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いつか笑って会える日まで
しおりを挟む「すまない、サンドラ。私は君の義妹を愛している」
そう少女に告げた相手は一体誰なのだろう。ここ数日毎晩夢に見るあの光景を、私は懐かしいようなそうでないような、なんとも不思議な感覚で眺めていた。
(また今夜も始まったわ)
夢の場面は決まって少女に青年が愛する人がいる事を告げるところから始まる。告げられた少女は泣くのを堪えるような表情で、しかし俯く事もなく青年の思いを静かに聞いている。そして青年の横に支えられるように立っていた儚げな美少女は、少女に対し泣きながら訴えかける。
「お姉様ごめんなさい。わたし達は愛しあっているの」
お姉様と呼ばれた少女は諦めにも似た表情で一度頷いた後、静かにその場を後にする。私はいつも決まってここで目が覚め、夢の中の出来事の少女は私でないはずなのに、どうしてだか目覚めるといつも涙を流している。どうして私は泣いているのか。どうして少女の夢を見るのか。どうして夢の中の少女は私と同じ顔をしているのか。私には分からない事がたくさんある。
夢の中に出てきた少女は、私では一生着ることなど出来ないような上質なドレスを纏っていた。日の光に当たった事がないかのような透き通るような白い肌に、秋の山の麓のような真っ赤な髪。少しうねったその髪は光が当たるとさらに赤みが増しているようだった。そして若草色の瞳は力強い生命力を感じさせた。
見た目は同じはずなのに私と彼女が決定的に違うのは、私が平民で彼女が平民ではないという事。そして私には愛し愛される夫がいるけれど、彼女の愛する人は別の女性を愛しているという事だろうか。
そんな事をベッドの中で考えていると不意に後ろから抱きしめられた。
「おはようベル。またあの夢を見たのかい?」
「あら、リアム。私のせいで起こしてしまったかしら?」
「いや、少し前から目が覚めていたんだ」
そう言って軽く口付けをかわした相手は私の愛する夫、リアムだ。
私には19歳から前の記憶がない。気が付いたらこの隣国との国境沿いにある街の小さな診療所にいて、記憶喪失という診断を受け保護されていた。ベルという名も、自分の名前も出生も分からずに途方に暮れていた私を見かねた診療所の医師達が名付けてくれた名だった。
行く場所も帰る当てもない私を、診療所の人達は自立できるまで居ても良いと言ってくれた。幸いにも日常生活を送るには支障がなかった。ただ自分が何者かも分からない恐怖は私の心をじわじわと蝕んでいった。
それでも踏ん張る事が出来たのは、診療所の人達とリアムの存在が大きい。彼とは街に出れば何か思い出すかもと診療所の人と出かけた際に出会った。彼は初めて私と目が合った時、驚愕の表情をしていた。
その時は気にならなかったけれど、後でふとした時に思い出し尋ねたら彼は、「ベルがあまりにも魅力的で、俺は一目惚れだったんだ」なんて照れくさそうに話してくれた。
私の旦那様はよく街を一緒に歩いていても女性から秋波を送られる。黒目黒髪とこの国では珍しい色合いなのもあるだろうけれど、何よりも人目を引くのはその容姿だろうか。お屋敷勤めをしていたというリアムは一見細身に見えるのに、私を抱きしめる腕は逞しい。所作も平民では見かけないような品があって繊細で、それでいて所作がとても綺麗だと診療所の人達が話していた。
診療所で目が覚めた当初、私の心は絶望の淵に立たされていた。以前の記憶もない、自分が一体誰なのかも分からない。私は確かに地に足をつけているはずなのに、一切明かりが当たらない空洞に両足から飲まれていくような恐怖で毎日悲鳴をあげそうだった。
それでも自暴自棄にならずにいられたのはリアムが側で支えてくれていたから。彼が何度も励まし、そしてどんな時も私を暗闇から救い出してくれたから私は私を見失わずに生きてこられた。
私はリアムを愛してる。彼が私を支えてくえたように私もリアムを支えたい。彼と共に幸せな家庭を築きたい。どんな事でも話し合い、私達の絆を深めていきたい。
私は今夜も夢を見る。いつもと同じあの夢を。
でも今夜はいつもと違う。私は意を決して赤髪の少女にそっと語りかけてみる。
「大丈夫。大丈夫よ」
私の声にビクッと肩を震わせる少女は、今にも泣きそうな表情でこちらをじっと見つめている。
「今は辛くても貴女には幸せが訪れる。だから大丈夫よ、私を信じて」
そう言って少女をそっと抱きしめた。大丈夫貴女はきっと幸せになれる。でもどうしてかしら。
どうしてそう思うのかは分からない。でも今私は、確信に近い感情を抱いている。
大丈夫。貴女は幸せになれる。
私はいつか必ずこの夢を幸せな夢へと導いて彼女の笑顔を見てみたい。なぜか今の私ならそれが出来る気がするのだ。
夢の中の少女が笑顔になるまであと少し。
⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎
同じベッドで眠りにつく彼女は、今夜もうなされてしばらく目覚める事はない。きっとあの日の夢(傍点)を見ているのだろう。
愚鈍な元婚約者と、姉のものを欲しがる義妹の夢を——。
ベル——サンドラ様は隣国の古くからある伯爵家の跡取り娘だった。父親である伯爵は一人娘であるサンドラ様には一切の関心を示さず、屋敷に帰る事も月に数える程度だった。
彼女の母親である伯爵夫人はサンドラ様を出産してすぐに儚くなられた。幼いサンドラ様を育て、立派な令嬢にしたのは彼女の乳母であり屋敷の使用人、そして教育係だった。
最初は幼いサンドラ様も父親である伯爵の愛情を求めた。しかし終ぞその愛情が彼女に向く事はなかった。それは伯爵が下町に住む愛人に産ませたサンドラ様の二つ年下に当たる義妹、ミラと名乗る少女に向いていたからだ。
義妹の存在が明らかになった数年後、愛人も流行病で亡くなった。するとすぐに伯爵は義妹を伯爵邸に呼び寄せ、正式な娘として王国に届けを出した。それ自体は形式上何の問題もない。しかしサンドラ様の心情を慮ると、俺は心を鷲掴みにされたように苦しくなった。
自分を愛さない父親と、その父親に愛されて育っている義妹の存在と同じ屋敷で暮らす。その状況は彼女の心を大いに蝕んでいったに違いない。
そんな状況でもサンドラ様には唯一の心の支えがあった。それは婚約者の存在だ。
サンドラ様には幼少期より婚約を結んでいた相手がいた。侯爵家の次男で完全に政略目的で組まれた縁談だった。
父親からの愛を得られない彼女は、同い年の婚約者の愛を求めた。彼の為なら苦手な勉学も、刺繍もヴァイオリンさえも寝る間も惜しんで取り組まれていた。
俺は伯爵家に仕える騎士だった。初めてサンドラ様付きになった時、彼女を見て心底同情し憐れみの目を向けたのを覚えている。
家族からは愛されない。肝心の婚約者は義妹にうつつを抜かし自分を蔑ろにしている。そんな状況を同情しない人がいるのだろうか。でも俺はすぐに考えを改めた。
彼女は確かに愛に飢えていたけれど、それを外では上手く隠し自分を奮い立たせ、完璧な令嬢へと擬態していた。そして噂好きの茶会へ赴いても、彼女は凛として、伯爵令嬢として恥ずかしくない教養を身につけていた。それに彼女は平民にさえも優しい心を持って接していた。
貴族令嬢として出来る事はないのかと日々考え行動にも移していた。孤児院の慰問にも積極的に参加し、領地の繁栄に努めていた。
そんな姿を近くで見たからだろうか。俺がサンドラ様に恋心を抱いたのはごく自然だった。しかし決して叶う事のないこの想いを告げるつもりはない。今は義妹にうつつを抜かしている婚約者でも、正式な婚約者であるサンドラ様と婚姻を結んだ暁には彼女だけを見つめてくれるとそう信じていた。
でも違った。婚約者はサンドラ様を捨て、不貞相手の義妹を選んだ。俺はその現場にいたが何も出来なかった。
本当は叫んで相手の胸ぐらを掴んで、考え直せ、お前の為に彼女がどれほどの努力をしてきたか知らないのか、そう叫びたかった。
でも現実の俺は微動だにせず少し離れた場所で待機する事しか出来なかった。それがどれほど悔しかった事か。
サンドラ様が婚約を破棄されると、待ってましたと言わんばかりに伯爵は彼女へ絶縁を言い渡した。婚約者一人の心も掴めない奴など、この伯爵家には不要だとそう吐き捨てて……。
最低限の荷物だけを持ち彼女は伯爵邸を追い出された。俺もすぐに後を追うつもりだったが、まるで最初から決められていたかのように別の仕事を言い渡され屋敷に戻ってきた時には既にサンドラ様の姿はなかった。
俺はすぐに伯爵家を辞して彼女の後を追った。しかしサンドラ様の足どりを掴む事が出来なかった。途中で痕跡が消えていたからだ。
何日も必死で探していると、半月ほど前に隣国との国境沿いにある道で乗合馬車が横転する事故の話が耳に入ってきた。
国境沿いの街は伯爵家の領地からもそこまで遠く離れているわけではない。まさかと思い急いで馬を走らせ、更にその現場を見ていたという人から詳細を聞く事が出来た。
その日前日の大雨でぬかるんでいた道を半ば強引に乗合馬車が通った。その結果横転し、乗っていた人達は怪我を負った。
診療所に運ばれたのは御者と数人の男女だったという。その現場を目撃した人間にその中に赤髪の少女がいたかと聞けば、返ってきた返事は見たかもしれない、だった。
俺は馬車に乗っていた人たちが運ばれたという診療所の場所を教えてもらい急いで馬で駆けた。しかし身内でない人間に個人的な情報を話す事は出来ないと門前払いをくらい俺はなす術もなかった。
どうにか中の状況を知る事は出来ないかと診療所の近くのホテルに宿泊し、サンドラ様の無事を祈った。
死者はいなかったと聞くが、診療所に運び込まれた後の事は俺には知る由もなかった。そんな時だろうか。
人間とは不思議な生き物で、こんな状況でも腹は減る。市場に買い出しにでた俺はそこで運命の再会を果たした。馬車の横転だったと聞いていたから最悪の状況を想定していただけれど、サンドラ様は幸いにも軽傷だった。ただ数日目を覚まさなかった事と、目覚めてから過去の記憶が一切ない事を除けば、だ。
俺は彼女ともう一度再会出来た事を、信じてもいない神に生まれて初めて感謝した。サンドラ様が目の前にいる。それだけで俺は幸せだった。そして彼女には申し訳ないけれど記憶喪失なのは神からの彼女に対する贈り物なのだと思った。今までずっと苦しい思いをしてきた彼女は文字通り全てから解放された。もうここには彼女を煩わせる元婚約者も伯爵家の人間もいない。
ここで新たな名前と共に人生をやり直してほしい。俺は今度こそ彼女を側で支えたい、そんな思いからサンドラ様改めベルに声を掛けた。
何も思い出せない事を好都合に彼女の夫という立場に収まる事も出来た。
それでもいつか彼女の記憶が全て戻った時、ベルは俺を選んでくれるだろうか。俺は彼女の全てを受けて入れて生きていく。
でもベルはどうだろう。記憶が戻っても俺を受け入れる事が出来るだろうか。
風の噂で流れてくる伯爵家の醜聞は散々なものだ。あの時悲劇のヒロインのように侯爵子息に張り付いていた義妹は、姉であるサンドラ様がいなくなった事で侯爵子息への興味が失せてしまったのか、今は他の令嬢の婚約者に秋波を送っているらしい。たとえ義妹が他の異性に秋波を送って擦り寄っても、あの国で義妹の誘惑に乗る愚か者は果たしてどれだけの人数がいるのだろうか。
彼の国では血筋を重んじる。所詮愛人の子に、それも平民の血筋の子に過ぎない義妹は良くて母親と同じ愛人止まりだろう。あの侯爵子息が異常なだけだったのだ。
今の俺たちは貴族でもその貴族に仕える騎士でもない、どこにでもいる普通の平民の夫婦だ。今度こそ誰にもベルを傷つけさせない。二度と悲しい顔はさせたくない。俺は今ベルを幸せにしてあげられているだろうか?
いつか彼女が記憶を取り戻した時、偽りだらけの俺を呆れながらも許してくれるだろうか。それとも俺を詰って拒絶するのだろうか。
それでも俺はベルを手放す事は出来ない。俺は彼女を愛してる。こんな思いを抱くのも世界で唯一、彼女だけだ。
今夜もうなされている彼女の頭をそっと撫でる。そうするとベルの表情が少し柔らかいものへと変化するからだ。
どうかもう過去から解放されてほしい。幸せになってほしい、そして俺を愛してほしい。
あの頃のような贅沢な生活はさせてやる事は今の俺には出来ないけれど、陽だまりのような暖かな家庭を彼女と共に築いていきたい。
そう思わずにはいられなかった。
end.
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