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しおりを挟む落ちたグラスから溢れた真っ赤なワインが絨毯にシミを作るが、それを気にする人は誰もいない。
何故なら、つい先ほど響いた言葉に全員が驚いて固まっていたからだ。
王家が管理する離宮で開かれている春至祝の会場には国内外の有力貴族が集まっておりかなりの人数なのに、いまは水を打ったように静まりかえっている。
「あの、ルカーノ様……いま、なんと?」
「聞こえなかったのか? 君との婚約を破棄すると言ったのだよ、スフィカ」
スフィカと呼ばれた少女の体が目に見えてわかるほどに震えこわばった。
艶やかな黒い髪に真夏の空のような水色の瞳をした、18歳には思えないほどの艶やかな美女。華奢でありながらも女性らしさを感じさせる抜群のスタイルを緋色のドレスで包んでいる。
この会場の中で一番美しい人と言っても過言ではないスフィカは、この国の公爵令嬢だ。
普段はその地位と美貌によって裏付けられた自信によってまばゆいほどの笑みをたたえているスフィカだったが、今の表情はまるで幼子のように不安に歪んでいた。手に持っていたワイングラスを落とすほどに動揺しているその姿は、憐憫すら誘うものがある。
そのスフィカに婚約破棄を告げたのはこの国の王子であるルカーノ。燃えるような赤い髪に新緑を思わせる緑の瞳をした美青年である彼は、白い礼服に身を包みまっすぐにスフィカを見つめていた。
いつも柔らかな物腰で声を荒らげることがない彼の表情は、とても険しい。
「君は僕の婚約者であることを笠に着て、このベーテリンを随分と虐めていたというではないか。それ以外にも君が数々の悪行に手を染めていたとの報告が上がってる」
「そんな! わたくしは何もしておりません!!」
悲鳴じみた叫びを上げてスフィカがルカーノに近寄ろうとするが、ルカーノは煩わしそうに腕を振りスフィカが近寄ることを拒んだ。
拒否された悲しみに、ますますスフィカは顔を歪る。
「数々の証拠がある。こうなった以上、君との婚約を継続するのは不可能だ」
「でも、でも……」
「くどい」
ぴしゃりと壁を作るように言い切られ、スフィカの瞳から光が消える。
切れ長の美しい目元からほろりと涙が溢れた。
「スフィカ様!」
今にも倒れそうなスフィカを支えるため、一人の少女が人混みから駆け出してくる。
それはスフィカの友人である伯爵令嬢プリムラ。
栗色の髪に灰色の瞳をした彼女は、際立った美しさはないものの上品な若草色のドレスに身を包んでいて愛らしい雰囲気を醸し出していた。
「大丈夫ですかスフィカ様!」
プリムラが触れた華奢な腕は冷たく、スフィカが限界であることが察せられる。
どうにかして休ませてあげないとと、助けを求めるためにプリムラは後ろを振り返った。
だが、いましがた王子から婚約破棄を告げられたスフィカを助けることにためらいがあるのか、たくさんの人間がいるにもかかわらず誰も目を合わせてはくれない。
「ブラッタ! お願い手を貸して!」
プリムラは親が決めた婚約者である男爵令息のブラッタに呼びかける。この場で手を貸してくれそうな男性といえばブラッタしか思い浮かばなかったからだ。
ブラッタはまさか名指しされるとは思っていなかったのか、ぎょっとした顔をしてプリムラを見ていた。すぐに来てくれると信じたのもつかの間、ブラッタはなんと舌打ちをしてその場を去ってしまったのだ。
(嘘でしょ!)
信じられないその光景にプリムラは目を大きく見開く。なんとか呼び戻そうとするも、すでにブラッタの姿は見えない。叫んだところで戻ってきてはくれないだろう。
「ええい! もう!」
誰も手を貸してくれない怒りが力を呼んだのか、プリムラはなんとかスフィカの体を支えパーティー会場から退場することに成功した。
休憩室にスフィカを運び長椅子に横たえたプリムラは深いため息を零した。
「スフィカ様……」
本当ならスフィカと同年代の女子であるプリムラに彼女を運ぶだけの力はなかった。
だが、今日のためにとスフィカがダイエットしていたおかげでその体が羽根のように軽かったのが幸いした。多少骨が折れたが、なんとかスフィカを床に倒すことなく運べた。
無理な減量は良くないと何度も伝えていたのに、スフィカは少しでもルカーノに美しい自分を見せたくて頑張っていたのだろう。力を込めれば折れそうな腕を見つめ、プリムラはきゅっと眉間に皺を寄せる。
「……やっぱり、原作改変は無理だったのかなぁ」
切なげな呟きは狭い休憩室に広がってゆっくりと消えていった。
プリムラには前世の記憶がある。と言っても、ここではないどこかの国で貴族などというしがらみのない平々凡々な女の子としていた生きていた、というような曖昧なものだ。
唯一はっきりと覚えていたのは、その世界でプレイしていたゲームの設定だけ。
「ミツバチ畑でつかまえろ!」という奇抜なタイトルの乙女ゲーム。略して「ミツつか」は養蜂業を営む貧乏貴族に生まれたヒロインが、偶然出会ったミツバチの妖精に助けられながら、幼い頃にミツバチ用の花園で出会った運命の相手を探しだし恋に落ちるまでの物語だ。
その物語の中でプリムラはいわゆる悪役令嬢、のモブ取り巻きだった。
悪役令嬢であるスフィカの後ろについて回って「そうよ! そうよ!」とはやし立てるモブ中のモブ。
それが自分だと気がついたときの衝撃は計り知れない。
気がついたのは同い年の子供同士だからという理由で親によってスフィカに挨拶をさせられた瞬間のことだ。
ゲームの中に何度も出てきた幼い頃の悪役令嬢スチルにスフィカはそっくりだった。それから芋づる式に自分の存在やゲームの設定を思い出し、プリムラはあまりのことに気を失った。
目を覚ましたとき、目の前にあったのは涙をぼろぼろ流すスフィカの顔。
「大丈夫? どこも痛くない?」
心配そうにそう尋ねてくれるスフィカのかわいらしさに、プリムラのハートは打ち抜かれた。
あのゲームの女の子キャラでは、ぶりっこ然としていたヒロインよりも、キリリとした美しいスフィカの方が好みのビジュアルだった。
スフィカが婚約者である王子と幸せになれるENDはないものかと調べたくらいだ。
しかしゲーム中でスフィカが幸せになれるルートは存在しない。
ヒロインの攻略目標が王子でなくても、スフィカは何故か最終的にヒロインのライバルとなり悪事を働き没落してしまう。王子ルートではなんと奴隷に落とされるという最悪のバッドエンドを迎えてしまうのだ。
「スフィカ様! 私たち、オトモダチになりましょう!」
勢いよく起き上がった幼いプリムラはスフィカの手を握ってそう宣言した。
スフィカが悪役になってしまうのは甘やかして育てられたことで、ワガママで自分勝手な性格になってしまうが故だ。ならばそれを改変してしまえばいい。
「え、ええ」
スフィカは突然のプリムラの発言に目を丸くしていたが、勢いに負けたように頷いてくれる。
周囲の大人たちも、幼い少女の微笑ましいやりとりを優しく見守ってくれた。
それから、プリムラは暇さえあればスフィカと一緒に過ごしその性格が歪まないように努力をした。
まだこの時点でのスフィカは決してゲーム中でやりたい放題だった悪役などではなく、普通のかわいらしい女の子だった。きっと間違えさえしなければ幸せになるはずだ。
スフィカがワガママを言ったり自分勝手な言動を見せれば、それとなく注意して、逆に淑女として素晴らしい行動をしたときは全力で褒め称える。
ゲームの設定資料で得ていた情報を駆使して、公爵家の人たちとも仲良くなったし、スフィカに悪影響を与える高慢ちきでプライドの高い家庭教師と巡り会わないようにと、できる限りの努力を尽くした。
途中で愛想を尽かされるかもしれないと危惧していたプリムラだったが、どういうことかスフィカはずっとプリムラを一番の友人としてずっと側に置いておいてくれた。
元々は外見が好きだという理由から始まった関係だった、長い月日を経てプリムラにとってもスフィカは一番の友人となっていた。
スフィカに幸せになって欲しい。プリムラは心から本当に願っていた。
結果、スフィカは多少プライドの高いお嬢様感はあるものの、基本的には誰にでも親切で優しく上品な令嬢へと成長したのだった。
そして婚約者である王子との関係も大変良好だった。
ゲーム中では冷めた関係だった二人だったが、少なくともプリムラには政略結婚という契約を超えた絆があるように見えていたのに。
「ごめんなさいスフィカ様。あなたを救えなかった」
自分の無力さに打ちのめされながらプリムラはぽろぽろと涙を流したのだった。
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