仲町通りのアトリエ書房 -水彩絵師と白うさぎ付き-

橘花やよい

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第3章 小説家と、空色

(8)夜空の色

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 その日の夕方。とわや利用者たちが帰ったあとのことだ。二階で画材を用意していると、一色が訪れた。あいかわらず、コートなどは外で脱いできたらしく、就活生スタイルで小脇に抱えている。

「こんばんは。どうぞ、座ってください。すみません、日が暮れてから来ていただいて」
『いえ。こちらこそ、お邪魔して申し訳ないです』

 恐縮したように、絵莉の前に座った一色が眼鏡の位置を直す。絵莉も、水が入った筆洗い器をちゃぶ台に置き、準備完了だ。

「さすがに絵の具だと、子どもの前で広げるのは怖かったので。水をひっくり返したり、服についたりしたら、大変ですからね。それにゆっくり描ける状況のほうがいいかと思って」

 だから、店が閉まってから一色に来てもらったのだ。いま、二階には絵莉と一色だけ……という状況をもちろんお雪さんが許してくれるはずもなく、でん、と白うさぎが畳に構えて見張っている。その視線を受けて、一色の頬に冷や汗が浮かんだ。

『お雪さんに、なんだかとても、見られています……』
「気にしないでください」
『ですが』
「大丈夫です。お雪さん、一色さんのことをやさしくて紳士的だと思っていますから。一色さんが嫌われているわけではありませんよ」

 一色は不思議そうに首をかしげた。お雪さんは事実そう言っていたのだが、一色にそんな話はできない。うちのうさぎはしゃべります、なんて言っても混乱させてしまうだけだろう。絵莉は困って、笑顔でごり押しすることにした。

 一色も納得したわけではないだろうけれど、それ以上は気にしないことにしたらしい。すっくと背筋を伸ばして、白い画用紙に向き合った。

『絵を描く、ということでしたね』
「はい。わたしが一色さんにお伝えできることはなにか考えてみたんですが、やっぱり絵かなと。わたしの色づかいを気に入ってくださったのなら、一緒に描くことで気づきが得られるかもしれない……と思いまして」

 お雪さんが言っていたことの受け売りだ。けれど一色は納得したような顔で、絵莉を見る。

『ありがたいです。絵莉さんの絵がどうやって描かれているのか、興味もあったので』
「色の深みに注目してくださってましたよね? 深みを出すコツなら、お伝えできると思います。ということで、さっそくやってみましょうか」
『絵を描くのは久しぶりです。至らぬ点が多いかと思いますが、ご指導よろしくお願いします』
「あ、いえ、こちらこそ! よろしくお願いします」

 深々と頭を下げる一色に、絵莉もあわてて返す。やっぱり紳士だなと思ってから、首をぶんっとふった。お雪さんがじとっと絵莉を見て、ぐりぐりと顔を押しつけてきているのだ。紳士枠は自分だ、と主張するように。

「はいはい、お雪さんも紳士だよ」

 目をまたたく一色に「こっちの話です」とごまかして、絵莉はパレットを示した。愛用のパレットには、ずらりと絵の具が色相環順に並ぶ。

「今日は水彩絵の具を使おうと思います。いまはパレットの上で絵の具が固まってるんですけど、水をつけた筆で伸ばせばすぐ溶けますから、好きな色を使ってください」

 絵の具や筆の扱い方を軽く教えてから、水彩紙に四角の枠を鉛筆で描き入れた。色彩について伝えるのならば、適したモチーフはなんだろう、とずっと考えていた。答えがこれだ。

 絵莉は四角を指さした。

「ここに、夜空をつくってみましょう。一色さんの思う夜空を描いてみてほしいです。星はあとで描きたすので、空の色を塗っていただくだけで構いません」
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