私が死んで満足ですか?

マチバリ

文字の大きさ
上 下
2 / 40
疎まれた令嬢の死と、残された人々の破滅について

疎まれた令嬢の死と、残された人々の破滅について-1

しおりを挟む



   序章 



 大陸の北に位置する、ニルナ王国。
 山脈にある水源からもたらされる河川の恵みと、豊富な資源により繁栄する国だ。
 そのため他国から領地を狙われることも多く、幾度となく戦火にさらされてきた。
 強大な軍事国家である隣国、ステラ帝国と同盟を結んだことや、十数年前の戦で勝利を収めたことにより、ようやく安定した国力を手に入れ、平和な時代を享受している。
 今夜、王城では貴族子女が通う王立学園の卒業記念式典が開かれている。
 豪華な装飾が施されたきらびやかな大広間には、楽団が演奏する優美な音楽が流れており、集まった卒業生とそのパートナーや親族たちは、一様に浮かれ顔で未来への希望を語り合っていた。

「皆に伝えたいことがある」

 そんななごやかな空気を裂くような低い声が響き渡り、客たちは会話を途切れさせた。奏者たちも手を止めたせいで、広間には突然の静寂が訪れる。
 声のぬしは、壇上に立つ王太子ベルビュート。
 王族の証である赤い髪と緑の瞳を備えたせいかんな顔立ち。青年から大人の男性へ成長をはじめたたくましいたい。まだ十九歳という若さではあるが、彼の表情はこれからこの国を支えていくという自信に満ちているように見えた。

「この時をもって、このベルビュート・ニルナはロロナ・リュースとの婚約を破棄する」

 会場が揺れるほどのざわめきが起こる。
 突然の発言に、誰もが混乱しているようだった。
 ある者は眉をひそめ、ある者たちは顔を見合わせ小声で何ごとかをささやきあっている。
 困惑ときょうがくが広がる中、一人の少女が前へ進み出た。

「殿下……いま、なんとおっしゃいましたか?」
「聞こえなかったのか、ロロナ。俺はお前との婚約を破棄すると言ったんだ」

 深紅のドレスを身にまとい、銀色の髪をきっちりと結いあげて細い首筋をさらす美しい少女の名は、ロロナ・リュース。
 十八歳とは思えないほど大人びた顔立ちのロロナはリュース伯爵家の令嬢であり、この卒業記念式典に在校生代表として出席していた。
 にもかかわらず、その横には誰もいない。
 本来ならば婚約者であるベルビュートにエスコートされているべきなのに、二人の間には誰の目にもわかるほどの距離が存在していた。
 ロロナは壇下からベルビュートを見つめ、すみれ色の瞳をわずかに細めたが、その表情からはなんの感情も読み取れない。

「本気でおっしゃっているのでしょうか」

 紅の塗られた唇からつむがれる声は硬質で、怒りも悲しみも感じていないようだった。

「ロロナ……本当にお前は可愛げのない女だ。俺の言葉を聞いても動揺するそぶりすら見せないとは、さすが『すいしょうひめ』だな」

 べつにじんだ言葉を発するベルビュートは、いまいましいとでも言いたげに口元をゆがめた。

「殿下からそのように呼ばれる日が来るとは思いませんでした」
「はっ……『心を持たぬ紫水晶』とはよく言ったものだ。笑うことも怒ることもない冷徹なお前には似合いの二つ名だろう?」

 あからさまなあおりを受けたにもかかわらず、ロロナの表情が乱れることはない。
 そのことが不満なのか、ベルビュートはけんしわを寄せる。

「ベルビュートさま!!」

 そんな二人の空気を壊すように、ベルビュートの背後からとつじょとして小柄な少女が現れた。

「お姉さまにそんなひどいことを言わないでさしあげて……あまりにかわいそうです」
「ルミナ……お前は本当に優しいな」

 ゆるくウエーブのかかった飴色の髪に、とろけた蜂蜜のような瞳をした愛らしく可憐な少女は、ロロナの異母妹であるルミナだ。
 先日ようやく十六歳となり社交界入りしたばかりのはずなのに、ルミナは自分がここにいるのが当然だというような顔をしてベルビュートの横に並んだ。そして瞳をうるませながら、その腕にすがりつく。
 二人の姿はまるでなかむつまじい恋人同士にしか見えず、周囲のざわめきが色濃くなる。
 ベルビュートはルミナを愛しげに見つめた後、鋭くも冷たい視線をロロナに向けた。

「……ロロナ。お前は母親が貴族ではないという理由だけで、妹であるルミナをいじめていたそうではないか。そのようなあくらつな女を、俺は妻に迎えるつもりはない」
「それが理由ですか?」
「いいや、それだけではない。お前はいやしくも伯爵家の一員でありながら、せいで平民にまざり商売をしているそうだな。俺の婚約者という肩書きを悪用し、私腹を肥やしているという噂まである。そんな品性の欠片かけらもないお前が、王妃になれるはずがないだろう」
「……さようでございますか」

 ベルビュートの言葉にロロナはわずかに目を伏せるが、表情に変化はないままだ。
 周囲から「やはり感情がないというのは本当なのか」「さすがは『水晶姫』だ」と心ないささやき声がれはじめても、動揺するそぶりすら見せない。

「かしこまりました」

 静かな声で返事をしたロロナは、指先でドレスのすそを軽くつまみ、深く頭を下げた。
 その美しく完璧なしぐさに、周囲はいま起こった騒動を忘れたかのように、ほぅとため息をこぼす。
 ベルビュートさえも、彼女のしぐさに呆けたように目を奪われていた。

「それでは、失礼いたします」

 ふわりとドレスのすそをなびかせ、ロロナはさっそうと壇上の二人に背を向けた。その動きはまるで舞台に立つ女優のようにりんとしたもので、誰もが言葉を忘れてその姿にれている。
 ロロナの靴が立てた優雅な足音に、ようやく我に返ったベルビュートが「おい!」と叫ばなければ、彼女はそのまま会場を出ていってしまっただろう。

「まだ何か?」

 呼びとめられたのが意外とばかりに振り返るロロナに、ベルビュートは慌てた様子で表情を引き締め、わざとらしくせきばらいをした。

「お前、何か申し開きはないのか?」
「ございません」
「なっ……なんだと!」

 うわずった声で叫ぶベルビュートの横では、ルミナが困惑の表情でロロナを見つめている。
 婚約破棄を告げた者と告げられた者という立場が、まるで逆転したような構図だった。

「お話は以上ですか? では、婚約解消の手続きはベルビュート様にお任せいたします」
「おい!!」

 これ以上は時間が惜しいとでも言うように、ロロナはためらいなく会場を出ていく。


 舞台の幕引きのような、とてもすがすがしい去り様だった。
 残されたベルビュートは「最後まで可愛げのない女だ!」と苦しまぎれに叫んで、無理やりにその場を収めることしかできなかった。
 とつじょとして起きた王太子と伯爵令嬢の婚約破棄騒動は、その夜のうちに式典の参加者の口から王都中に広まることになる。
 未来の王妃として社交界に名をせていたロロナが抱えるくらい噂に皆が熱狂し、早く誰かと語らいたいと夜明けを待ちわびた。
 その翌日、さらなる衝撃的な知らせが彼らにもたらされた。
 伯爵令嬢ロロナ・リュースが事故死した、と。



   第一章 終わりのはじまり


    王太子ベルビュート 一


「ロロナが死んだ、だと?」

 知らせを受けたベルビュートは目を見開いて固まった。
 ようやく自室に戻り、疲れ切った身体を休めようとしていた矢先のことだった。
 思わずよろめきながらも、椅子にしがみつくようにして腰を下ろす。

「なぜこのタイミングで……」

 ぐったりとうなだれながら頭を抱えたベルビュートはいらたしげに舌打ちし、前髪をぐしゃりと握りつぶした。

「どうせ死ぬのならば、もっと早く死んでくれていればよかったものを!」

 怒声とともに机をりあげると、その場にひかえる執事やメイドたちが身体をすくませる。
 ほんの数刻前、ベルビュートは国王と王妃に、昨夜の騒動について釈明をしたばかりだった。

「本当に最後までいまいましい女だ」

 疲れ切った様子で苦言をていする両親の顔を思い出し、ベルビュートは長いため息をこぼす。
 事前になんの相談もなくロロナに婚約破棄を告げたことを、国王も王妃もひどくうれいていた。
 王族ならばもっと手順を踏み、騒動にならぬよう行動を起こすべきだったとベルビュートを非難したのだ。
 幸いだったのは、婚約破棄そのものを撤回しろと言われなかったことだろう。

『王太子として自らの発言には責任を持て』

 国王の静かな言葉を思い出し、ベルビュートはふんと鼻を鳴らす。

『もちろんです。この婚約破棄に関わる責任やばいしょうはすべて自分でまかないます』

 もとよりそのつもりだったとベルビュートは国王に宣言したのだった。

(俺の行動は英断だとたたえられるべきだ。ロロナは王妃にふさわしい女ではなかった)

 ロロナが死んだことでその証明は難しくなったが、考えようによってはずいぶんと話が早くなった、と気を取り直す。
 婚約破棄と言ってしまえば簡単だが、その手続きは意外と手間がかかる。
 貴族の結婚は契約だ。正式な書面を作り、貴族院と教会の許可を得て締結される。
 もし破棄するとなれば、双方の同意を示す書類と違約金を用意しなければならない。
 だが、片方が死んだとなれば話は別だ。死別は契約違反ではない。
 ベルビュートは、ロロナの死のおかげで婚約破棄に伴う事務作業と高額な違約金を支払う義務から解放されたのだ。

「最高の遺産だよ、ロロナ」

 うっとりと微笑むベルビュートの顔に、王太子らしい気品は欠片かけらもなかった。
 ロロナの生家であるリュース伯爵家は歴史こそ古いが、特に大きな影響力があるわけではない平凡な伯爵家。なのになぜ、王太子ベルビュートがロロナと婚約することになったかといえば、ひとえに十数年前の戦が原因だった。
 ロロナの父であるリュース伯爵は、その戦で将として前線に立ち、大きな戦果を上げた。英雄リュース伯爵の活躍がなければ、ニルナ王国は負けていたかもしれない。その功績に対する褒美の一つとして、彼の娘ロロナを王妃として迎え入れるという約束がなされた。
 婚約はベルビュートが四歳、ロロナが三歳の時だ。
 だから物心ついた時、ベルビュートの横にはもうロロナがいた。
 王族として生まれ、同じ年頃の子どもと触れ合う機会がなかったベルビュートにとって、ロロナは唯一ともいえる交流相手だった。
 机を並べて学びながら、ともに成長し、デビュタントの日にはファーストダンスを踊った。
 十四年もの長い間、隣にはずっとロロナがいたのだ。

「…………」

 一瞬、ベルビュートの胸に苦いものがこみあげる。
 その感情がなんなのかわからず、ベルビュートは思い切り顔をしかめた。
 深い愛や恋心があったわけではないが、ともに過ごした日々で積み重ねた情のようなものは確かにあった。結婚してもそれなりの関係を築いていけると信じていた頃もある。
 だが、いつしかベルビュートはロロナのことをうとましく思うようになっていた。
 ロロナは優秀すぎたのだ。どんな勉学においてもベルビュートの一歩先を行く。追いついたと思っても次の瞬間には遥か高みに登っていく。それが歯がゆかった。自分を支え、隣を歩くはずの存在が、自分よりも優秀であるという事実は、ベルビュートのきょうをひどく傷つけた。
 愛らしい少女から美しい女性に成長する姿に、感動よりも先にを感じてしまったのも大きい。
 何があっても怒ることも声を上げて笑うこともないロロナ。感情があるのか不安になるほど表情を変えないことから、瞳の色になぞらえて『心を持たぬ紫水晶』とまで呼ばれるほどに無機質で神々しい美しさをたたえるロロナが、ベルビュートは恐ろしかったのだ。
 触れれば壊れてしまうのではないか、本当は腹の中で無能な自分をあざ笑っているのではないか。ベルビュートの心を不安がむしばむのに、そう時間はかからなかった。
 いまのベルビュートがロロナに対して抱く思いは、もはや憎しみと失望だけのはずだったのに。

「……まあいい。これで俺はルミナと婚約できる。あいつだってリュース伯爵家の娘だ、約束をにするわけではない」

 まるで自分に言い聞かせるように呟いて、ベルビュートは自分の中に湧きあがった感情にふたをしたのだった。


    異母妹ルミナ 一


「お姉さまが死んだ?」

 真っ青な顔をした執事長が持ってきた知らせに、ルミナは急いで両手で顔をおおった。
 その姿は、周囲からしてみれば姉の死をなげき悲しんでいるように見えただろう。
 だが、実際には笑い出したいのを必死にこらえているだけだ。
 手のひらに包まれた口元は、三日月のごときを描いている。

(なんてこと、あの邪魔なお姉さまがいなくなるなんて!! これですべて私のものだわ!)

 叫び出したいのを呑みこむと、身体がふるふると震えた。

「ルミナ様……ああ、なんとおいたわしい」

 執事長は彼女が泣いていると思ったのだろう。震えるルミナの肩にショールをかけて椅子に座らせる。

「ロロナお姉さまはどうして死んだの?」

 顔を両手でおおったままルミナが問えば、執事長はためらいながらもゆっくりと口を開いた。

「馬車が事故を起こしたのです。それはひどいありさまで……ロロナ様のお身体は、その……」
「どうなったというの?」
「お顔が……これ以上はお許しください……」
「そう……しばらく一人にしてちょうだい……おねがい……」

 か細い声でうったえると、執事長やメイドたちは静かにうなずき、部屋を出ていく。
 残されたルミナは、完全に人の気配がなくなったことを確認してからようやく顔を上げた。

「ふふふ! やった! やったわ! なんて幸運なの!」

 淑女としてのつつしみを忘れてソファにあおむけに横たわると、子どものようにはしゃいだ声を上げる。
 晴れ晴れとした表情には、姉の死をいたむ気配など欠片かけらもない。

「これでベルビュートさまとリュース家のすべてが私のものになるのね! 素敵!」

 嬉しくてたまらないといった様子で、ルミナはクッションを抱きしめた。
 ルミナにとって二つ年上の異母姉であるロロナは、目の上のたんこぶでしかなかった。
 いつも澄ました顔で、勉強や礼儀作法を完璧にこなす品行方正なロロナ。
 顔立ちは女神のように美しかったが、それだけだ。声を上げて笑うことも、足を踏み鳴らして怒ることもないロロナのことがルミナは大嫌いだった。

「あの嫌な女がいなくなってせいせいするわ」

 吐き捨てるように口にしながら、ルミナは愛らしいと称される顔を嬉しそうにゆがめた。
 二人はリュース伯爵家の娘ではあったが、母親が異なる。
 ロロナを生んだ前リュース伯爵夫人はしがない子爵家の令嬢で、すみれ色の瞳以外は平凡な顔立ちだった。飾られている肖像画を目にするたび、どうしてこんな女からロロナが生まれたのだとルミナは不思議に思ったくらいだ。
 対して、ルミナの母であり現リュース伯爵夫人であるベルベラッサは華やかな美女だ。ルミナと同じ飴色の髪に蜂蜜色の瞳。きゃしゃな身体と上品な立ち居振る舞いは完璧な貴婦人のそれで、ルミナはベルベラッサが鏡の前で美しく着飾る姿を見るのが何より好きだった。

「これでもう誰も私とお母さまを馬鹿になんてできないわ」

 そう呟くルミナの瞳は欲望にきらめいていた。
 ベルベラッサは平民の出だが、貴族の血を引いている。祖父がとある貴族のしょだったのだ。
 その美しい見た目は高貴な血統がもたらした恩恵だと祖父は喜び、彼女に最高の教育を施した。そして縁者を頼り、行儀見習いの名目で貴族の屋敷に出入りさせたという。
 努力の甲斐あって、幸運にもベルベラッサは妻を亡くしたばかりのリュース伯爵の目に留まり、ルミナを身ごもった。
 平民の生まれでありながら伯爵夫人にまで登り詰めたベルベラッサの物語はルミナの自慢だったが、周囲はそうではなかった。成りあがりの毒婦だと見下す者は少なくない。母は何を言われても平然としていたが、ルミナは悔しくてたまらなかった。
 父である伯爵はいつも忙しいらしく、ほとんど屋敷にいることがない。母が苦しんでいることすら知らないのかもしれない。
 せめて自分だけでも母のあしかせにならぬように、ルミナは必死に努力した。礼儀作法をはじめ、あらゆる勉強に必死に取り組んだ。
 だが、どうあがいてもロロナには敵わなかった。
 周囲はルミナの不出来さをあざけるどころか、相手がロロナなのだから仕方がないとなぐさめ甘やかした。その優しさは逆にルミナのプライドをひどく傷つけたのだった。

「ふ、ふふ……でももういいわ。だって私がリュース伯爵家をぐんだから」

 この国は男女問わず、第一子相続が原則。
 だがリュース家の第一子であるロロナは王太子ベルビュートの婚約者で、いずれは伯爵家を出て王家へとつぐ身だ。ルミナは自分がリュース家を相続するものだと信じていた。だから幼い頃はロロナがどんなに優秀でも許せたのに。

『ロロナお姉さまが次期当主ですって!?』

 ある日突然知らされた事実に、ルミナは激しく打ちのめされた。
 第一子が別の家門に婿むこ入りや嫁入りする場合、爵位を掛け持ちできるという法律があったのだ。
 それは第一子を体よく追い出し家門を乗っ取るという悪事が横行したことにより生まれた古いもので、ルミナは存在すら知らなかった。
 ロロナはベルビュートに嫁いだ後もリュース家の家門を背負い、いずれ生まれる子どもにリュース伯爵位をがせるつもりだと宣言したのだ。

「ルミナがいるのに!」

 その時のことを思い出したルミナは、怒りに任せてクッションを殴りつけた。
 跡継ぎになれないルミナは、ほんのわずかな財産を分与されてどこかの貴族にとつぐことになるのだろう。
 そんなの納得できなかった。どうしてロロナばかり優遇されるのだ。血統、見た目、才能。何もかもを持って生まれたくせに。王太子の婚約者という地位だけでは飽き足らず、伯爵家のすべてを手に入れようとするロロナが憎らしくて、うとましくてたまらなかった。

「残念だったわね、お姉さま。死んでくれて助かったわ」

 ロロナが死んだいま、リュース家の跡継ぎはルミナ一人。
 誰がなんと言おうと、全部ルミナのものだ。

「ベルビュートさまにお会いしなくっちゃ!」

 声を弾ませながら立ちあがる。
 たとえ喜ばしい死であっても、表向きはいたまなければならない。
 なるべくに服して見えるような大人しいドレスを選ぶため、ルミナは鼻歌交じりでクローゼットの扉を開けた。


    管財人シェザム 一


「ロロナお嬢様が亡くなっただと!?」

 真っ青になって叫んだのは、リュース家の管財人であるシェザム・ベルマン。
 まだ二十六歳という若さだというのに、その顔には拭いきれぬ疲れがにじみ、目の下には深く濃いクマが浮かんでいる。
 シェザムは祖父の代から伯爵家に仕える家系に生まれ、そうせいした父に代わり、若くしてリュース家の管財人となった。
 不在がちな伯爵に代わり、いまではリュース家の金回りを一手に管理している。
 伝令が息を切らせ届けてくれた電報を受け取ったシェザムは、蒼白な顔のまま執務室の椅子から一度は立ちあがるも、足を震わせずるずると床に座りこんでしまった。

「おしまいだ……何もかもがおしまいだ……」

 うつろな瞳のまま震える声でそう呟いたシェザムは、机にしがみつくようにしてなんとか立ちあがる。そして震える手で引き出しという引き出しを開けて、何枚もの書類を机の上に引っ張り出した。
 乱雑に散らばるその書類には、どれもロロナのサインがしてある。それらはすべて借用書だった。

「伯爵に……伯爵に知らせなければ!」

 悲痛な声で叫んだシェザムは書類をすべてかばんに突っこむと、転がるように執務室を飛び出す。
 リュース家は借金まみれの家だ。
 家のことに興味を示さず軍事に入れこむ伯爵は、訓練だ演習だといって別邸に入りびたり、めったに屋敷へ戻ってこない。戦時中はそれでよかったのだろう。功績を上げれば報奨金がもらえたし、ほかの貴族たちからの貢ぎ物が絶えることはなかったという。
 だが、皮肉にもリュース伯爵の戦果がこの国に平和をもたらしたことにより、リュース家の収入は領地からの税だけになってしまった。
 それでも問題はないはずだった。終戦の際に受け取った多額の報奨金があり、未来の王太子妃を出した家として社交界で揺るぎない地位を築いていたのだから。

「何も知らないんだ……あいつらは何も……」

 シェザムは早足で廊下を進みながら、にじむ汗と涙を乱暴に拭う。

「いまなら、まだ可能性があるかもしれない。伯爵がお嬢様の死で心を入れ替えてくだされば。そうすれば」

 そう口にしながらも、青年は逃れられない破滅への予感に全身を震わせていた。


しおりを挟む
感想 251

あなたにおすすめの小説

夫の色のドレスを着るのをやめた結果、夫が我慢をやめてしまいました

氷雨そら
恋愛
夫の色のドレスは私には似合わない。 ある夜会、夫と一緒にいたのは夫の愛人だという噂が流れている令嬢だった。彼女は夫の瞳の色のドレスを私とは違い完璧に着こなしていた。噂が事実なのだと確信した私は、もう夫の色のドレスは着ないことに決めた。 小説家になろう様にも掲載中です

婚約破棄された令嬢が記憶を消され、それを望んだ王子は後悔することになりました

kieiku
恋愛
「では、記憶消去の魔法を執行します」 王子に婚約破棄された公爵令嬢は、王子妃教育の知識を消し去るため、10歳以降の記憶を奪われることになった。そして記憶を失い、退行した令嬢の言葉が王子を後悔に突き落とす。

もう無理して私に笑いかけなくてもいいですよ?

冬馬亮
恋愛
公爵令嬢のエリーゼは、遅れて出席した夜会で、婚約者のオズワルドがエリーゼへの不満を口にするのを偶然耳にする。 オズワルドを愛していたエリーゼはひどくショックを受けるが、悩んだ末に婚約解消を決意する。 だが、喜んで受け入れると思っていたオズワルドが、なぜか婚約解消を拒否。関係の再構築を提案する。 その後、プレゼント攻撃や突撃訪問の日々が始まるが、オズワルドは別の令嬢をそばに置くようになり・・・ 「彼女は友人の妹で、なんとも思ってない。オレが好きなのはエリーゼだ」 「私みたいな女に無理して笑いかけるのも限界だって夜会で愚痴をこぼしてたじゃないですか。よかったですね、これでもう、無理して私に笑いかけなくてよくなりましたよ」

愛された側妃と、愛されなかった正妃

編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。 夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。 連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。 正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。 ※カクヨムさんにも掲載中 ※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります ※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。

【完結】皇太子の愛人が懐妊した事を、お妃様は結婚式の一週間後に知りました。皇太子様はお妃様を愛するつもりは無いようです。

五月ふう
恋愛
 リックストン国皇太子ポール・リックストンの部屋。 「マティア。僕は一生、君を愛するつもりはない。」  今日は結婚式前夜。婚約者のポールの声が部屋に響き渡る。 「そう……。」  マティアは小さく笑みを浮かべ、ゆっくりとソファーに身を預けた。    明日、ポールの花嫁になるはずの彼女の名前はマティア・ドントール。ドントール国第一王女。21歳。  リッカルド国とドントール国の和平のために、マティアはこの国に嫁いできた。ポールとの結婚は政略的なもの。彼らの意志は一切介入していない。 「どんなことがあっても、僕は君を王妃とは認めない。」  ポールはマティアを憎しみを込めた目でマティアを見つめる。美しい黒髪に青い瞳。ドントール国の宝石と評されるマティア。 「私が……ずっと貴方を好きだったと知っても、妻として認めてくれないの……?」 「ちっ……」  ポールは顔をしかめて舌打ちをした。   「……だからどうした。幼いころのくだらない感情に……今更意味はない。」  ポールは険しい顔でマティアを睨みつける。銀色の髪に赤い瞳のポール。マティアにとってポールは大切な初恋の相手。 だが、ポールにはマティアを愛することはできない理由があった。 二人の結婚式が行われた一週間後、マティアは衝撃の事実を知ることになる。 「サラが懐妊したですって‥‥‥!?」

夫が妹を第二夫人に迎えたので、英雄の妻の座を捨てます。

Nao*
恋愛
夫が英雄の称号を授かり、私は英雄の妻となった。 そして英雄は、何でも一つ願いを叶える事が出来る。 そんな夫が願ったのは、私の妹を第二夫人に迎えると言う信じられないものだった。 これまで夫の為に祈りを捧げて来たと言うのに、私は彼に手酷く裏切られたのだ──。 (1万字以上と少し長いので、短編集とは別にしてあります。)

私に姉など居ませんが?

山葵
恋愛
「ごめんよ、クリス。僕は君よりお姉さんの方が好きになってしまったんだ。だから婚約を解消して欲しい」 「婚約破棄という事で宜しいですか?では、構いませんよ」 「ありがとう」 私は婚約者スティーブと結婚破棄した。 書類にサインをし、慰謝料も請求した。 「ところでスティーブ様、私には姉はおりませんが、一体誰と婚約をするのですか?」

王が気づいたのはあれから十年後

基本二度寝
恋愛
王太子は妃の肩を抱き、反対の手には息子の手を握る。 妃はまだ小さい娘を抱えて、夫に寄り添っていた。 仲睦まじいその王族家族の姿は、国民にも評判がよかった。 側室を取ることもなく、子に恵まれた王家。 王太子は妃を優しく見つめ、妃も王太子を愛しく見つめ返す。 王太子は今日、父から王の座を譲り受けた。 新たな国王の誕生だった。

処理中です...
本作については削除予定があるため、新規のレンタルはできません。
番外編を閲覧することが出来ません。
過去1ヶ月以内にレジーナの小説・漫画を1話以上レンタルしている と、レジーナのすべての番外編を読むことができます。

このユーザをミュートしますか?

※ミュートすると該当ユーザの「小説・投稿漫画・感想・コメント」が非表示になります。ミュートしたことは相手にはわかりません。またいつでもミュート解除できます。
※一部ミュート対象外の箇所がございます。ミュートの対象範囲についての詳細はヘルプにてご確認ください。
※ミュートしてもお気に入りやしおりは解除されません。既にお気に入りやしおりを使用している場合はすべて解除してからミュートを行うようにしてください。