長野ヨミは、瓶の中で息をする

橘花やよい

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第一章 ヨミ、失恋中の大学生に出会う

(三)

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「いらっしゃいませー」
「予約してた千田ちだです」
「はい、二名様ですね。どうぞ」

 赤いレンガ造りがかわいらしいイタリアンの店だ。家族で経営しているようで、アットホームだけどおしゃれなお店、という感じ。田舎にこんな店があると目立つ。

 髪をお団子にしたにこやかな婦人が案内してくれて、ヨミは大学生くん――もとい千田と向かい合って席につく。本来は千田の恋人が座っていた席だと思うと、なんとも言えない気持ちだ。

「すみません、お姉さんを巻き込んじゃって。直前の予約キャンセルなんて、お店の人が困るよなあと思ってできなくて。助かりました」
「いいですよ。ちょうどお昼どうしようかなあと思っていたので」

 千田の困った顔を見ていると不憫に思えて、嘘をつく。本当は母がご飯を作って家で待っていた。さっき「外で食べて帰るね」とメッセージを送ったら「なんなの、もう!」とお怒りの文面が返ってきたところだ。申し訳ないです。いやでも、ヨミだってなんでこんな状況になったんだと不思議なのだ。

 まあ、仕方ないか。

「別れちゃったんですもんね」
「はい。残念ながら」

 肩を落とすこの不憫な大学生、千田は恋人とランチに来るはずが、その恋人と別れてしまったのだそうだ。だから自棄になってそこらへんにいる女性をナンパした……というわけではなく、お店へキャンセルの連絡をするのが申し訳なくて、一緒に行ってくれる人を切実に探していたらしい。

「でも、来てもらえるとは思いませんでした。自分で言うのもなんだけど、絶対断られるだろうなあと思ったんですよね、ナンパみたいになっちゃったし。迷惑じゃなかったですか?」

 テーブルに置かれたボトルから、グラスに水が注がれる。外が暑かったから、ただの水でもきらきら輝く魔法の飲み物のように見えた。まあ見えただけで、ただの水だけど。

「そうですね、普段なら断っていましたけど、今回はかわいそうだったので」
「すみません」
「いえいえ」

 しゅんとする千田に、そういう顔をするから断れなかったんだぞ、とヨミは笑った。

「妹に似てるんですよね、あなたの雰囲気」

 妹もよく「お姉ちゃーん!」と泣きついてきたものだから、それを思い出してしまうのだ。放っておけないのは、姉に生まれたヨミの宿命。仕方ない。

 ヨミは年下にめっぽう弱い。妹とは双子の姉妹だから、年下という感じはそんなになかったけれど、やっぱり姉属性はヨミについて回った。

「でも、誘うなら友達の方がよかったんじゃないですか?」
「知り合いは無理ですよ。彼女と別れたなんて話、したくないです」
「わたしにはしてるのに?」
「お姉さんは初対面だからいいんです。知り合いだと気まずいじゃないですか」

 まあ、それもそうか。

 よくよく見れば美形な彼の目の下にはクマもあるし、けっこうお悩みなのかもしれない。それでも千田のまとう空気に影はなかった。きっととても悩んでいるのだろうけれど、彼を取り巻く空気は不思議とじめじめしない。すごい。梅雨時に近くにいてほしい。湿気が吹き飛びそう。

「豆腐とトマトのサラダです」

 赤いネクタイをつけた若い女性がサラダを運んできた。ベビーリーフの上に豆腐、その上にトマトが乗って鮮やか。女性はてきぱきとした動作で、見ていて気持ちいい。笑顔というよりは真顔だけど、誠実さはある。

「豆腐なんですね、チーズに見えました」
「俺も最初見たとき、そう思いました。彼女ともね、この店に時々来たんですよ。イタリアンで白いものって言われるとチーズっぽく感じちゃいますよね」

 でも食べるとたしかに豆腐。チーズとトマトも合うけれど、今はこの豆腐のさっぱり感がいい。火照った身体が喜んでいる。

「俺、トマト好きなんです。身体によさそうだなーって。あんまり詳しくないけど、トマト食べておけば大丈夫って感じしません?」
「ああ、よくテレビで観ますね、トマト。栄養満点だって」
「そうそう。それでね、俺、彼女と一緒に暮らしてたんですけど、急に別れてくださいって言われて。全然そんな素振りなかったのに。突然だったんですよ」

 ぐいんっと話がカーブして、あやうく会話のボールをキャッチできないところだった。どうにか滑り込みキャッチをして、そうなんですねぇ、と相づちを打つ。

 バスの話ではないけれど、アピールというか匂わせるというか、そういうものはやっぱり大事なのかもしれない。別れたいアピールされても、それはそれで困るかもしれないけれど、突然よりはましだろうか。
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