30 / 62
第3章 小説家と、空色
(8)夜空の色
しおりを挟む
その日の夕方。とわや利用者たちが帰ったあとのことだ。二階で画材を用意していると、一色が訪れた。あいかわらず、コートなどは外で脱いできたらしく、就活生スタイルで小脇に抱えている。
「こんばんは。どうぞ、座ってください。すみません、日が暮れてから来ていただいて」
『いえ。こちらこそ、お邪魔して申し訳ないです』
恐縮したように、絵莉の前に座った一色が眼鏡の位置を直す。絵莉も、水が入った筆洗い器をちゃぶ台に置き、準備完了だ。
「さすがに絵の具だと、子どもの前で広げるのは怖かったので。水をひっくり返したり、服についたりしたら、大変ですからね。それにゆっくり描ける状況のほうがいいかと思って」
だから、店が閉まってから一色に来てもらったのだ。いま、二階には絵莉と一色だけ……という状況をもちろんお雪さんが許してくれるはずもなく、でん、と白うさぎが畳に構えて見張っている。その視線を受けて、一色の頬に冷や汗が浮かんだ。
『お雪さんに、なんだかとても、見られています……』
「気にしないでください」
『ですが』
「大丈夫です。お雪さん、一色さんのことをやさしくて紳士的だと思っていますから。一色さんが嫌われているわけではありませんよ」
一色は不思議そうに首をかしげた。お雪さんは事実そう言っていたのだが、一色にそんな話はできない。うちのうさぎはしゃべります、なんて言っても混乱させてしまうだけだろう。絵莉は困って、笑顔でごり押しすることにした。
一色も納得したわけではないだろうけれど、それ以上は気にしないことにしたらしい。すっくと背筋を伸ばして、白い画用紙に向き合った。
『絵を描く、ということでしたね』
「はい。わたしが一色さんにお伝えできることはなにか考えてみたんですが、やっぱり絵かなと。わたしの色づかいを気に入ってくださったのなら、一緒に描くことで気づきが得られるかもしれない……と思いまして」
お雪さんが言っていたことの受け売りだ。けれど一色は納得したような顔で、絵莉を見る。
『ありがたいです。絵莉さんの絵がどうやって描かれているのか、興味もあったので』
「色の深みに注目してくださってましたよね? 深みを出すコツなら、お伝えできると思います。ということで、さっそくやってみましょうか」
『絵を描くのは久しぶりです。至らぬ点が多いかと思いますが、ご指導よろしくお願いします』
「あ、いえ、こちらこそ! よろしくお願いします」
深々と頭を下げる一色に、絵莉もあわてて返す。やっぱり紳士だなと思ってから、首をぶんっとふった。お雪さんがじとっと絵莉を見て、ぐりぐりと顔を押しつけてきているのだ。紳士枠は自分だ、と主張するように。
「はいはい、お雪さんも紳士だよ」
目をまたたく一色に「こっちの話です」とごまかして、絵莉はパレットを示した。愛用のパレットには、ずらりと絵の具が色相環順に並ぶ。
「今日は水彩絵の具を使おうと思います。いまはパレットの上で絵の具が固まってるんですけど、水をつけた筆で伸ばせばすぐ溶けますから、好きな色を使ってください」
絵の具や筆の扱い方を軽く教えてから、水彩紙に四角の枠を鉛筆で描き入れた。色彩について伝えるのならば、適したモチーフはなんだろう、とずっと考えていた。答えがこれだ。
絵莉は四角を指さした。
「ここに、夜空をつくってみましょう。一色さんの思う夜空を描いてみてほしいです。星はあとで描きたすので、空の色を塗っていただくだけで構いません」
「こんばんは。どうぞ、座ってください。すみません、日が暮れてから来ていただいて」
『いえ。こちらこそ、お邪魔して申し訳ないです』
恐縮したように、絵莉の前に座った一色が眼鏡の位置を直す。絵莉も、水が入った筆洗い器をちゃぶ台に置き、準備完了だ。
「さすがに絵の具だと、子どもの前で広げるのは怖かったので。水をひっくり返したり、服についたりしたら、大変ですからね。それにゆっくり描ける状況のほうがいいかと思って」
だから、店が閉まってから一色に来てもらったのだ。いま、二階には絵莉と一色だけ……という状況をもちろんお雪さんが許してくれるはずもなく、でん、と白うさぎが畳に構えて見張っている。その視線を受けて、一色の頬に冷や汗が浮かんだ。
『お雪さんに、なんだかとても、見られています……』
「気にしないでください」
『ですが』
「大丈夫です。お雪さん、一色さんのことをやさしくて紳士的だと思っていますから。一色さんが嫌われているわけではありませんよ」
一色は不思議そうに首をかしげた。お雪さんは事実そう言っていたのだが、一色にそんな話はできない。うちのうさぎはしゃべります、なんて言っても混乱させてしまうだけだろう。絵莉は困って、笑顔でごり押しすることにした。
一色も納得したわけではないだろうけれど、それ以上は気にしないことにしたらしい。すっくと背筋を伸ばして、白い画用紙に向き合った。
『絵を描く、ということでしたね』
「はい。わたしが一色さんにお伝えできることはなにか考えてみたんですが、やっぱり絵かなと。わたしの色づかいを気に入ってくださったのなら、一緒に描くことで気づきが得られるかもしれない……と思いまして」
お雪さんが言っていたことの受け売りだ。けれど一色は納得したような顔で、絵莉を見る。
『ありがたいです。絵莉さんの絵がどうやって描かれているのか、興味もあったので』
「色の深みに注目してくださってましたよね? 深みを出すコツなら、お伝えできると思います。ということで、さっそくやってみましょうか」
『絵を描くのは久しぶりです。至らぬ点が多いかと思いますが、ご指導よろしくお願いします』
「あ、いえ、こちらこそ! よろしくお願いします」
深々と頭を下げる一色に、絵莉もあわてて返す。やっぱり紳士だなと思ってから、首をぶんっとふった。お雪さんがじとっと絵莉を見て、ぐりぐりと顔を押しつけてきているのだ。紳士枠は自分だ、と主張するように。
「はいはい、お雪さんも紳士だよ」
目をまたたく一色に「こっちの話です」とごまかして、絵莉はパレットを示した。愛用のパレットには、ずらりと絵の具が色相環順に並ぶ。
「今日は水彩絵の具を使おうと思います。いまはパレットの上で絵の具が固まってるんですけど、水をつけた筆で伸ばせばすぐ溶けますから、好きな色を使ってください」
絵の具や筆の扱い方を軽く教えてから、水彩紙に四角の枠を鉛筆で描き入れた。色彩について伝えるのならば、適したモチーフはなんだろう、とずっと考えていた。答えがこれだ。
絵莉は四角を指さした。
「ここに、夜空をつくってみましょう。一色さんの思う夜空を描いてみてほしいです。星はあとで描きたすので、空の色を塗っていただくだけで構いません」
27
お気に入りに追加
94
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします
文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。
夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。
エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。
「ゲルハルトさま、愛しています」
ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。
「エレーヌ、俺はあなたが憎い」
エレーヌは凍り付いた。
イケメン社長と私が結婚!?初めての『気持ちイイ』を体に教え込まれる!?
すずなり。
恋愛
ある日、彼氏が自分の住んでるアパートを引き払い、勝手に『同棲』を求めてきた。
「お前が働いてるんだから俺は家にいる。」
家事をするわけでもなく、食費をくれるわけでもなく・・・デートもしない。
「私は母親じゃない・・・!」
そう言って家を飛び出した。
夜遅く、何も持たず、靴も履かず・・・一人で泣きながら歩いてるとこを保護してくれた一人の人。
「何があった?送ってく。」
それはいつも仕事場のカフェに来てくれる常連さんだった。
「俺と・・・結婚してほしい。」
「!?」
突然の結婚の申し込み。彼のことは何も知らなかったけど・・・惹かれるのに時間はかからない。
かっこよくて・・優しくて・・・紳士な彼は私を心から愛してくれる。
そんな彼に、私は想いを返したい。
「俺に・・・全てを見せて。」
苦手意識の強かった『営み』。
彼の手によって私の感じ方が変わっていく・・・。
「いあぁぁぁっ・・!!」
「感じやすいんだな・・・。」
※お話は全て想像の世界のものです。現実世界とはなんら関係ありません。
※お話の中に出てくる病気、治療法などは想像のものとしてご覧ください。
※誤字脱字、表現不足は重々承知しております。日々精進してまいりますので温かく見ていただけると嬉しいです。
※コメントや感想は受け付けることができません。メンタルが薄氷なもので・・すみません。
それではお楽しみください。すずなり。
【完結】幼馴染にフラれて異世界ハーレム風呂で優しく癒されてますが、好感度アップに未練タラタラなのが役立ってるとは気付かず、世界を救いました。
三矢さくら
ファンタジー
【本編完結】⭐︎気分どん底スタート、あとはアガるだけの異世界純情ハーレム&バトルファンタジー⭐︎
長年思い続けた幼馴染にフラれたショックで目の前が全部真っ白になったと思ったら、これ異世界召喚ですか!?
しかも、フラれたばかりのダダ凹みなのに、まさかのハーレム展開。まったくそんな気分じゃないのに、それが『シキタリ』と言われては断りにくい。毎日混浴ですか。そうですか。赤面しますよ。
ただ、召喚されたお城は、落城寸前の風前の灯火。伝説の『マレビト』として召喚された俺、百海勇吾(18)は、城主代行を任されて、城に襲い掛かる謎のバケモノたちに立ち向かうことに。
といっても、発現するらしいチートは使えないし、お城に唯一いた呪術師の第4王女様は召喚の呪術の影響で、眠りっ放し。
とにかく、俺を取り囲んでる女子たちと、お城の皆さんの気持ちをまとめて闘うしかない!
フラれたばかりで、そんな気分じゃないんだけどなぁ!

転生したら、6人の最強旦那様に溺愛されてます!?~6人の愛が重すぎて困ってます!~
月
恋愛
ある日、女子高生だった白川凛(しらかわりん)
は学校の帰り道、バイトに遅刻しそうになったのでスピードを上げすぎ、そのまま階段から落ちて死亡した。
しかし、目が覚めるとそこは異世界だった!?
(もしかして、私、転生してる!!?)
そして、なんと凛が転生した世界は女性が少なく、一妻多夫制だった!!!
そんな世界に転生した凛と、将来の旦那様は一体誰!?

今夜は帰さない~憧れの騎士団長と濃厚な一夜を
澤谷弥(さわたに わたる)
恋愛
ラウニは騎士団で働く事務官である。
そんな彼女が仕事で第五騎士団団長であるオリベルの執務室を訪ねると、彼の姿はなかった。
だが隣の部屋からは、彼が苦しそうに呻いている声が聞こえてきた。
そんな彼を助けようと隣室へと続く扉を開けたラウニが目にしたのは――。
小さなパン屋の恋物語
あさの紅茶
ライト文芸
住宅地にひっそりと佇む小さなパン屋さん。
毎日美味しいパンを心を込めて焼いている。
一人でお店を切り盛りしてがむしゃらに働いている、そんな毎日に何の疑問も感じていなかった。
いつもの日常。
いつものルーチンワーク。
◆小さなパン屋minamiのオーナー◆
南部琴葉(ナンブコトハ) 25
早瀬設計事務所の御曹司にして若き副社長。
自分の仕事に誇りを持ち、建築士としてもバリバリ働く。
この先もずっと仕事人間なんだろう。
別にそれで構わない。
そんな風に思っていた。
◆早瀬設計事務所 副社長◆
早瀬雄大(ハヤセユウダイ) 27
二人の出会いはたったひとつのパンだった。
**********
作中に出てきます三浦杏奈のスピンオフ【そんな恋もありかなって。】もどうぞよろしくお願い致します。
**********
この作品は、他のサイトにも掲載しています。

ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる