト様から離れ、頭を下げる。
 本来ならばこのような気やすい呼び方をしてはならない相手だ。伯爵さまと呼ぶのさえ不敬ではないかと思っているのだが、幼いころから「人前ではそう呼ぶように」と言われ続けているせいで、こう呼ぶほかない。

「アルリナ、そうかしこまらずとも良い。ようやく我が愚息が君の魅力に気がついたようで安心したよ」
「いえ、そんな」
「父上。アルリナは私と出会ったころから何も変わらず魅力的な存在ですよ」
「ほう」

 シュルト様と伯爵さまは穏やかなようで剣呑とした空気を纏いながら見つめ合っている。
 子供のころから何かと言えば対立をしていると聞かされていたが、この二人が揃っている姿というのはあまり見たことが無かった。
 父親と息子なんてそんなものよ、とシュルト様のお母さまもそんな事を言っていたが、それだけではないような気がしてくる。

「お前が学園内で女遊びにうつつを抜かしているというよからぬ噂を聞いた時はどうしたものかと思ったが、婚約者とここまで仲睦まじい様子ならば噂も偽りであったのだろう。ギルバート様の手を煩わせているのではないかと不安であったが、杞憂であったか」

 女遊び、という単語に身が強張る。

「ふふ、それはどうでしょうね」
「なんだと?」

 シュルト様が声を潜め、伯爵さまに近づき何かを耳打ちする。私にはその内容は聞き取れなかったが、伯爵さまはシュルト様の言葉に目を見開き、驚愕の表情で私を見た。その瞳に籠るのは驚きと動揺、そして僅かな怒りが感じられた。
 あまりの迫力に私は心臓を鷲掴みにされたような恐怖を感じて、後ろに下がりかけるが、シュルト様の腕が腰に回され私の体を引き寄せ強く抱きしめる。

「私たちが仲睦まじくあることが父上の望みだったではありませんか。どうか喜んでください」

 語る言葉は物語の一文のように美しいが、シュルト様が父である伯爵さまに向ける態度とは思えない。その瞳はどこか嘲りにも似た色が混ざり、口元は僅かに怒りが込められていた。

「お前っ」
「俺はアルリナを心から愛しているのです父上。何があっても離れるつもりなどない。少し早いですが卒業と同時に結婚するつもりです。喜んでくれますよね?」

 きゃあ、と私たちを見ていた女学生の誰かが悲鳴を上げた。それにつられ、周囲に黄色い声援が波紋のように広がっていく。
 目の前で起きた、まるで舞台じみた熱烈な告白。当事者である私も、それが現実とは理解できないほどに衝撃を受け、呆然とシュルト様を見上げるしかできない。

「シュルト、さま」
「ああ、驚かせたねアルリナ。もっと早く言おうかと思ったが、どうせなら父上にも聞いてもらおうかと思っていたのだ」

 私を見つめるシュルト様の瞳はいつもの冷徹な色とは違う。
 けれどその奥にあるのは何か恐ろしいものだと、私の本能が告げている。
 何度も蹂躙された身体が悲鳴を上げ、ただ見つめられているだけなのに体を締め付けられるような切なさがこみ上げてくる。

「愛しているよ、アルリナ。俺と生涯を共に生きよう」

 ヒッと短い悲鳴が喉から勝手に出た。
 その言葉をどれほど待ち望んでいたのかわからないほど長い間、彼に恋い焦がれていた。どんな冷たい言葉をぶつけられても、身体を蹂躙され、気持ちを踏みつけにされても、捨てきれない恋心の欠片ばかりが心に降り積もって私を内側からズタボロにしていたのに。
 今、目の前にわかり易く提示された愛の言葉は、これまでのどの行為より私の心を苦しめる。

「アルリナ」

 シュルト様は私の返事など聞く気はない。柔らかな唇がこめかみに押し当てられる。周囲の歓声や興奮は最高潮だ。
 しかしそれに反比例するように私の心は冷え切っていく。
 これではまるで、まるで。

「それは当て付けか」
「何故そう思うのです?俺たちを婚約させたのは、他の誰でもない父上だ」
「っ」

 私の気持ちなどまるで無視した二人が頭上でにらみ合っている。
 そう、これは明らかにあてつけだ。きっとシュルト様と伯爵さまの間で何かしらの問題があったのだろう。私との婚約にまつわる何か。察しの悪い私でも何かあるのだと理解できた。きっとシュルト様は伯爵さまへの反抗もあり私を嫌った。
 でも何か理由があり、私を手放せなくなった。ギルバート様との計画もきっと関わりがあるのだろう。
 本当に想い合っているクレア様ではなく、嫌っている私を婚約者として人前で発表するほどの何かがある。私は体のいい道具なのだ。ああ、なんて。

「あなたのお望みどおり、俺たちは心から想い合う婚約者となりましたよ」

 微笑むシュルト様は腕の中に捕えた私を見る事などない。
 何故ならば私は彼にとっての道具だ。きっと何かの盾になる。だから逃げる事を許されなかった。
 この日この場所でこの役目を負わせるのは私でなければならない何かがあったのに、私が勝手に婚約破棄を言い出したから、逃げられないように体を蹂躙し捕えられた。私はそれにすら溺れすがった。なんとみじめな事だろうか。

「アルリナ、君からも何か言ってやるといい」

 シュルト様はまるで人形で遊ぶかのように私を伯爵さまの前に差し出す。
 何を言えと言うのだろうか。私には何が残されているというの。

 伯爵さまと私は無言で向き合うことしかできない。
 お互いにシュルト様と意図を計りかねているのがわかる。

「ほら、父上も可愛い嫁に何か言ってあげてください。きっと母上も喜ぶでしょう」
「……!そうだな、アルリナ、息子には手を焼くだろうがよろしくたのむよ」
「は、はい」

 絞り出したような伯爵さまの言葉に私は頷くしかできなかった。
 盛り上がる周りの歓声すら遠い音に聞こえる。私だけが、私一人が取り残されたような虚無感に涙すら浮かばなかった。



 伯爵さまは誰かに呼ばれたのか私たちの前から離れていく。
 シュルト様は力なく立ち尽くす私の腕を掴み傍へと引き寄せる。
 触れ合う体温は暖かいのに冷え切った私の身体には伝わらない。

「アルリナ、大丈夫か」

 私を気遣う声はどこまでも優しい。
 だが、その裏に隠された何かを悟った私には、その何もかもが偽りだと理解できた。
 先程まで夢のようだと思っていた光景が悪夢のように思える。
 見世物だ。私はシュルト様の人形。きっと計画が終われば捨てられる運命。
 ならば。

「ええ、大丈夫です」

 これまで使い方を忘れていた笑顔を浮かべる。
 ずっと、ずっと彼に向けたかった私の笑顔。

 シュルト様が目を見開き、息を飲んだ気がした。
 驚いたのかもしれない。私が笑うなんて思ってなかったんだろう。

「私も、愛しています、シュルト様」

 ずっと告げたかった言葉。
 彼が私を捨てるつもりで偽りの言葉を口にしたのならば、私が真実を吐き出したことで何の問題もない。
 きっとそうする事がシュルト様の為になる。
 私達は仲睦まじい婚約者。この場限りの夢の関係。
 ならば夢だと思って乗り切ればいい。たとえすべてが終わった後に待っているのが悪夢だとしても。

 私は道化になることを受け入れた。



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