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野原のマフィンと親指少女
(八)
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明るい場所が見えてくる。木立が途切れて太陽の光を全身に浴びたとき、目の前に鮮やかな緑色が広がっていた。
「うわあ……、草、すごい」
穂乃花よりも背の高い剣のような草が、見渡す限り生い茂っているのだった。草の林だ。風が吹けば、さあっと草同士がこすれあう音がする。空気が冴え冴えと澄んでいる。ここから先は、隣人の世界だ。
「ここ、進むの? 草しかないけど」
少女は親指と人差し指で輪を作り、口にくわえる。指笛が響いた。高くなったり低くなったり伸ばしたり……、はじめて聞くはずなのに、どこか懐かしい想いに駆られる音色だった。風もないのに、草のこすれる音がした。意思を持っているように草が動いて、あっというまに穂乃花ひとりが通れるだけの幅で、草の絨毯が出来上がった。
目を瞬いていると、早く行って、と親指少女が急かす。
右も左も足元も、草。むんっと鮮やかな緑の気配に包まれる。穂乃花が通り終わったあとの葉は、また元のようにぴんと空に向かって背を伸ばした。自分より背の高い草の中を進んでいると、不思議な気分になる。小人が視ている世界はこんな感じだろうか。たとえば、かわいらしいはずの子犬が大きな怪物に見えて、人の家は巨人の住処のようで……。
「親指ちゃんの普段の景色も、同じようなものだよね。面白いね」
緑の道の終わりが見えてきた。広がる景色に、穂乃花は息をのむ。
野原だ。今度は背の低い植物がずっと続いている。ふさふさした草を生やして、赤い実を房状につけていた。みずみずしい実は、一粒一粒が宝石のように輝いている。
「――雪斗さんにも、見せてあげたいな」
視えない雪斗は、ここに来られないだろうけれど。写真にとってもここの景色は映らないだろうし、こういうときは惜しいなと思う。ぼんやりしていると、親指少女がぴょんぴょんと跳ねた。そうだ、今はひとりじゃなくて、彼女がいるのだ。
「ごめんごめん。いっぱい摘もうね」
穂乃花と親指少女は、並んで実に手を伸ばした。親指少女の背負う小さな籠は、あっという間に実で埋め尽くされた。次は穂乃花が持ってきたツルの籠に入れる。こちらをいっぱいにするには骨が折れそうだ。
「たくさん摘んだら、私も分けてもらっていいかな? あとで雪斗さんにお菓子作ってもらおうよ。マフィンとか、あ、タルトもいいなあ。パウンドケーキにもあうかも」
親指少女は首を傾げる。洋菓子には馴染みがないのだろう。
「どれもおいしいんだよ。期待してて。ま、作るのは私じゃなくて雪斗さんだけどね」
実を摘むごとに少女との間にあったわだかまりも摘み取っていくような、そんな気がして、穂乃花は無心でぷちりぷちりと実を摘んでは、籠に入れていった。そのうち楽しくなって、また鼻歌を披露した。
「これくらいあれば満足ですか、親指姫さま」
籠がいっぱいになると、少女が笑って頷く。その表情に不機嫌な様子は見られなかった。どうにか彼女のお許しをいただくことができたようだ。穂乃花は安心して、立ち上がる。
早く帰って、雪斗に話したい。親指少女と仲直りできたこと。草の林や、赤い実のなる様子が美しかったことを。それからお菓子を作って、親指少女とお茶をしよう。うん、完璧だ。
「よーし。じゃあ帰ろ――」
だが、弾んだ穂乃花の言葉は、中途半端に止まった。ざわりと、空気が揺れる。
いつのまにか周囲に黒い靄が五、六本、煙のように立ち昇っていた。ゆらゆら揺れて、のっぺりした人の影になる。見ているだけで心がざわつく姿だった。穂乃花は息を止めて影を見渡す。
――さっき森で見た影かな。
「うわあ……、草、すごい」
穂乃花よりも背の高い剣のような草が、見渡す限り生い茂っているのだった。草の林だ。風が吹けば、さあっと草同士がこすれあう音がする。空気が冴え冴えと澄んでいる。ここから先は、隣人の世界だ。
「ここ、進むの? 草しかないけど」
少女は親指と人差し指で輪を作り、口にくわえる。指笛が響いた。高くなったり低くなったり伸ばしたり……、はじめて聞くはずなのに、どこか懐かしい想いに駆られる音色だった。風もないのに、草のこすれる音がした。意思を持っているように草が動いて、あっというまに穂乃花ひとりが通れるだけの幅で、草の絨毯が出来上がった。
目を瞬いていると、早く行って、と親指少女が急かす。
右も左も足元も、草。むんっと鮮やかな緑の気配に包まれる。穂乃花が通り終わったあとの葉は、また元のようにぴんと空に向かって背を伸ばした。自分より背の高い草の中を進んでいると、不思議な気分になる。小人が視ている世界はこんな感じだろうか。たとえば、かわいらしいはずの子犬が大きな怪物に見えて、人の家は巨人の住処のようで……。
「親指ちゃんの普段の景色も、同じようなものだよね。面白いね」
緑の道の終わりが見えてきた。広がる景色に、穂乃花は息をのむ。
野原だ。今度は背の低い植物がずっと続いている。ふさふさした草を生やして、赤い実を房状につけていた。みずみずしい実は、一粒一粒が宝石のように輝いている。
「――雪斗さんにも、見せてあげたいな」
視えない雪斗は、ここに来られないだろうけれど。写真にとってもここの景色は映らないだろうし、こういうときは惜しいなと思う。ぼんやりしていると、親指少女がぴょんぴょんと跳ねた。そうだ、今はひとりじゃなくて、彼女がいるのだ。
「ごめんごめん。いっぱい摘もうね」
穂乃花と親指少女は、並んで実に手を伸ばした。親指少女の背負う小さな籠は、あっという間に実で埋め尽くされた。次は穂乃花が持ってきたツルの籠に入れる。こちらをいっぱいにするには骨が折れそうだ。
「たくさん摘んだら、私も分けてもらっていいかな? あとで雪斗さんにお菓子作ってもらおうよ。マフィンとか、あ、タルトもいいなあ。パウンドケーキにもあうかも」
親指少女は首を傾げる。洋菓子には馴染みがないのだろう。
「どれもおいしいんだよ。期待してて。ま、作るのは私じゃなくて雪斗さんだけどね」
実を摘むごとに少女との間にあったわだかまりも摘み取っていくような、そんな気がして、穂乃花は無心でぷちりぷちりと実を摘んでは、籠に入れていった。そのうち楽しくなって、また鼻歌を披露した。
「これくらいあれば満足ですか、親指姫さま」
籠がいっぱいになると、少女が笑って頷く。その表情に不機嫌な様子は見られなかった。どうにか彼女のお許しをいただくことができたようだ。穂乃花は安心して、立ち上がる。
早く帰って、雪斗に話したい。親指少女と仲直りできたこと。草の林や、赤い実のなる様子が美しかったことを。それからお菓子を作って、親指少女とお茶をしよう。うん、完璧だ。
「よーし。じゃあ帰ろ――」
だが、弾んだ穂乃花の言葉は、中途半端に止まった。ざわりと、空気が揺れる。
いつのまにか周囲に黒い靄が五、六本、煙のように立ち昇っていた。ゆらゆら揺れて、のっぺりした人の影になる。見ているだけで心がざわつく姿だった。穂乃花は息を止めて影を見渡す。
――さっき森で見た影かな。
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