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1巻

1-2

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   ***


 幼いラシェルとエステルは、瞳のほかはよく似た姉妹であった。
 しかし、ラシェルは魔力を秘めている可能性のほかに、生来の気の強さもあり華やかで存在感のある美しさを感じさせる少女だった。
 派手なドレスや装飾品を好み、おしゃべりや歌やダンスを愛する彼女は屋敷中の人気者。
 エステルは姉とは真逆で、内気でなかなか自分のことを主張せず、いつも控えめな少女だった。
 家の中にいることを好み、ドレスよりも本をねだり、宝石よりも鉱石や植物を好み、迷惑をかけることはないが目立つこともない存在。
 周囲がラシェルを優遇するのは当然の流れで、彼女はそんな周囲に甘やかされてわがままな娘に育っていった。
 その結果、エステルはいつもラシェルのオマケでしかなく、いつだってラシェルのわがままに振りまわされるようになっていた。
 それでも彼女たちが幼い頃の両親は、姉妹に平等だった。妹に無理難題を押しつける姉を咎める日もあったし、妹だけを膝に抱いてくれる夜もあった。
 エステルが六歳になった年、クレメール家に念願の男児が生まれた。ジョルジュと名付けられた彼の瞳は、エメラルドのごとく輝く美しい宝石眼だった。強い魔力を持つであろう次代の誕生に、家族中が喜んだ。
 可愛い弟と優しい両親。エステルは十分に幸せであった。
 あの日までは。


 それはジョルジュが五歳を迎える夏のはじまりに起きた。
 避暑を兼ねて、夏の間は別荘で過ごすのがクレメール家の恒例行事。
 可愛い盛りのジョルジュの手を引き、エステルは両親と共に別荘に向かうことをなにより楽しみにしていた。
 十三歳になったばかりのラシェルは田舎の別荘地に行くことが不満な様子で、馬車の中で悪態をついては何度も両親にたしなめられていた。
 ジョルジュの誕生日を祝うパーティの準備をする間、両親はラシェルに妹と弟をよく見ているようにと言い付けた。
 だが、奔放なラシェルは当たり前のようにその言い付けを無視した。弟の子守をエステルに押しつけ、自分は護衛の騎士を連れてさっさと遊びに行ってしまったのだ。
 なんでも別荘から少し離れた小さな町に劇団が来ているという噂を聞きつけたらしい。華やかな催しを好むラシェルは我慢ができなかったのだろう。
 残されたエステルは姉の奔放さに慣れていたこともあり、早々に両親への報告を諦め、ジョルジュと庭先で、年配の侍女に見守られながら花冠を作るなど、静かな遊びに興じていた。
 エステルは買ってもらったばかりの小さなイヤリングをつけ、ジョルジュは真新しい靴を履いて、二人は小さな王女と王子になりきって遊んでいた。
 このとき、両親に報告していれば。せめて屋敷の中で遊んでいれば、彼らの運命は変わったのかもしれない。
 二人に近づく不審な影。侍女が気づいたときにはもう遅かった。侍女のつんざくような悲鳴と共に花畑が血に染まる。
 突然現れた大柄な男二人がジョルジュの足を掴み、軽々と持ち上げた。
 幼いジョルジュは「おねえちゃん」と泣き叫び、エステルにしがみついたが、あっという間に引きはがされ、猿ぐつわをされて麻袋に押し込められる。ジョルジュの靴の片方だけがその場に落ちた。
 エステルは小さな体で男たちにしがみつき、必死に弟を返してと叫んだが、少女が大人の男相手に敵うはずもない。

「うるさい小娘だ! だが貴族のお嬢様なら使えないこともないな」

 泣き喚くエステルをしたたかに殴りつけた男たちは、エステルにも猿ぐつわをかませ、違う袋に押し込めようとした。
 しかし侍女の叫びと、尋常ではない子どもの泣き声に気がついた者たちが駆けつけ「人さらいだ」と騒いだため、男たちはエステルを乱暴に投げ捨て、ジョルジュを入れた袋ひとつだけを抱えて走り去る。
 エステルはもうろうとする意識の中で、ジョルジュの入れられた袋を見つめ続けていた。袋を担ぎ上げた男の腕に残る奇妙なかたちの入れ墨だけがやけにはっきりとエステルの目に焼きついた。

「ジョルジュ……」

 小さな手を伸ばしても届かない悲しみと絶望に打ちのめされながら、エステルは意識を失い、三日三晩悪夢にうなされ寝込み続けた。
 助けられなかった小さな弟の泣き顔や、小さな麻袋の内側から必死にもがく光景は、幼い彼女には衝撃的すぎたのだ。
 そして、ようやく目を覚ましたエステルに向けられたのは、両親の優しい言葉やいたわりではなく、激しい叱責だった。

「なぜ、ジョルジュを連れ出した‼」

 エステルはとっさにラシェルを見たが、当のラシェルはしくしくと泣きながら母の腕の中でジョルジュの名前を繰り返し呼んでいる。
 母親はそんなラシェルの背中をさすりながら、エステルを睨みつけていた。

「お前がラシェルと騎士から逃げだしてさえいなければ、こんなことにはならなかったのだ‼」

 父親の怒号にエステルは「ちがう、ちがう」と泣きじゃくったが聞き入れてもらえず、幼い舌はそれ以上の反論を紡ぐことができなかった。
 姉は自らが罰せられるのを恐れ、護衛の騎士を買収でもして口裏を合わせたのだろう。姉についていた騎士もラシェルの言葉に同意した。
 真実を知っていた年配の侍女は助けが間に合わず命を落としており、エステルの味方をしてくれる者は誰もいない。
 侍女の死と、弟を喪失した悲しみでエステルは泣き叫びたかったが、誰も自分を信じない。
 憎しみの視線を向けられる状況に胸が潰れそうな恐怖と足下の不安定さを感じ、ついには言葉を失い立ち尽くした。
 そんなエステルの態度に両親は罪を確信し、ますます彼女を糾弾した。
 息子を失った悲しみは、その原因である幼い娘への憎しみにすり替わってしまったのだ。
 エステルは両親に信じてもらえぬ悲しみや辛さ、姉におとしいれられたという衝撃、そしてなにより自分の無力ゆえに失ってしまった弟への罪の意識により、深い絶望の底へ心を沈めた。
 ジョルジュをさらったのは、見た目の良い子どもを商品として扱うような人さらいだったのか、それとも魔力持ちになる可能性のあるジョルジュを狙ったものだったのかは結局わからずじまいだった。
 両親はほうぼう手を尽くしたようだったが、エメラルドの宝石眼という特異な子どもであるはずのジョルジュの痕跡はどこにもなかった。
 唯一の手掛かりと思われたのは、エステルが覚えていた男の腕の入れ墨だったが、幼い子どもの曖昧な記憶では捜索の役には立たないと一蹴された。
 エステルもさらわれかけていたと、古くから屋敷に仕える使用人や護衛の騎士たちが両親にとりなしてくれることもあったが、両親の態度は頑なだった。
 嫡男ちゃくなんを失った悲しみのはけ口を、幼いエステルに定めてしまったのだろう。
 以降、エステルは両親から愛されずに疎まれ続けることになる。
 ラシェルはエステルの口から真実が暴露されるのを恐れてか、必死ともいえる勢いで彼女を虐げ続けた。ラシェルに味方した騎士は罪悪感に苛まれたのか、しばらく後に姿を消してしまった。
 エステルはどんな扱いを受けようと、弁明をすることも逆らうこともなく、無気力で無抵抗であった。それがさらに両親を歪ませ、姉を増長させた。
 目に見えるような暴行こそなかったものの、存在を無視され、些細なことで責めたてられる日々。いっそのこと捨ててくれればと願った夜もある。自ら命を投げ出すべきかと悩んだ夜もだ。
 しかし自分で逃げ道を選ぶことすら許されない気がして、エステルはひたすらにすべての憎しみや非難を受け入れた。
 それが唯一、自分にできるしょくざいであると信じて。

「お父様の望む通り、子どもを産むことができれば、ジョルジュは私を許してくれるのかしら」

 小さくて可愛い弟。自分の後をついてまわり、姉と慕ってくれた。柔らかくて温かい、愛すべき存在。輝くエメラルドの瞳。
 自分が手を離さなければ、もっと早く気がついて逃げていれば、すぐに叫んで誰かを呼んでいれば、姉と騎士がいなくなった時点で父母のもとへ戻っていれば。
 どうしようもない後悔で繰り返し身を焦がすエステルは、自分が罪人であるという意識に支配されていた。

「アンデリック・カッセル様」

 パブロから教えられた夫となる人の名前を呟きながら、まぶたを閉じる。
 どんな人だろうか。優しい人ならいい。そんな淡い期待が浮かぶが、すぐに首を横に振って自分の甘い考えを消し去る。
 元より血を繋ぐための結婚だ。愛し愛されるためのものではない。
 だからこそエステルにはそれが救いだった。
 罪人である自分が誰かを愛するなど許されるわけがない。
 罪人である自分を誰かが愛してくれるはずなどない、と。


   ***


 結婚をするというのに、一度も相手と顔を合わせることもなく日々は過ぎ、手紙での簡単なやり取りと書類にサインをしただけで、エステルは顔も知らぬ男の花嫁となった。
 アンデリックの希望で式の類はしないことが決まっていた。
 エステルもむしろそれで安心していた。神の御前で偽りの宣誓をするのは心苦しかったから。
 とても質素な輿こしれであった。知らぬものが見れば、修道院送りになる貴族の令嬢としか思わないだろう。
 事実、この結婚はパブロの命により、父以外の家族にはしばらく伏せておくようにと言われている。
 母も姉もエステルは修道院に行くものと思い、見送りにすら出てこない。
 父親は娘の行く末を知っているにもかかわらず、なにひとつ言葉をかけなかった。
 名家の娘とは思えぬ質素なドレスに身を包み、侍女の一人も連れぬ孤独な花嫁道中だったが、エステルは一言も文句を言わなかった。


 長い道のりを経て辿りついた、エステルの新たな住まいとなるアンデリックの屋敷は、人里離れた森の中。
 薄暗く、日の光も届かないような鬱蒼うっそうとした森の中にたたずむ屋敷は、どこか不気味ですらあった。
 唯一の付き添いであった御者はその光景に顔色を悪くし、エステルとわずかな荷物を門前に降ろすとすぐさま馬車に乗り込み、走り去ってしまった。
 取り残されたエステルは、馬車の姿が完全に見えなくなってから、門柱に備えつけられた呼び出しのベルを鳴らす。
 すると屋敷から小柄な老女が現れ、きびきびとした動きでエステルを出迎えてくれた。彼女はこの屋敷唯一のメイドで、名前はベルタだと名乗った。
 ベルタは丁寧な優しい口調でエステルに話しかけ、道中の疲れをいたわってくれた。
 親切なその態度に、エステルはわずかばかりに安堵した。この結婚はアンデリック側にとっても不本意なものだと聞かされていたため、冷たくされるかもしれないと嫌な想像をしていたからだ。

「ご主人様はまだお休み中です。先にお部屋へご案内しましょう」

 もう日が高いというのにまだ寝ているのだろうかといささか不思議に感じたが、魔法使いとは常識では測れぬ存在なのだろうと納得し、エステルはベルタの案内に従う。
 用意されていた部屋は華美ではないが、十分すぎるほどに広く、丁寧に掃除されている。
 柔らかなベッドに腰掛けると、エステルは自分がずっと緊張していたことに気がついた。
 部屋の奥には隣室へ続く扉があり、そこが夫婦の寝室なのだと気がつくと、エステルは年頃の娘らしく頬を染める。

(子どもを作る、というのは、そういうことなのよね)

 不意にクロードに組み敷かれた記憶がよみがえる。無骨な手が乱暴に、無遠慮に肌をまさぐる感触には嫌悪感しか抱けなかった。
 あの感覚を乗り越えなければ子どもができることはないと学んでいるが、果たして自分は夫との行為を受け入れられるのだろうか。
 それ以前に、数々の美しい娘を望まなかったという人に、自分は抱いてもらえるのかという不安が湧きあがる。
 落ち着かない気持ちでベッドに腰掛けたまま固まっていると、扉を優しくノックする音がした。
 応えるとベルタが顔を出し、お茶の用意ができたのでサロンにどうぞと呼びかけられる。
 案内されたサロンは温室のような造りになっており、豪華にも壁一面がガラス張りだ。暖かな日差しがポカポカと心地良い。
 別世界に来たような違和感に戸惑うエステルがあちこちに視線をやると、ガラスにもたれかかるようにして本を読んでいる男性を見つけた。

「まあ」

 自然と声が零れていた。
 光に照らされる銀髪と、サファイアのように輝く濃いブルーの瞳。
 男性に向けるべき言葉ではないかもしれないが「美しい」と呼ぶにふさわしいその人は、エステルの存在など目もくれず、ただ本へ視線を向けている。
 エステルを驚かせたのはその美しさだけではない。美しい銀髪の間からは、わずかなうねりをおびた拳ふたつほどの長さの角が生えているのだ。
 牡鹿というよりは牡羊のそれに近い角は、白くつるりとした乳白色で、思わず触れてみたくなるほどに美しかった。

「ご主人様、奥様をお連れしました」

 ベルタの紹介にエステルはようやく我に返り、慌てて頭を下げる。

「はじめまして旦那様。エステルと申します。どうぞよろしくお願いいたします」

 エステルの挨拶に、アンデリックはわずかに視線を向けただけで返事はしない。
 どうしたらよいかわからず、エステルは立ち尽くす。
 元より彼に望まれたわけではない。パブロはああ言っていたが、アンデリックに「いらない」と断られてしまえばエステルになす術はない。

「エステル殿、こちらへおかけを。温かいお茶をどうぞ」

 ベルタの声に救われるような気持ちで、用意されていた椅子に腰掛ける。日差しにより温まった椅子は心地良くエステルを包み込んだ。
 湯気を立てる紅茶は薄紅色で、甘い香りが鼻をくすぐる。
 緊張していた体がほぐれていくのを感じた。

「素敵な香りですね」

 口に含むと花のような味わいが舌を撫でる。
 きっと高級な茶葉なのだろうとベルタを見ると、自ら庭で育てた茶葉を使っていると教えてくれた。彼女はとても有能なメイドらしい。

「ご主人様も、いつまでも本を読んでいる振りなどせずに、早くこちらへ来て奥様とお話をしてください」
「……」

 メイドにあるまじき口調でベルタが声をかけると、アンデリックはわずかに眉間に皺を寄せたものの、無言のまま静かな足取りでエステルの正面に腰を下ろした。

(本当に、なんて美しい人なのかしら)

 髪や瞳だけではない。整った鼻筋やかたちの良い唇は上品だ。
 感情のない表情をしてはいるが、その美しささえあれば、笑みを浮かべる必要などないだろう。
 それに先端を天に向けたあの美しい角は、触るといったいどんな感触がするのだろうとエステルは胸をときめかせた。

(あの角は、羊のようにわずかに温かいのかしら。それとも象牙のように冷たいのか……どんな触り心地なのかしら)

 うっとりとした瞳で自分を見つめるエステルの視線に、アンデリックはなぜか落ち着かない様子で視線を泳がせる。

「遠いところまでわざわざご苦労だった。この度のことはあなたも望まぬことだったと聞いている」

 想像していたよりもずっと優しい声と口調に、エステルは角から視線を外し、真正面からアンデリックと視線を交わす。
 あまの娘たちに興味を示さず、その心を折ったとは思えぬ優しい声と柔らかな視線だった。

「い、いいえ。旦那様は尊いお方。私に不満などありません」

 結婚の経緯は確かに不本意なことばかりだったが、アンデリック個人に対して不快な感情はなにひとつない。むしろ想像していたよりもずっと素敵な人で、エステルの感情がわずかに上を向く。
 しかし、その気持ちはすぐさま冷めることになる。

「エステル、といったな。残念だが俺は誰かと結婚する気もなければ子どもを作る気もない。国にせがまれ書類上では夫婦となったが、俺と君は他人だ。しばらくはここに居てもいいが、ほとぼりが冷めたら早々に出ていってくれ」

 アンデリックの言葉に、エステルは返事をすることができなかった。
 初めから愛など存在しない、用意された結婚だ。愛してもらえるなど思っていない。
 パブロからの命令としょくざいのために子どもを産めればという浅ましい自分の願いを叶えるためにここに来たのだから、それを咎められても仕方ないと思っていた。
 だが、まさか初対面でここまで言い切られるとは思っておらず、エステルは衝撃を受けた。
 ここを追い出されたら行くあてなどない。
 元より捨てた命と思っていたのに、本当に行くあてがなくなると感じた途端、エステルは腹の底が冷えていくのを感じた。
 自分は罪人であるとわかっているのに、命にしがみついてしまう浅ましさが情けなかった。

「わかったのなら、この屋敷にいる間は好きにしていい」

 そう一息に言い切るとアンデリックは席を立ち、サロンを出ていった。
 暖かい日差しが差し込んでいるはずなのに、指先のひとつまで動かせないほどの寒さを感じ、エステルはうつむいていた。


   ***


「なんなのだ、あの娘は」

 アンデリックは先ほど初めて顔を合わせた、自らの妻となったエステルを思い出し、忌々しげに顔をしかめた。

「俺を見て逃げ出せばよいと思っていたのに、あんな」

 うっとりと、恋でもしたかのように自分を見つめる瞳。あんなものは初めてだった。
 アンデリックはこれまで何人もの娘に引き合わされた。
 彼が魔法使いと呼ばれる以上、子どもを作ることは義務であるかのように周囲が騒いだ結果だ。
 どんな令嬢も最初はアンデリックの美しい容姿に頬を染めるが、すぐさまこの醜い角の存在に気がつき、表情を凍らせる。
 最後まで淑女らしく静かに振る舞う女はまだ優秀だ。大抵の娘は引き攣った悲鳴を上げるか、涙を浮かべすぐさま逃げ出す。
 それはそうだろう。人間に角が生えているなど奇怪以外のなにものでもない。
 その結果、両手で足りないほどの見合いをさせられたが、ほとんどの娘がアンデリックの妻になることを望まなかった。唯一、角ぐらいならば我慢できると顔を青くしながらも気丈に応えた娘もいたが、結局アンデリックのとある事情を知るや否や、悲鳴を上げて逃げ出した。

「くそっ」

 しかしエステルは違った。最初にアンデリックを視界にとらえたその瞬間から彼が冷たい言葉を伝えるまで、夢でも見るかのように優しい眼差しを向けていた。
 際だった美しさはないものの、柔らかそうな栗色の髪とくるりとしたアイスグレーの瞳。愛らしい、という表現がしっくりくる彼女は声まで可愛らしく、うっすらと頬を染めアンデリックを見て微笑む真似までしてみせた。
 可憐なその笑顔が、頭に焼きついて離れない。

「馬鹿か。なにを考えているのだ、俺は」

 アンデリックはありえないと苛立ちを募らせる。
 あれはすべてまやかしだ。きっと角のこともあらかじめ言い含められていて、表情を作ったに違いないと自分に言い聞かせる。
 なかなか結婚相手を決めないアンデリックに、業を煮やしたパブロが最後に薦めてきた相手がエステルであった。

『彼女で無理ならば、もうなにも言わない。代わりに婚約ではなく正式に結婚してかたちだけでも整えてほしい』

 そこまで言われ、アンデリックは渋々ながらその提案を受け入れた。
 この国にいる唯一の魔法使いが長く独身では色々と勘繰られることもあり不便なのだ、とのたまい、毎日のように顔を出してくるパブロのうっとうしさに根負けし、「本当にこれが最後だ」と了承したのが先月のこと。
 結婚式はしない、従者やメイドを連れてくることは許さない、迎えにも行かない、来るのならば勝手にすればいいと、かなり酷い内容の手紙を出したのに、それらすべてを了承したかたちで、エステルは本当に身ひとつでやってきた。

「あんな……」

 いずれは出ていってほしいと告げたときに見せた悲しげな顔を思い出し、アンデリックは胸が苦しくなった。
 これまで自分が怯えさせた人間は多いが、それらはすべてこの角が生えた奇異な見た目のせいだ。
 アンデリックは人前でほとんど口を利かない。人と関わることすらまれなのだ。
 だが、あのときエステルが見せた顔は怯えや恐れとは違った。
 アンデリックの容貌ではなく、アンデリックに拒まれたことに傷つき、悲しんでいるように見えた。
 そんなものは演技に違いないと思いながら、アンデリックは初めて自分の意思と言葉で他人を傷つけたかもしれないということに、戸惑いを隠せないでいた。
 アンデリック・カッセルはアクリア国唯一の魔法使いとして、この屋敷に隠れるように暮らしている。アンデリックの持つ魔力は強大で、そしてどんなに難しい魔法も再現することができる。ただの魔力持ちとは桁違いの実力を持つ、特別な存在だ。
 だが彼の母であるアンシー・カッセルは、魔力に縁のない世界に暮らす、平凡な村娘だった。
 親を早くに亡くしたが、持ち前の明るさとひたむきさで必死に生きていた女性で、野菊のような可憐さを持っていたという。
 そんな彼女の魅力は、村の視察に来ていた若き国王の目に留まってしまうことになる。
 王太子から国王に即位したばかりの彼は、己の欲に忠実だった。
 国王は、恋人がいるというアンシーの訴えを無視し彼女を求めた。もちろんアンシーは抵抗したが、相手は王族。周りの大人たちからも言い含められ、アンシーはその身を差し出すほかなかった。
 視察で村をはじめとした地方をめぐる間、国王はアンシーをあいしょうとしてそばに置き、ちょうあいした。
 視察が終わり、王都に帰る段になった国王はアンシーを側室として王宮に連れ帰ろうとしたが、王妃が出産間もないことを理由にそれは叶わなかった。
 いつか迎えに来るというかんげんといくらかの金品を残し、国王は王都に戻ることになる。
 王の御手付きになったアンシーは恋人とも別れ、王からの連絡を待つしかない。
 だが、王妃が王子を産んだという知らせが国中に届いても、王からの便りはなかった。
 アンシーは汚された体と奪われた未来への悲しみから、心を病んだ。日に日に衰弱し、弱る体と反比例するように、アンシーは腹をふくらませていく。
 そう、王の子をはらんでいたのだ。


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