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第2章 無口な少年と、桜色
(15)うさぎは鳴く
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――そっか。
子どもは、真っ白な画用紙みたいなものだと思う。まわりの人間が色を落とせば、素直に受け入れて染まってしまう。
入院しているとわの母親が、とわを心配しなくていいように。もしくは、泣いているとわを泣きやませるために、だれかがそう言ったのだろうか。泣いたら、ママが心配しちゃうよ、と。だからとわは泣かないし、泣けない……?
事実、とわは自分の気持ちを押し込めてしまっているのだ。そのだれかの言葉は、とわの心に刻まれたのだろう。耐え抜くことは強さだと、絵莉も思う。でも。
でも――、それは、とわが苦しいだけだ。それではいけない、と思う。うん、よくない。よくないよ、とわくん。
絵莉は唇をぎゅっと結んだ。目も閉じて、もう一度開く。
「うさぎは鳴くよ」
飛び出した言葉は、思ったよりも大きく響いた。
「鳴かないけど、鳴くんだよ」
とわが、ぽかんと絵莉を見上げる。絵莉は表情を和らげた。
「うさぎって、寂しいときとか不安なときとか、あと怒っているときも、床をだんだんって蹴るの。お雪さんも、ときどきしてるの、見たことないかな?」
となりにいる一色がびくっと跳ねた。心当たりがあるのだろう。ふだん温厚なお雪さんが「床だん」するのは、ほぼほぼ一色を相手にしたときくらいだ。お雪さんはそんな一色を見て、ぶうっと鼻を鳴らした。困ったうさぎだ。
「鼻を鳴らすのはね、怒ってる証拠。でももうちょっと高い音で鼻を鳴らしたときは、気分がいい証拠」
とわがお雪さんを見下ろす。お雪さんは怒りを引っ込めて、とわの指先にすり寄った。ぷう、と高めの音を鳴らす。
「嬉しいときは部屋を駆け回るし、すごい高さのジャンプをすることもあるよ。もしうさぎに声があったら、すごくおしゃべりだと思う。お雪さんなんて、絶対口うるさいから」
お雪さんは一瞬耳をぴんと立てたけれど、聞き流してくれたらしい。とわの指先にじゃれつくだけだ。絵莉はそんなひとりと一羽に歩み寄った。
「ね? うさぎには声がないけど、全身で鳴くんだよ」
絵莉もお雪さんをなでながら、とわをのぞき見た。とわの目の色には、まだ警戒が残っている。彼は壁をつくるように、お雪さんを抱きあげた。
もういまさら、踏み込むことや拒絶されることが怖いなんて言っていられない。自分に言えることを言うだけだ。絵莉は心を固めた。息を吸って、とわを見つめながら言う。
「だから、とわくんも、泣いたっていいんじゃないかな?」
「……え」
「うさぎが鳴くんだもん。うさぎに似たとわくんが泣くのも、ふつうのことでしょ?」
とわの目が丸くなる。警戒が戸惑いに変わって、絵莉を見つめる。絵莉は精いっぱい、まっすぐな声で言った。
「泣くのはね、ふつうのことなんだよ」
「ふつう……?」
「うん。とっても、ふつうのこと」
やがて彼の戸惑いは、すがるような色をにじませた。瞳の中で感情がせめぎ合う。お雪さんを抱きしめる腕に力がこもるのがわかった。そうして抱かれているお雪さんは、そっととわに頬ずりをした。もしかしたら、そのぬくもりがとわの心をほぐしたのかもしれない。とわは泣きそうになった目で絵莉を見る。それでも、なにも言おうとしないのは、とわが頑固だからかもしれない。
でも申し訳ないが、絵莉も頑固でしつこかったりする。
「お父さんとお母さんが一緒にいてくれないの、寂しいかな?」
そっと触れたとわの頬が冷たくて、絵莉は自分のマフラーをはずしてとわの首に巻いた。お雪さんのように、とわにぬくもりをわけてあげられたらいいと思って。
「みんながうらやましい、って思っちゃう?」
「……そんな、こと」
「ない?」
「な」
ない、の簡単な二文字が、とわの口から出てこない。その代わりに、ぷくりと、とわの目の端に涙が浮かんだ。
「とわくん」
全部、教えてほしいな。抱えているもの、全部。
「ぼ、くは……」
「うん」
「ぼくは……、ただ……」
とわはマフラーに顔をうずめて、涙をこぼした。ぽとりぽとりと雫を落とし、とわの唇がふるえる。迷っているとわに、お雪さんがすり寄った。とわがはっとして、唇をきゅっとかむ。お雪さんの身体に顔をうずめて、小さく嗚咽をこぼす。
それは消え入るような、かすかな声だった。
「……び、しい」
かすかな、けれど、たしかな、とわの気持ちだった。
子どもは、真っ白な画用紙みたいなものだと思う。まわりの人間が色を落とせば、素直に受け入れて染まってしまう。
入院しているとわの母親が、とわを心配しなくていいように。もしくは、泣いているとわを泣きやませるために、だれかがそう言ったのだろうか。泣いたら、ママが心配しちゃうよ、と。だからとわは泣かないし、泣けない……?
事実、とわは自分の気持ちを押し込めてしまっているのだ。そのだれかの言葉は、とわの心に刻まれたのだろう。耐え抜くことは強さだと、絵莉も思う。でも。
でも――、それは、とわが苦しいだけだ。それではいけない、と思う。うん、よくない。よくないよ、とわくん。
絵莉は唇をぎゅっと結んだ。目も閉じて、もう一度開く。
「うさぎは鳴くよ」
飛び出した言葉は、思ったよりも大きく響いた。
「鳴かないけど、鳴くんだよ」
とわが、ぽかんと絵莉を見上げる。絵莉は表情を和らげた。
「うさぎって、寂しいときとか不安なときとか、あと怒っているときも、床をだんだんって蹴るの。お雪さんも、ときどきしてるの、見たことないかな?」
となりにいる一色がびくっと跳ねた。心当たりがあるのだろう。ふだん温厚なお雪さんが「床だん」するのは、ほぼほぼ一色を相手にしたときくらいだ。お雪さんはそんな一色を見て、ぶうっと鼻を鳴らした。困ったうさぎだ。
「鼻を鳴らすのはね、怒ってる証拠。でももうちょっと高い音で鼻を鳴らしたときは、気分がいい証拠」
とわがお雪さんを見下ろす。お雪さんは怒りを引っ込めて、とわの指先にすり寄った。ぷう、と高めの音を鳴らす。
「嬉しいときは部屋を駆け回るし、すごい高さのジャンプをすることもあるよ。もしうさぎに声があったら、すごくおしゃべりだと思う。お雪さんなんて、絶対口うるさいから」
お雪さんは一瞬耳をぴんと立てたけれど、聞き流してくれたらしい。とわの指先にじゃれつくだけだ。絵莉はそんなひとりと一羽に歩み寄った。
「ね? うさぎには声がないけど、全身で鳴くんだよ」
絵莉もお雪さんをなでながら、とわをのぞき見た。とわの目の色には、まだ警戒が残っている。彼は壁をつくるように、お雪さんを抱きあげた。
もういまさら、踏み込むことや拒絶されることが怖いなんて言っていられない。自分に言えることを言うだけだ。絵莉は心を固めた。息を吸って、とわを見つめながら言う。
「だから、とわくんも、泣いたっていいんじゃないかな?」
「……え」
「うさぎが鳴くんだもん。うさぎに似たとわくんが泣くのも、ふつうのことでしょ?」
とわの目が丸くなる。警戒が戸惑いに変わって、絵莉を見つめる。絵莉は精いっぱい、まっすぐな声で言った。
「泣くのはね、ふつうのことなんだよ」
「ふつう……?」
「うん。とっても、ふつうのこと」
やがて彼の戸惑いは、すがるような色をにじませた。瞳の中で感情がせめぎ合う。お雪さんを抱きしめる腕に力がこもるのがわかった。そうして抱かれているお雪さんは、そっととわに頬ずりをした。もしかしたら、そのぬくもりがとわの心をほぐしたのかもしれない。とわは泣きそうになった目で絵莉を見る。それでも、なにも言おうとしないのは、とわが頑固だからかもしれない。
でも申し訳ないが、絵莉も頑固でしつこかったりする。
「お父さんとお母さんが一緒にいてくれないの、寂しいかな?」
そっと触れたとわの頬が冷たくて、絵莉は自分のマフラーをはずしてとわの首に巻いた。お雪さんのように、とわにぬくもりをわけてあげられたらいいと思って。
「みんながうらやましい、って思っちゃう?」
「……そんな、こと」
「ない?」
「な」
ない、の簡単な二文字が、とわの口から出てこない。その代わりに、ぷくりと、とわの目の端に涙が浮かんだ。
「とわくん」
全部、教えてほしいな。抱えているもの、全部。
「ぼ、くは……」
「うん」
「ぼくは……、ただ……」
とわはマフラーに顔をうずめて、涙をこぼした。ぽとりぽとりと雫を落とし、とわの唇がふるえる。迷っているとわに、お雪さんがすり寄った。とわがはっとして、唇をきゅっとかむ。お雪さんの身体に顔をうずめて、小さく嗚咽をこぼす。
それは消え入るような、かすかな声だった。
「……び、しい」
かすかな、けれど、たしかな、とわの気持ちだった。
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