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第2章 深海の檻が軋む時

第23変 人魚の猛毒は全身に(後編)

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 シェロンをあの場に置き去りにし、シアンに上着を被せたまま彼の手を引いて歩いていく。一度出てしまったせいで際限がなくなってしまったのか、シアンの涙は後から後から止めどなくこぼれ落ち、彼の左手に収まりきらなかったそれがパラパラと足元に落ちていく音が聞こえる。

「ああ……うん、シアン? 足元に落として歩いてたら、その――ばれちゃうかもだから、私の上着に落としてもらえるかな?」

「あ、うん、ご、ごめん……今、止めるから」

「謝らなくて良いし、別に止めなくても良いよ」

 シアンの少し上擦った声を聞き、私は子供に言うように優しく話す。

「泣きたいだけ泣いて? シアンの全部、ドーンと受け止めるからさ」

 冗談めかした言い方だが、それが偽りのない本当の気持ちだということを伝えたくて、繋いでいた彼の手をちょっとだけ強く握る。

(うん、もう攻略対象だからって逃げたりしないからね……シアン)

 そんな私の気持ちを確かめるように、彼も躊躇いがちにではあるが、私の手を握り返してくれた。

「あり、がとう……」

 か細い彼の声を背中越しに聞き、私は少し温かい気持ちになった。

 まあ、このバレたら危険な状況下でこうして心が穏やかなのは、先程から誰とも遭遇していないことに関係がありそうだが……。

 うん――実は先程から人影が全くなく、シアンの研究棟が目の前に見える場所までスムーズに来れたのだ。

 どうも、シェロンとの服従契約諸々のせいで出来るだけ人通りがない外壁沿いを歩いてきていたのが良かったらしい。周囲にはお昼時ということもあり(先程私が生徒達を追っ払ったせいも多少はありそうだが……)、総勢1万以上の生徒と200以上の先生がここに通っているとは思えないほどに誰もいない。

 風が吹くたびに大樹の葉が揺れるザワザワという音と、遠くから聞こえる食堂や購買のざわめきがまたいい感じにこの温かくて心地いい時間を引き出してくれている。

 ちなみに、朝から数えて二つ目の講義――今日の私にとっては戦闘学特論――が終了してすぐの時間帯は北・中央・南にある食堂と購買の入口が一番混むので、今回はそこを回避するように、西にある戦闘場たいいくかんから南にある門の所までグルッと回ってきていた。

 本当はこのまま東にある研究棟の裏の大樹の合間を縫い、北にある寮の裏手から自室まで行こうとしていたのだが、緊急事態なので少しでも距離の近い研究棟――シアンの研究室がある棟へと急ぐことにしたというわけだ。

 元々研究棟は先生と引きこもりの生徒が多いため、昼食時に出くわす確率がかなり低いのもポイントだ。きっと寮に行くよりも誰かと遭遇する確率はグッと低くなるだろう。

 それに、引きこもりの生徒(他の生徒達にはヒッキーと呼ばれている)が外に出てくるのは主に夜だ。昼食時と言わなくとも、それを思うと彼らと研究室外で会えるのは夜しかない。シアン攻略時のイベントも、最初は夜しかないのはこのためのようだ。

 だから、シアンと夕方に遭遇できたあれは非常にレアなケースだった。研究棟には先生の部屋の前に設置されたレポート専用ボックスへと課題を提出するために来ていたのだが、あの時はシアンとの遭遇など微塵も考えてもいなかったので、本当に頭を抱えたくなったのが今ではもういい思い出だ。

(うん、それ、まだ昨日のことだけどね! 色々ありすぎてもう、遠い過去のことのようだよ……)

 あ、そうそう、研究棟のヒッキーは夜に外に出るって言ったけど、そんな夜中に外で何してるんだと思うかもしれないので、新世校しんせいこうの嬉しいところを一つご紹介しよう。

 実は、新世校の食堂や購買――驚くべきことに24時間営業なのだ。まあ、夜の時間帯は無人で魔力式のみでの稼働らしいが……それでも、非常に助かる仕様だということに変わりはない。むしろ、誰かと接しなくてすむため、ヒッキーにはありがたい仕様かも知れない……。

 ちなみに、食堂の方は作り置きしている料理に時間凍結の魔力式を施し、注文すると時間が解凍され、出来立ての料理が楽しめるというモノらしい。そんなわけで、非常に美味しい設備が揃っているのは間違いない。

 この時間凍結魔力式ってのは理事長が作ったらしいのだが、その魔力式の高さは群を抜いていると前に聞いたことがある。講義室がある棟内に施されている大規模な空間移動魔力式やトレーニングルームに施されている魔力式の数々は本当に面白く、生徒達は入学して早々にこれらの施設に舌を巻く。

 そして、これはこの学校の七不思議の一つだと誰かが噂していたのだが……この理事長先生とやらを見かけた生徒は誰もいない。この学校の設立者でありながら、どこにいるのかサッパリ分からないこの先生、実はもう亡くなっていて霊体になってこの学校内を彷徨さまよっているという、私にとっては非常に苦手な類の話が出回っているのが厄介だ。

(うん……私、ホラー苦手なんで本当に勘弁してほしい……)

 おっと、話がそれちゃったけど、だてにヒッキーと呼ばれていない生徒達……そんな彼らのヒッキー極地きょくちともなれば、自分で食堂や購買まで足を運ぶことすらしないらしい。

 え? じゃあ、どうすんねんって話ですが、実は使い魔にお使いをさせています。

 使い魔は私達が魔力で作り出す魔力の塊ってイメージだ。ちなみに、使い魔に自身の意識はない。よくあるファンタジーの召喚のようなモノとは違い、ここの世界の使い魔は私達の魔力そのもの。そこに仕事内容をプログラムし、動かすという仕組みだ。つまりは、機械のようなモノだと判断してほしい。

 あ、どうでもいいかもしれない話だが、私の場合、何の設定もせずに使い魔を生成すると黒猫姿の使い魔が出来る。まあ、私は魔力が不安定すぎて大きさが選べないから、毎度目的の大きさにするのに苦労してしまうため、できるだけ設定を決めてから生成するようにしているのが現状である。

 この使い魔生成の設定だが、その種族にしか生成できない限定の使い魔もいるので、新世校しんせいこうでは種族がばれるような使い魔の使用はだいたいの場合、校則で禁止されている。

 まあ、何にも例外はあるので、絶対ではないのがあれだが……

 そういえば、私が使える真っ黒な猫も種族限定(単色の動物は獣人以外では無理)のものなのだが、前にお使いを頼もうとした時、うっかり設定もせずに大量の魔力を流しちゃって、超絶ふてぶてしくて無愛想なデブ猫が出てきた時は、さすがにちょっぴり泣きたくなったな……。

 うん、それでもちょいとあのぶさかわいさに愛着湧いちゃったけどね。なんだろうね? あのジト目にキュンときてしまったのは――まあ、一応種族限定の一色モノだったので、泣く泣く生成し直したけど……。

「ルチアーノ、待って――」

「ッ――!?」

 ついつい、この温かい空気に思考までほんわかとしてしまい、どうでもいいことを考えながらシアンの手を引いていると、鋭く小さな声でそう言われ、グッと手に力を入れられて階段を登っている途中なのに軽く前につんのめってしまう。

 シアンの切羽詰ったような声にかろうじて驚きの声は飲み込んだが、危うく心臓が飛び出そうになった。

「誰かいる」

 彼の言葉に、動きを止め、辺りの気配を探るが、全く何も感じられない。現在はあと三段で階段を上りきるという所、シアンの研究室は右廊下の最奥、左手側だ。

「???」

「真っ直ぐ先の廊下、左手……手前から三部屋目。こっちに気付いてない」

 小声でそう言う彼の言葉に従い、どんな音も聞き逃さないように耳を澄ませ、そっと階段から覗いてみると、外開きの赤いドアを開き、誰かが部屋に入るところだった。フワリと舞う桃色の少し長めの髪と黒い軍服せいふくの端が視界から消え、音もなくドアが閉まる。

「……行ったみたい。ルチアーノ、急に引き止めてごめんね」

「あ、ううん、教えてくれてありがとう。全然気付かなかったよ……」

 考え事をしてはいたが、周囲の気配はしっかり探知していたはずなのに全く気付けず、終いには目視しなければ感知できなかったことに驚きと落胆が織り交ぜになり、何とも言えない気持ちになる。

「あ、その……ルチアーノ、気を落とさなくても大丈夫だよ? あの生徒、気配を消すのが上手すぎる……から。僕も違和感みたいなのを感じるのが遅くて、かなり接近しちゃったくらいだし……」

「うぅ、シアン、慰めてくれてありがとう……でも、やっぱり気配察知においては私ダメダメかも……」

 思わずシェロンのことを考え、ため息がこぼれる。シェロンといい、さっきの生徒といい、気配察知ができない私って――どうなの?

 とりあえず、もっと気配察知をしっかり練習しようと心に決めた私は階段を上りきり、シアンの研究室がある右の廊下へと歩を進める。

 その時ふと思った。

(シアン……いつの間にか涙止まってない?)

 それじゃあ、研究室に来た意味はなんだったのかとか、そもそもの問題、その場で動かず涙が止まるまで一緒にいてあげるだけで良かったんじゃないかとか、さっきだって、べつにもう誰かと出くわしてもセーフだったんじゃないか――とかいう疑惑が浮上してきてしまったが、まあ、もう研究室に着いてしまったし、あんまり深く考えないでおこうか……うん。
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