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疎まれた令嬢の死と、残された人々の破滅について
疎まれた令嬢の死と、残された人々の破滅について-2
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リュース伯爵 一
「ロロナが死んだだと? どういうことだ!」
別邸で訓練中だったリュース伯爵は持っていた大剣を取り落とし、大きく目を見開いた。
「私の可愛い娘が死んだなどと世迷事を! 切り捨てられたいのか!?」
「本当です! 偽りではありません! このように死亡証明書が……」
ロロナの死を告げに来た使者は真っ青な顔で、一枚の書類を伯爵に差し出した。
その書類には、ロロナが乗っていた馬車の事故で死亡したという事務的な文面が記されている。
「ご遺体はあまりに状態がひどく、教会で処置をして安置しております。ですから、葬儀の手配を……」
「そんな馬鹿な話があるか!!」
伯爵の恫喝に、使者は短い悲鳴を上げて目を剥くとその場で気を失ってしまった。
老いたとはいえ、戦場の鬼と呼ばれたリュース伯爵の迫力に耐えられなかったのだ。
「ロロナ……ロロナ……あああ!!」
伯爵は倒れた使者には目もくれず、書類を握りしめながら大粒の涙をこぼした。
鍛えあげられた巨躯に日に焼けた顔立ち。短く刈りあげた銀髪には白いものが交じっているが、雄々しいと表現するのがふさわしい壮齢の男が、声を上げて泣きじゃくっている。
伯爵は幼い頃から、頭を使って考えることが苦手だった。
いくら勉強しても身につかず、貴族らしい立ち居振る舞いを説明されてもピンとこない。
仕方がないから、唯一の特技ともいえる剣を握って身体を動かすことに己のすべてをつぎこむことに決めた。
そのおかげでいつの間にか国随一の強さを誇るようになり、最前線で指揮を執る一軍の将にまで登りつめた。
強い男こそが有能という戦乱の時代、伯爵はめきめきと出世していく。
親同士が決めた縁談で得た妻は、印象的な菫色の瞳以外は平凡な女であったが、寡黙で従順なところが気に入っていた。
そして、ロロナが生まれた。
自分と同じ銀の髪と妻と同じ菫色の瞳をしていなければ、血がつながっているとは信じられないほど美しく愛らしいロロナに、伯爵は夢中になった。
戦えば褒められ、帰宅すれば従順な妻と愛らしい娘がいる暮らしは、伯爵にとってこの世の春だったのだろう。
だが、伯爵が戦場に出ている間に悲劇が起きる。戦で居場所を失い、賊と化した集団が伯爵家に押し入り家財を盗み出した挙句、伯爵夫人の命を奪ったのだ。赤ん坊だったロロナの命が助かったのは不幸中の幸いだった。
伯爵はよき妻で母だった伴侶を亡くし、落胆した。怒りに任せて犯人と思しき賊の一団を壊滅に追いこんでもなお、収まらぬ悲しみと絶望に沈み、心と身体を荒らした。
そんな伯爵を周囲は不憫だと憐れみ、とても優しくしてくれたのだ。
「俺が、かわいそう?」
人々からかけられた言葉に、伯爵は生まれて初めて人に寄り添ってもらい、愛されたような気分になった。
周囲が必死に自分を励まし、慰め、支えようとしてくれるのが、たまらなく嬉しかったのだ。
妻を亡くした憐れな男として、思い切り不幸に酔うことができた。
多少の暴言や危うい行いも、まだ気持ちが落ち着かないのだから仕方がないと許された。誰もが献身的に伯爵を甘やかし、大切にしてくれた。
そして伯爵は一人の女性と出会う。貴族ではないが、伯爵が出会ったどんな貴婦人よりも美しく、上品で優しい女だった。伯爵は迷わずその女を娶った。ロロナに新しい母が必要だという建前とともに。
だが、その女は結婚した途端、煩わしい存在になり果てた。金を使うことばかり考え、伯爵にあれこれと口うるさい。しかも産んだのはまた娘。息子を欲していた伯爵はその娘をロロナほど可愛いとは思えなかったこともあり、逃げるように軍事に没頭した。
部下を厳しく鍛えあげることが楽しくて仕方がなかった。息子のように可愛がった部下たちを戦場に投入し、彼らが死んだと聞けば何をおいても真っ先に駆けつけ、その死を悼んだ。情に厚い将として、伯爵の地位と名声は揺るぎないものになっていく。
気がついた時には戦は終わり、たくさんの褒賞に加え、ロロナが王太子と婚約することまで決まっていた。
そこが伯爵の人生の頂点だった。
だが、平和な時代に粗暴な男は浮くものだ。
最初は温かく伯爵を出迎えてくれた社交界の面々は、いつまでたっても軍人気分の抜けない伯爵からだんだんと離れていった。
自らを飾り立てることに忙しい妻は伯爵に見向きもしないし、その妻によく似たもう一人の娘は、伯爵を怖がっているのか近寄ってくることもない。
唯一の癒しはロロナだが、王太子妃教育のせいでなかなかともに過ごす時間はなかった。
だから別邸を購入し、自分と同じく居場所をなくした兵士あがりを集め、訓練の真似事をして心を慰めた。
様々な武器を買い集め、別邸を砦のように作り変え、自分の王国を手にいれた幼子のように没頭した。
だが、心は満たされない。
戦があればよかったのに、と思うがそれを口にしてはならないことだけは足りない頭でも理解していた。
伯爵が思い出すのは、最初の妻が死んだ時のことばかり。
心にぽっかりと空いた喪失感を、周囲が必死に埋めてくれたあの甘美なる日々。
いっそいまの妻が死ねば満たされるかと伯爵は考えたが、想像してみてもどうにもうまくいかない。もとより交流らしい交流もないのだ。妻が死んだところで、悲しめるとも思えなかったし、周りが憐れんでくれるかどうかもわからない。
だが、ロロナなら?
美しく聡明で非の打ちどころのない娘。社交界で姫と呼ばれ、未来の王太子妃として期待されているロロナを失ったとなれば。
きっと周囲はまた伯爵を憐れみ、子どものように甘やかしてくれるだろう。
「ロロナ! ロロナ!」
伯爵は声を上げて泣いた。それを周りが見ていると知っていたから。
商人ゼリオ 一
伯爵令嬢ロロナの死を告げるニュースは、貴族のみならず平民の間でも大きな話題になった。街で配られた新聞には、昨夜の婚約破棄騒動と事故を関連づけたセンセーショナルな記事が躍っている。
王都でも有数の商会であるミイシ商会の商会長ゼリオは、その記事を見つめて大きく目を見開いた。
「そんな……ばかな……!」
新聞を握りしめ、わなわなと腕を震わせる。
額に滲んだ脂汗がぼたりと落ちて机に染みを作ったが、拭うこともしない。おそらくいま、どんな儲け話が飛びこんできたとしてもゼリオは動くことができなかっただろう。
ゼリオが商会長を務めるミイシ商会は、ほんの数年前までは商会を名乗るどころか表通りに店すら持てないささやかな商いをしていた。旅商人だった父親が、結婚を機に王都に腰を据えてはじめた商売だ。父から仕事を引き継ぐかたちで商人の肩書きを得たゼリオだが、彼は商人らしい狡猾さも度胸も持ち合わせていない平凡な男だった。
目利きの才能だけはあったらしく、いい品を見つけることはできたが、人の好さのせいで商機を逃しては、儲けの種を奪われる日々。
だが、いまのゼリオは王都において絶大な発言権を持つ商人にまで成長していた。
「ふはは……これでこの商会はとうとう私だけのものになった!」
新聞を投げ捨てたゼリオは天井を見あげ、壊れたおもちゃのように高らかに笑い出した。
数年前のある日、突然訪ねてきた美しすぎる少女がゼリオの運命を変えた。それがロロナだ。
あまりの美しさに、ゼリオはとうとう天使が自分を迎えに来たのかと勘違いしたほどだ。腰まで伸びた銀色の髪に、紫水晶のように輝く菫色の瞳。精巧なビスクドールを思わせる姿に、呼吸をすることすら忘れたあの一瞬を、ゼリオは鮮明に覚えている。
ロロナはゼリオに手を差し伸べると、静かに「商売をしましょう」と言ったのだ。
ゼリオはなぜかその問いかけに頷いていた。それが正しいと直感したからだ。
それからの日々は、まるで魔法にかけられようにすべてが順調だった。
指示通りに取引をするだけで、笑いがこぼれるほどの利益が転がりこむようになった。
ほんの数か月でゼリオがそれまでに出した損失の穴が埋まり、気づけばあっという間に大金持ちの仲間入り。増やした資産を元手に商売の手を広げ、大通りの一等地に商館を建てることができた。
貴族との付き合いも増え、いつしかゼリオは王都の流通に欠かせないほどの大物と呼ばれるようになっていた。
「ロロナお嬢様、貴族相手の商売はあなたが関わるべきでは?」
商会が大きくなりはじめた頃、ゼリオはロロナにそう尋ねたことがあった。
平民であるゼリオよりも、伯爵家の令嬢であり未来の王太子妃であるロロナが関わるほうが、信用度は高くなる。より商売の質を高みに押しあげることができるのは間違いない。
平和になったニルナ王国では貴族が商売に関わることも増えた。女性であっても事業を手掛けるのは珍しくない時代がすぐそこまで来ていることをゼリオは感じていた。
出会った時、ロロナはまだあどけない少女だった。だから大人であるゼリオに商売を託したのだろうと考え、いずれはすべて彼女に返すことになるものとばかり思っていた。
もう自分は必要ないのではないだろうかという不安から出た言葉に、ロロナは予想に反して小さく首を振ったのだ。
ロロナがミイシ商会に関わっていることを知るのは、初期の頃から取引のあるほんのわずかな顧客だけ。
どんなにけしかけても、彼女は表舞台に立つことを拒み、商会と自分の関係を表沙汰にしようとしない。
周囲から「商会長」と呼ばれ、これまで自分を見下してきた人々から手のひらを返すようにすり寄られるようになったゼリオは、ある考えに取り憑かれるようになった。
もうロロナは必要ないのではないか、と。
ロロナにはミイシ商会の収益から三割を相談手当として渡している。それはロロナとゼリオが最初に交わした契約だ。最初は納得できた。むしろたった三割でいいのかと不安に思うほどだった。商会の成功はすべてロロナの手腕によるものだったから。
だが商会が大きくなったいまでは、ロロナの判断が必要な場面はずいぶん減っていた。部下も育ち、これまでの経験を生かしてゼリオの独断で大きな金を動かすことも容易になった。
それなのに、最初の契約に期限を設けなかったせいで、いまだに収益の三割をロロナに渡し続けなければならない。
それに加え、一定の金額以上をつぎこむ大きな商談にはロロナの許可が必要だという契約も交わしていた。忙しいロロナと相談できぬままに流れてしまった契約はいくつもある。
もはやいまのゼリオにとって、ロロナは邪魔な存在でしかなかった。
「そうだ……契約書!!」
我に返ったゼリオは急いで金庫を開けると、ロロナと交わした契約書を取り出す。
この契約書は絶対のものだ。教会にも複写があるため、ゼリオの一存で修正することはできない。ずいぶん古くなった契約書に書かれた文言を目で追っていたゼリオは、は、と喜色めいた吐息をこぼし口元をゆがめる。
「くくっ……! お嬢様、あなたはなんて……なんて素晴らしいお人だ」
契約書の末尾に書かれた一文が、ゼリオには輝いて見えた。
『契約者のどちらかが死亡した時点でこの契約は破棄される』
ゼリオは天を仰ぐ。この先、商会が得る収益はすべてゼリオ一人のものだと証明された。大きな契約にロロナの意思確認は必要ない。
もう意味をなさなくなった契約書を破り捨て、ゼリオはまるで踊り子のようにステップを踏む。
それは己の新しい門出を祝うかのように楽しげなものだった。
管財人シェザム 二
「そんなに急いでどこへ行こうというのですか」
馬車に乗りこもうとしていたシェザムを、甲高い声が引きとめた。
それが誰の声なのか、考えるまでもない。シェザムはため息を吐き出しそうになるのを必死にこらえながら、ステップにかけていた足を下ろして声がしたほうへ向き直る。
「これは奥様……今日もお美しく……」
「余計な口は利かなくてもいい。私の質問に答えなさい!」
耳障りな声に耳を塞ぎたくなるが、曲がりなりにも伯爵夫人に対してそんな態度を取るわけにはいかない。
シェザムは鞄の持ち手を強く握りしめると、なるべく憐れっぽく見える表情を作りあげて伯爵夫人であるベルベラッサに視線を向けた。
飴色の髪を結いあげ派手な衣装と装飾品に身を包んだベルベラッサは、花盛りを過ぎてなお威圧的な美しさを持っていた。
その首もとで悪趣味な輝きを放っているイエローダイヤモンドのペンダントに気がついたシェザムは、表情を変えないようにするのがやっとだった。
(そのペンダントの購入資金を捻出するために馬を何頭手放したかなど、この女は知りもしないのだろうな!)
ある日突然、聞いたこともない商人から送りつけられてきた請求書の金額にシェザムは文字通り卒倒した。
それは、伯爵が飼育している軍馬数十頭にも値する額だった。
数年前ならば良質な軍馬数頭で済んだかもしれないが、平和な時代では気性の荒い軍馬の価値は下がる一方。伯爵に気づかれないように馬の買い手を探したシェザムの苦労など、ベルベラッサはまったく知らないだろう。
しかもイエローダイヤモンドは売り買いが禁止されている禁制品。
そんなものを堂々と身につけているベルベラッサの姿は、いまのシェザムにとっては唾棄したいほどに忌々しいものでしかない。
「……伯爵様のところです。その、ロロナお嬢様の件で」
「ああ。そういえば死んだのでしたね、あの子」
ベルベラッサは片眉を上げ、不満げに鼻を鳴らす。
「婚約破棄を告げられたというだけでも外聞が悪いのに、事故死だなんて。仮にも王太子の婚約者だったのだから、死に様くらいは美しくあってほしかったわ。ルミナにだって悪影響よ」
「……っ!」
ベルベラッサの言葉には、仮にも義理の娘であったロロナの死を悼む色は欠片もなかった。それどころか、その死に様にさえ文句をつけるとは。
シェザムは怒りを表情に出さぬよう、必死に奥歯を噛み締めた。
ここで感情を露わにしてベルベラッサを怒らせてしまえば、足止めどころでは済まない。一刻も早く伯爵と会って話をしなければならない理由がシェザムにはあった。
「まあいいわ。結果としてあの子が死んでくれたおかげで、このリュース伯爵家はルミナのものになるわけですし、感謝しなくては。そうでしょうシェザム?」
「……ええ」
「旦那様に会うのもその手続きのためかしら? ロロナ名義の財産もルミナのものになるのよね?」
「そうです。お嬢様……ロロナお嬢様の名義になっている書類を書き換えるために伯爵様の同意が必要なので、確認をしていただきたくて」
「なるほどね。ならば急ぎなさい! 何をぼさっとしているの!」
自分で呼びとめておきながらなんと身勝手な! と叫びそうになったが、シェザムはわざとらしく何度も頭を下げ、急いで馬車に乗りこむ。
これ以上ベルベラッサと同じ空気を共有することに耐えられなかったからだ。
御者が扉を閉めると同時に、深く長い息を吐き出し、頭を抱える。
動き出した馬車の振動がなければ、その場で気を失っていたかもしれない。
「……これから先、僕はどうすればいいんだ」
父の跡を継ぎ、いまのロロナと同じ十八歳でリュース家の管財人となったシェザムを待っていたのは、破綻寸前まで追いこまれた財政状況だった。
領地経営や財産管理に無頓着な上、いまは無意味な軍事遊びにばかり金をかける当主。
どんな贅沢をしても許されると思っている伯爵夫人。
シェザムは彼らから押しつけられる請求書を処理するため、少ない財産をやりくりするだけで精一杯だった。ほんのわずかな油断で伯爵家は没落する。そんな綱渡りの日々は、シェザムの心から感情を奪い取り、生きる気力すら消し去ろうとしていた。
シェザムが二十歳になったその日、とうとう使用人たちに払うべき給金すら底をついた。ことが露見すれば皆逃げ出し、伯爵家は大変な騒ぎになる。そうなれば管財人であるシェザムは責任を問われるだろう。命が助かったとしても、まっとうな人生は二度と歩めない。
絶望に打ちのめされたシェザムは、普段は立ち入りを禁止されている庭園のベンチに腰かけ、空を見つめていた。自分の心とは真逆に晴れ渡る青空が憎らしくて、このまま死んでしまおうかとすら思った。
「誰かいるの?」
それが自分に向けられた言葉だと、シェザムは最初理解できなかった。
虚ろな気持ちで顔を上げると、すぐそばに誰かが立っているのがわかる。その人の着ている服がお仕着せではなく品のいいドレスだと気がつき、シェザムは青ざめた。使用人の分際でベンチに腰かけていることを見咎められると。
「シェザムではないですか。どこか具合でも悪いの?」
ベンチのすぐそばに立っていたのは、ロロナだった。
その菫色の美しい瞳がまっすぐにシェザムを見つめ、わずかに揺れているのがわかる。
まだたった十二歳だというのに凛とした気品あふれる立ち姿に、絶望を忘れシェザムは見惚れてしまった。
本来ならばすぐに立ちあがって頭を下げなければならないのに、シェザムはそれができなかった。
「ロロナ、お嬢様?」
シェザムにとってロロナは雲の上の存在だった。美しく聡明な令嬢にして、未来の王太子妃。社交や勉強に忙しいこともあり、何度か遠目に姿を見たことしかない存在だった。
だが、シェザムは知っていた。ロロナはこのリュース家の唯一とも言える光だと。
無駄遣いどころかめったにものを欲しがらず、ドレスを仕立てるのもシーズンに一着程度。
伯爵夫人やもう一人の令嬢のように、使用人たちを無暗に𠮟りつけることもない。
そんなロロナが名前を知ってくれていた上に、自分を案じてくれたのだ。
「お嬢様……!」
シェザムは瞳から涙をあふれさせ、伯爵家の窮状をロロナに訴えていた。
もう限界だと。このままでは屋敷を手放しても何も残らないかもしれないと。
みっともなく泣きじゃくりながらシェザムがすべてを伝え終えると、ロロナは「ごめんなさい」と言って小さな手でシェザムの背中をさすってくれた。その言葉とぬくもりは、疲れ切ったシェザムをもう一度だけ頑張ってみようと思わせるほどに癒してくれた。
そしてその翌日、破産を告げる覚悟で目を覚ましたシェザムのもとに、自分の装飾品を売り払って得た金を抱えたロロナがやってきた。これを使って使用人たちに給金を払うようにと告げた少女の姿を、きっとシェザムは死ぬ間際にさえ思い出すだろうと確信している。
そのうちにロロナは平民の商人とともに商売をはじめ、毎月一定額の金銭を伯爵家に入れてくれるようになった。金が足りなくなれば工面する術を一緒に考え、やむなく使用人を減らさなければならない時には彼らが路頭に迷わぬように新しい勤め先を必ず見つけ出してくれた。
借金をする時も、ロロナが商売を通じて知った相手から破格の条件で契約ができるように取り計らってくれていたのだ。
それはすべて、ロロナという信用に足る存在が担保になった取引だった。
この六年間。ロロナがいたからこそリュース伯爵家もシェザムも生き残ることができた。
だがロロナが死んだ以上、この先新しい借入先を見つけることは不可能だ。
有能な商人であり未来の王太子妃ロロナがいないリュース伯爵家に、誰が協力するだろうか。
「ロロナお嬢様……」
絞り出すような声でロロナの名前を口にしたシェザムは、自分の視界がゆがんでいることに気がついた。
勝手にあふれ出す涙で前が見えなくなってくる。
それはロロナの死が招く、伯爵家の未来に恐怖したからではない。
「お嬢様……どうして死んでしまったのですか……」
シェザムはようやく、自分が悲しみに打ちのめされていることに気がついた。
息をするのがやっとなほどの深い苦しみに襲われていることを、身体がようやく理解したのかもしれない。
「あなたがいなくなったら、僕はどうすればいいか、もうわかりません」
笑うことも怒ることもしないロロナ。でも本当は誰よりも優しく、情け深い女性だということをシェザムは知っていた。
いつも礼儀正しく親切で、誰が相手でも態度を変えることがない。
彼女を大切にしない家族や婚約者の態度にも、ただ悲しげな色を瞳に滲ませるだけ。
もっと感謝を伝えればよかった。どれほどロロナに救われていたかを言葉にすればよかった。
彼女にばかり重荷を背負わせていたことに対する後悔で胸がつぶれそうで、自分の無力さが情けなかった。
シェザムは両手で顔を覆い、声を上げて泣いた。
地面を削る車輪の音がその声をかき消しても、シェザムの悲しみが消えることは当然なかった。
王太子ベルビュート 二
「ベルビュートさま! お姉さまが!!」
目を潤ませたルミナがベルビュートを訪ねてきたのは、もう日暮れも近い時間。
厚かましくも王族の居住区画まで侵入してきたルミナに、護衛の兵士や執事たちは渋い顔をしている。
ロロナが死んだという衝撃的な事件の直後でなければ、許されるはずもない。
「ルミナ……俺も知らせを聞いて驚いていたところだ。一体何があった?」
「私にも詳しいことはわからないのです。式典の会場を出た後、お姉さまはどこかへ行ったらしくて、昨日はお帰りになりませんでしたから」
「あの後ロロナは帰宅しなかったのか? そのような報告は聞いていないぞ」
ルミナの言葉に、ベルビュートは眉をひそめる。
貴族令嬢が理由もなく帰宅しないなどありえない話だ。それに娘が帰ってこなければ、事故や事件に巻きこまれた可能性を考えて、貴族院に捜索願を出すのが普通。
だが、ルミナの口ぶりから捜索願を出してはいないようで、ベルビュートにも報告はなかった。
「ええ……ほら、あんな騒動の後だったのでどこかで気を紛らわせているのかと思って。それにお父さまも不在だったものですから」
「ああ……」
リュース伯爵家の現状を知っているベルビュートは、疑問に思いつつも納得するしかなかった。
「そうか……ロロナがどこに行っていたのかはわかっているのか?」
「いいえ。でも、式典を後にしたお姉さまの馬車が逃げるように郊外へ走っていったという目撃情報がありました。きっと婚約破棄があまりにショックで、適当に馬車を走らせたのかも」
本当にそうなのだろうかという不安がよぎるが、確かめる術はない。
「ロロナが死んだだと? どういうことだ!」
別邸で訓練中だったリュース伯爵は持っていた大剣を取り落とし、大きく目を見開いた。
「私の可愛い娘が死んだなどと世迷事を! 切り捨てられたいのか!?」
「本当です! 偽りではありません! このように死亡証明書が……」
ロロナの死を告げに来た使者は真っ青な顔で、一枚の書類を伯爵に差し出した。
その書類には、ロロナが乗っていた馬車の事故で死亡したという事務的な文面が記されている。
「ご遺体はあまりに状態がひどく、教会で処置をして安置しております。ですから、葬儀の手配を……」
「そんな馬鹿な話があるか!!」
伯爵の恫喝に、使者は短い悲鳴を上げて目を剥くとその場で気を失ってしまった。
老いたとはいえ、戦場の鬼と呼ばれたリュース伯爵の迫力に耐えられなかったのだ。
「ロロナ……ロロナ……あああ!!」
伯爵は倒れた使者には目もくれず、書類を握りしめながら大粒の涙をこぼした。
鍛えあげられた巨躯に日に焼けた顔立ち。短く刈りあげた銀髪には白いものが交じっているが、雄々しいと表現するのがふさわしい壮齢の男が、声を上げて泣きじゃくっている。
伯爵は幼い頃から、頭を使って考えることが苦手だった。
いくら勉強しても身につかず、貴族らしい立ち居振る舞いを説明されてもピンとこない。
仕方がないから、唯一の特技ともいえる剣を握って身体を動かすことに己のすべてをつぎこむことに決めた。
そのおかげでいつの間にか国随一の強さを誇るようになり、最前線で指揮を執る一軍の将にまで登りつめた。
強い男こそが有能という戦乱の時代、伯爵はめきめきと出世していく。
親同士が決めた縁談で得た妻は、印象的な菫色の瞳以外は平凡な女であったが、寡黙で従順なところが気に入っていた。
そして、ロロナが生まれた。
自分と同じ銀の髪と妻と同じ菫色の瞳をしていなければ、血がつながっているとは信じられないほど美しく愛らしいロロナに、伯爵は夢中になった。
戦えば褒められ、帰宅すれば従順な妻と愛らしい娘がいる暮らしは、伯爵にとってこの世の春だったのだろう。
だが、伯爵が戦場に出ている間に悲劇が起きる。戦で居場所を失い、賊と化した集団が伯爵家に押し入り家財を盗み出した挙句、伯爵夫人の命を奪ったのだ。赤ん坊だったロロナの命が助かったのは不幸中の幸いだった。
伯爵はよき妻で母だった伴侶を亡くし、落胆した。怒りに任せて犯人と思しき賊の一団を壊滅に追いこんでもなお、収まらぬ悲しみと絶望に沈み、心と身体を荒らした。
そんな伯爵を周囲は不憫だと憐れみ、とても優しくしてくれたのだ。
「俺が、かわいそう?」
人々からかけられた言葉に、伯爵は生まれて初めて人に寄り添ってもらい、愛されたような気分になった。
周囲が必死に自分を励まし、慰め、支えようとしてくれるのが、たまらなく嬉しかったのだ。
妻を亡くした憐れな男として、思い切り不幸に酔うことができた。
多少の暴言や危うい行いも、まだ気持ちが落ち着かないのだから仕方がないと許された。誰もが献身的に伯爵を甘やかし、大切にしてくれた。
そして伯爵は一人の女性と出会う。貴族ではないが、伯爵が出会ったどんな貴婦人よりも美しく、上品で優しい女だった。伯爵は迷わずその女を娶った。ロロナに新しい母が必要だという建前とともに。
だが、その女は結婚した途端、煩わしい存在になり果てた。金を使うことばかり考え、伯爵にあれこれと口うるさい。しかも産んだのはまた娘。息子を欲していた伯爵はその娘をロロナほど可愛いとは思えなかったこともあり、逃げるように軍事に没頭した。
部下を厳しく鍛えあげることが楽しくて仕方がなかった。息子のように可愛がった部下たちを戦場に投入し、彼らが死んだと聞けば何をおいても真っ先に駆けつけ、その死を悼んだ。情に厚い将として、伯爵の地位と名声は揺るぎないものになっていく。
気がついた時には戦は終わり、たくさんの褒賞に加え、ロロナが王太子と婚約することまで決まっていた。
そこが伯爵の人生の頂点だった。
だが、平和な時代に粗暴な男は浮くものだ。
最初は温かく伯爵を出迎えてくれた社交界の面々は、いつまでたっても軍人気分の抜けない伯爵からだんだんと離れていった。
自らを飾り立てることに忙しい妻は伯爵に見向きもしないし、その妻によく似たもう一人の娘は、伯爵を怖がっているのか近寄ってくることもない。
唯一の癒しはロロナだが、王太子妃教育のせいでなかなかともに過ごす時間はなかった。
だから別邸を購入し、自分と同じく居場所をなくした兵士あがりを集め、訓練の真似事をして心を慰めた。
様々な武器を買い集め、別邸を砦のように作り変え、自分の王国を手にいれた幼子のように没頭した。
だが、心は満たされない。
戦があればよかったのに、と思うがそれを口にしてはならないことだけは足りない頭でも理解していた。
伯爵が思い出すのは、最初の妻が死んだ時のことばかり。
心にぽっかりと空いた喪失感を、周囲が必死に埋めてくれたあの甘美なる日々。
いっそいまの妻が死ねば満たされるかと伯爵は考えたが、想像してみてもどうにもうまくいかない。もとより交流らしい交流もないのだ。妻が死んだところで、悲しめるとも思えなかったし、周りが憐れんでくれるかどうかもわからない。
だが、ロロナなら?
美しく聡明で非の打ちどころのない娘。社交界で姫と呼ばれ、未来の王太子妃として期待されているロロナを失ったとなれば。
きっと周囲はまた伯爵を憐れみ、子どものように甘やかしてくれるだろう。
「ロロナ! ロロナ!」
伯爵は声を上げて泣いた。それを周りが見ていると知っていたから。
商人ゼリオ 一
伯爵令嬢ロロナの死を告げるニュースは、貴族のみならず平民の間でも大きな話題になった。街で配られた新聞には、昨夜の婚約破棄騒動と事故を関連づけたセンセーショナルな記事が躍っている。
王都でも有数の商会であるミイシ商会の商会長ゼリオは、その記事を見つめて大きく目を見開いた。
「そんな……ばかな……!」
新聞を握りしめ、わなわなと腕を震わせる。
額に滲んだ脂汗がぼたりと落ちて机に染みを作ったが、拭うこともしない。おそらくいま、どんな儲け話が飛びこんできたとしてもゼリオは動くことができなかっただろう。
ゼリオが商会長を務めるミイシ商会は、ほんの数年前までは商会を名乗るどころか表通りに店すら持てないささやかな商いをしていた。旅商人だった父親が、結婚を機に王都に腰を据えてはじめた商売だ。父から仕事を引き継ぐかたちで商人の肩書きを得たゼリオだが、彼は商人らしい狡猾さも度胸も持ち合わせていない平凡な男だった。
目利きの才能だけはあったらしく、いい品を見つけることはできたが、人の好さのせいで商機を逃しては、儲けの種を奪われる日々。
だが、いまのゼリオは王都において絶大な発言権を持つ商人にまで成長していた。
「ふはは……これでこの商会はとうとう私だけのものになった!」
新聞を投げ捨てたゼリオは天井を見あげ、壊れたおもちゃのように高らかに笑い出した。
数年前のある日、突然訪ねてきた美しすぎる少女がゼリオの運命を変えた。それがロロナだ。
あまりの美しさに、ゼリオはとうとう天使が自分を迎えに来たのかと勘違いしたほどだ。腰まで伸びた銀色の髪に、紫水晶のように輝く菫色の瞳。精巧なビスクドールを思わせる姿に、呼吸をすることすら忘れたあの一瞬を、ゼリオは鮮明に覚えている。
ロロナはゼリオに手を差し伸べると、静かに「商売をしましょう」と言ったのだ。
ゼリオはなぜかその問いかけに頷いていた。それが正しいと直感したからだ。
それからの日々は、まるで魔法にかけられようにすべてが順調だった。
指示通りに取引をするだけで、笑いがこぼれるほどの利益が転がりこむようになった。
ほんの数か月でゼリオがそれまでに出した損失の穴が埋まり、気づけばあっという間に大金持ちの仲間入り。増やした資産を元手に商売の手を広げ、大通りの一等地に商館を建てることができた。
貴族との付き合いも増え、いつしかゼリオは王都の流通に欠かせないほどの大物と呼ばれるようになっていた。
「ロロナお嬢様、貴族相手の商売はあなたが関わるべきでは?」
商会が大きくなりはじめた頃、ゼリオはロロナにそう尋ねたことがあった。
平民であるゼリオよりも、伯爵家の令嬢であり未来の王太子妃であるロロナが関わるほうが、信用度は高くなる。より商売の質を高みに押しあげることができるのは間違いない。
平和になったニルナ王国では貴族が商売に関わることも増えた。女性であっても事業を手掛けるのは珍しくない時代がすぐそこまで来ていることをゼリオは感じていた。
出会った時、ロロナはまだあどけない少女だった。だから大人であるゼリオに商売を託したのだろうと考え、いずれはすべて彼女に返すことになるものとばかり思っていた。
もう自分は必要ないのではないだろうかという不安から出た言葉に、ロロナは予想に反して小さく首を振ったのだ。
ロロナがミイシ商会に関わっていることを知るのは、初期の頃から取引のあるほんのわずかな顧客だけ。
どんなにけしかけても、彼女は表舞台に立つことを拒み、商会と自分の関係を表沙汰にしようとしない。
周囲から「商会長」と呼ばれ、これまで自分を見下してきた人々から手のひらを返すようにすり寄られるようになったゼリオは、ある考えに取り憑かれるようになった。
もうロロナは必要ないのではないか、と。
ロロナにはミイシ商会の収益から三割を相談手当として渡している。それはロロナとゼリオが最初に交わした契約だ。最初は納得できた。むしろたった三割でいいのかと不安に思うほどだった。商会の成功はすべてロロナの手腕によるものだったから。
だが商会が大きくなったいまでは、ロロナの判断が必要な場面はずいぶん減っていた。部下も育ち、これまでの経験を生かしてゼリオの独断で大きな金を動かすことも容易になった。
それなのに、最初の契約に期限を設けなかったせいで、いまだに収益の三割をロロナに渡し続けなければならない。
それに加え、一定の金額以上をつぎこむ大きな商談にはロロナの許可が必要だという契約も交わしていた。忙しいロロナと相談できぬままに流れてしまった契約はいくつもある。
もはやいまのゼリオにとって、ロロナは邪魔な存在でしかなかった。
「そうだ……契約書!!」
我に返ったゼリオは急いで金庫を開けると、ロロナと交わした契約書を取り出す。
この契約書は絶対のものだ。教会にも複写があるため、ゼリオの一存で修正することはできない。ずいぶん古くなった契約書に書かれた文言を目で追っていたゼリオは、は、と喜色めいた吐息をこぼし口元をゆがめる。
「くくっ……! お嬢様、あなたはなんて……なんて素晴らしいお人だ」
契約書の末尾に書かれた一文が、ゼリオには輝いて見えた。
『契約者のどちらかが死亡した時点でこの契約は破棄される』
ゼリオは天を仰ぐ。この先、商会が得る収益はすべてゼリオ一人のものだと証明された。大きな契約にロロナの意思確認は必要ない。
もう意味をなさなくなった契約書を破り捨て、ゼリオはまるで踊り子のようにステップを踏む。
それは己の新しい門出を祝うかのように楽しげなものだった。
管財人シェザム 二
「そんなに急いでどこへ行こうというのですか」
馬車に乗りこもうとしていたシェザムを、甲高い声が引きとめた。
それが誰の声なのか、考えるまでもない。シェザムはため息を吐き出しそうになるのを必死にこらえながら、ステップにかけていた足を下ろして声がしたほうへ向き直る。
「これは奥様……今日もお美しく……」
「余計な口は利かなくてもいい。私の質問に答えなさい!」
耳障りな声に耳を塞ぎたくなるが、曲がりなりにも伯爵夫人に対してそんな態度を取るわけにはいかない。
シェザムは鞄の持ち手を強く握りしめると、なるべく憐れっぽく見える表情を作りあげて伯爵夫人であるベルベラッサに視線を向けた。
飴色の髪を結いあげ派手な衣装と装飾品に身を包んだベルベラッサは、花盛りを過ぎてなお威圧的な美しさを持っていた。
その首もとで悪趣味な輝きを放っているイエローダイヤモンドのペンダントに気がついたシェザムは、表情を変えないようにするのがやっとだった。
(そのペンダントの購入資金を捻出するために馬を何頭手放したかなど、この女は知りもしないのだろうな!)
ある日突然、聞いたこともない商人から送りつけられてきた請求書の金額にシェザムは文字通り卒倒した。
それは、伯爵が飼育している軍馬数十頭にも値する額だった。
数年前ならば良質な軍馬数頭で済んだかもしれないが、平和な時代では気性の荒い軍馬の価値は下がる一方。伯爵に気づかれないように馬の買い手を探したシェザムの苦労など、ベルベラッサはまったく知らないだろう。
しかもイエローダイヤモンドは売り買いが禁止されている禁制品。
そんなものを堂々と身につけているベルベラッサの姿は、いまのシェザムにとっては唾棄したいほどに忌々しいものでしかない。
「……伯爵様のところです。その、ロロナお嬢様の件で」
「ああ。そういえば死んだのでしたね、あの子」
ベルベラッサは片眉を上げ、不満げに鼻を鳴らす。
「婚約破棄を告げられたというだけでも外聞が悪いのに、事故死だなんて。仮にも王太子の婚約者だったのだから、死に様くらいは美しくあってほしかったわ。ルミナにだって悪影響よ」
「……っ!」
ベルベラッサの言葉には、仮にも義理の娘であったロロナの死を悼む色は欠片もなかった。それどころか、その死に様にさえ文句をつけるとは。
シェザムは怒りを表情に出さぬよう、必死に奥歯を噛み締めた。
ここで感情を露わにしてベルベラッサを怒らせてしまえば、足止めどころでは済まない。一刻も早く伯爵と会って話をしなければならない理由がシェザムにはあった。
「まあいいわ。結果としてあの子が死んでくれたおかげで、このリュース伯爵家はルミナのものになるわけですし、感謝しなくては。そうでしょうシェザム?」
「……ええ」
「旦那様に会うのもその手続きのためかしら? ロロナ名義の財産もルミナのものになるのよね?」
「そうです。お嬢様……ロロナお嬢様の名義になっている書類を書き換えるために伯爵様の同意が必要なので、確認をしていただきたくて」
「なるほどね。ならば急ぎなさい! 何をぼさっとしているの!」
自分で呼びとめておきながらなんと身勝手な! と叫びそうになったが、シェザムはわざとらしく何度も頭を下げ、急いで馬車に乗りこむ。
これ以上ベルベラッサと同じ空気を共有することに耐えられなかったからだ。
御者が扉を閉めると同時に、深く長い息を吐き出し、頭を抱える。
動き出した馬車の振動がなければ、その場で気を失っていたかもしれない。
「……これから先、僕はどうすればいいんだ」
父の跡を継ぎ、いまのロロナと同じ十八歳でリュース家の管財人となったシェザムを待っていたのは、破綻寸前まで追いこまれた財政状況だった。
領地経営や財産管理に無頓着な上、いまは無意味な軍事遊びにばかり金をかける当主。
どんな贅沢をしても許されると思っている伯爵夫人。
シェザムは彼らから押しつけられる請求書を処理するため、少ない財産をやりくりするだけで精一杯だった。ほんのわずかな油断で伯爵家は没落する。そんな綱渡りの日々は、シェザムの心から感情を奪い取り、生きる気力すら消し去ろうとしていた。
シェザムが二十歳になったその日、とうとう使用人たちに払うべき給金すら底をついた。ことが露見すれば皆逃げ出し、伯爵家は大変な騒ぎになる。そうなれば管財人であるシェザムは責任を問われるだろう。命が助かったとしても、まっとうな人生は二度と歩めない。
絶望に打ちのめされたシェザムは、普段は立ち入りを禁止されている庭園のベンチに腰かけ、空を見つめていた。自分の心とは真逆に晴れ渡る青空が憎らしくて、このまま死んでしまおうかとすら思った。
「誰かいるの?」
それが自分に向けられた言葉だと、シェザムは最初理解できなかった。
虚ろな気持ちで顔を上げると、すぐそばに誰かが立っているのがわかる。その人の着ている服がお仕着せではなく品のいいドレスだと気がつき、シェザムは青ざめた。使用人の分際でベンチに腰かけていることを見咎められると。
「シェザムではないですか。どこか具合でも悪いの?」
ベンチのすぐそばに立っていたのは、ロロナだった。
その菫色の美しい瞳がまっすぐにシェザムを見つめ、わずかに揺れているのがわかる。
まだたった十二歳だというのに凛とした気品あふれる立ち姿に、絶望を忘れシェザムは見惚れてしまった。
本来ならばすぐに立ちあがって頭を下げなければならないのに、シェザムはそれができなかった。
「ロロナ、お嬢様?」
シェザムにとってロロナは雲の上の存在だった。美しく聡明な令嬢にして、未来の王太子妃。社交や勉強に忙しいこともあり、何度か遠目に姿を見たことしかない存在だった。
だが、シェザムは知っていた。ロロナはこのリュース家の唯一とも言える光だと。
無駄遣いどころかめったにものを欲しがらず、ドレスを仕立てるのもシーズンに一着程度。
伯爵夫人やもう一人の令嬢のように、使用人たちを無暗に𠮟りつけることもない。
そんなロロナが名前を知ってくれていた上に、自分を案じてくれたのだ。
「お嬢様……!」
シェザムは瞳から涙をあふれさせ、伯爵家の窮状をロロナに訴えていた。
もう限界だと。このままでは屋敷を手放しても何も残らないかもしれないと。
みっともなく泣きじゃくりながらシェザムがすべてを伝え終えると、ロロナは「ごめんなさい」と言って小さな手でシェザムの背中をさすってくれた。その言葉とぬくもりは、疲れ切ったシェザムをもう一度だけ頑張ってみようと思わせるほどに癒してくれた。
そしてその翌日、破産を告げる覚悟で目を覚ましたシェザムのもとに、自分の装飾品を売り払って得た金を抱えたロロナがやってきた。これを使って使用人たちに給金を払うようにと告げた少女の姿を、きっとシェザムは死ぬ間際にさえ思い出すだろうと確信している。
そのうちにロロナは平民の商人とともに商売をはじめ、毎月一定額の金銭を伯爵家に入れてくれるようになった。金が足りなくなれば工面する術を一緒に考え、やむなく使用人を減らさなければならない時には彼らが路頭に迷わぬように新しい勤め先を必ず見つけ出してくれた。
借金をする時も、ロロナが商売を通じて知った相手から破格の条件で契約ができるように取り計らってくれていたのだ。
それはすべて、ロロナという信用に足る存在が担保になった取引だった。
この六年間。ロロナがいたからこそリュース伯爵家もシェザムも生き残ることができた。
だがロロナが死んだ以上、この先新しい借入先を見つけることは不可能だ。
有能な商人であり未来の王太子妃ロロナがいないリュース伯爵家に、誰が協力するだろうか。
「ロロナお嬢様……」
絞り出すような声でロロナの名前を口にしたシェザムは、自分の視界がゆがんでいることに気がついた。
勝手にあふれ出す涙で前が見えなくなってくる。
それはロロナの死が招く、伯爵家の未来に恐怖したからではない。
「お嬢様……どうして死んでしまったのですか……」
シェザムはようやく、自分が悲しみに打ちのめされていることに気がついた。
息をするのがやっとなほどの深い苦しみに襲われていることを、身体がようやく理解したのかもしれない。
「あなたがいなくなったら、僕はどうすればいいか、もうわかりません」
笑うことも怒ることもしないロロナ。でも本当は誰よりも優しく、情け深い女性だということをシェザムは知っていた。
いつも礼儀正しく親切で、誰が相手でも態度を変えることがない。
彼女を大切にしない家族や婚約者の態度にも、ただ悲しげな色を瞳に滲ませるだけ。
もっと感謝を伝えればよかった。どれほどロロナに救われていたかを言葉にすればよかった。
彼女にばかり重荷を背負わせていたことに対する後悔で胸がつぶれそうで、自分の無力さが情けなかった。
シェザムは両手で顔を覆い、声を上げて泣いた。
地面を削る車輪の音がその声をかき消しても、シェザムの悲しみが消えることは当然なかった。
王太子ベルビュート 二
「ベルビュートさま! お姉さまが!!」
目を潤ませたルミナがベルビュートを訪ねてきたのは、もう日暮れも近い時間。
厚かましくも王族の居住区画まで侵入してきたルミナに、護衛の兵士や執事たちは渋い顔をしている。
ロロナが死んだという衝撃的な事件の直後でなければ、許されるはずもない。
「ルミナ……俺も知らせを聞いて驚いていたところだ。一体何があった?」
「私にも詳しいことはわからないのです。式典の会場を出た後、お姉さまはどこかへ行ったらしくて、昨日はお帰りになりませんでしたから」
「あの後ロロナは帰宅しなかったのか? そのような報告は聞いていないぞ」
ルミナの言葉に、ベルビュートは眉をひそめる。
貴族令嬢が理由もなく帰宅しないなどありえない話だ。それに娘が帰ってこなければ、事故や事件に巻きこまれた可能性を考えて、貴族院に捜索願を出すのが普通。
だが、ルミナの口ぶりから捜索願を出してはいないようで、ベルビュートにも報告はなかった。
「ええ……ほら、あんな騒動の後だったのでどこかで気を紛らわせているのかと思って。それにお父さまも不在だったものですから」
「ああ……」
リュース伯爵家の現状を知っているベルビュートは、疑問に思いつつも納得するしかなかった。
「そうか……ロロナがどこに行っていたのかはわかっているのか?」
「いいえ。でも、式典を後にしたお姉さまの馬車が逃げるように郊外へ走っていったという目撃情報がありました。きっと婚約破棄があまりにショックで、適当に馬車を走らせたのかも」
本当にそうなのだろうかという不安がよぎるが、確かめる術はない。
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