長野ヨミは、瓶の中で息をする

橘花やよい

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第五章 ヨミ、大喧嘩?する

(二)

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「水樹さんは、ここ、よく来るんですか?」
「趣味」

 ……散歩が趣味だからよく来るよ、ということだろうか。あまりにも言葉が足りない。相当追い詰められていらっしゃる。

「わたしも、よく遊びに来ましたよ、この山」

 小学生のころ、妹や同級生と連れ立って、とくに用はないけれど暇だから山にのぼるという休日は多かった。それが中学生、高校生としだいに回数が減り、大人になってからはまったく来ていない。

 昔はわくわくしていた山の自然も、今は虫が多いとか蝉が多いとか暑いとか蝉が多いとか蝉が多いとかで、わざわざ遊びに来るほどの魅力を感じなくなった。

 でも実際に来てみると、いいなあと思う。山の空気を吸えば、身体の中から綺麗な存在に生まれ変われそうな気がした。

「田舎も捨てたもんじゃないですよね」

 無視された。

 道が二股にわかれると、水樹は右側に進む。緑濃い木々のアーチを抜けた先には、ぱっと開けた渓流が待っていた。水が太陽の光を反射させていて、木陰に慣れたヨミの目には眩しすぎる。

 自然は偉大だ。田舎の誇り。都会にこの癒しはないだろうから、かわいそう。まあ、これ以外に自慢できるものが田舎にはないのだけど。

「あ、水樹さんなにしてるんですか」
「入水」

 美しい川の流れに、躊躇なく水樹が入水していた。

 深いところでも膝までしかない深さだ。この夏の暑さだし、気持ちいいだろう。水樹はばちゃばちゃと水を蹴り飛ばしたり、手で殴ったりしている。子どもが地団駄を踏んでいるみたい。

「涼しそうですねー」

 ヨミは木陰から見守った。頭上からは蝉の声がして気が気ではないが、暑いから仕方ない。手でぱたぱたと顔を仰ぐ。気休めにもならないのだけど、ついやってしまうこの仕草。

 と。

 蝉の羽音がした。けたたましく。

 ヨミは声にならない悲鳴を上げて駆け出した。ばしゃばしゃと水飛沫を上げて、蝉から逃げる。

「なにしてんの」
「せ、蝉が! 蝉が……!」

 あっそ、と水樹はまた自分のストレス発散に戻る。冷たい。ひとりで騒いでいるのが恥ずかしくなったヨミは顔を赤くさせた。咳払いして、

「あー、この靴、もう駄目ですね」

 水没した靴に思いをはせる。濡れたものは仕方ない。いや、濡れたのであれば、楽しまなければ損というもの。開き直って、ヨミも水を蹴り上げた。冷たい。踏みしめるたびに濡れた靴がむぎゅっむぎゅっとする。

 ふたりでしばらくばしゃばしゃとさせていた。

 しかしいくら待てども、水樹の気分が回復する兆しはない。熱愛報道め、人をショックに陥れて楽しいんですか、もう。

「水樹さん、大丈夫ですか」

 水樹はちらりと視線を寄越したが、また暗い瞳で輝かしい水面を見下ろした。いつもと違いすぎて、やりにくいことこの上ない。

「えっと、あまり気に病まないでくださいね」
「うるさい。あんたにはわからないでしょ」

 それはそうなのだけど。落ち込んでいる人がいれば、励ましたいと思うじゃないか。

「というか、なんであんたがいるの」

 水樹が顔を上げて、ヨミを睨みつけた。

「なんでと言われても、報道見て水樹さんが心配になったので。励ましに来たんですが」
「頼んでない」
「そうですね、わたしが勝手に来ただけです」
「うっとうしい」

 ヨミは苦笑した。

 水樹は気が立っているのだろう。言葉がいつもより安直で鋭い。まあ、ヨミに当たることで気がまぎれるなら、それでもいいかなと思う。ここは甘んじて受け入れよう。そんな態度が水樹は気に入らなかったらしい。目が鋭くなった。

「なにその、やれやれって顔。上から目線」
「え、そんなつもりでは」
「そうでしょ。あたしが問題児みたいな扱いしてる」
「違います。してません」

 ぶんぶんと首を振る。さらに水樹の目つきが悪くなる。ああ、困った。

「違わないでしょ、優等生が」

 水の流れに逆らって、大股で水樹が距離を詰めてくる。ヨミは思わず後ずさりした。でも戸惑うヨミの歩幅より、水樹の歩幅の方が広い。あっというまに至近距離から、背の高い水樹に見下ろされる。

「あんたはいつもそう。聖人ぶってる」
「そんなこ――」

 突然、胸倉を掴まれた。息ができなくなった。だって、人と暴力的な喧嘩なんてしない平和な人生だったのだ。慣れない。びっくりした。苦しい。どうしよう。
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